関 嘉彦(せき よしひこ、1912年11月19日[1] -2006年5月4日[2])は、日本の社会思想史家、政治家。旧・東京都立大学名誉教授。法学博士(京都大学・1962年)[1]。参議院議員(1期)。イギリス労働党の日本における紹介者として知られる。福岡県福岡市生まれ。
父・関嘉八郎は発電所設計に携わる技師[1]で、母は元生物学教師の豊かな家庭に長男として生まれる。1930年福岡県中学修猷館[3]、1933年旧制福岡高等学校文科乙類[4]を経て、東京帝国大学経済学部入学[5]。河合栄治郎の演習に参加し、河合の「人格主義的理想主義」に基づき、共産主義にもファシズムにも反対する態度に同感する。
1936年大学卒業後、日本生命を経て、恩師である河合の推薦により1939年5月太平洋協会調査部に勤務[1]。河合が二・二六事件から来る弾圧にも自由主義者としての節を曲げずにファシズム批判を続け、出版法違反で起訴されたため、その法廷闘争の応援活動を続けた。戦時期には陸軍軍属として太平洋協会より南方占領地調査に派遣され、北ボルネオで、ボルネオ守備軍司令部の笠間杲雄調査部長(司政長官)のもと、司政官(調査部員)として勤務した[1]。
復員後、河合の思想に基づくものとして、1946年社会思想研究会を設立し常務理事となる。出版部取締役を経て、肺結核で療養の後、1949年4月東京都立大学人文学部助教授を経て、1954年10月同教授に就任。1969年4月東京都立大学経済学部長に就任する[1]。同年、教授会が、自衛官の入学拒否と大学立法反対をそれぞれ決議することに反対して辞職。都立大学名誉教授となる。その後、東京大学、慶應義塾大学、自治大学校等で教鞭をとるとともに、1978年4月早稲田大学政治経済学部客員教授[1]。早大在職中、『文藝春秋』誌上で、森嶋通夫との間に防衛論争を繰り広げ、関・森嶋の2名で文藝春秋読者賞受賞。
また、日本社会党に属するが日常活動の低調なことに失望。1959年右派の脱党に際してはこれと行動を共にする。1960年民社党結成に参加し、同党綱領を起草すると共に、民主社会主義を掲げる同党のイデオロギー的重鎮となる。1970年から1983年まで民主社会主義研究会議議長。
1983年6月、第13回参議院議員通常選挙に民社党公認で比例区(名簿1位)から立候補、初当選。1989年7月、一期限りで政界を引退した[1]。
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