Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

長谷川峻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
曖昧さ回避長谷川堯」、「長谷川隆」、あるいは「長谷川隆 (天文学者)」とは別人です。
長谷川 峻
はせがわ たかし
生年月日1912年4月1日
出生地日本の旗宮城県若柳町
没年月日 (1992-10-19)1992年10月19日(80歳没)
死没地日本の旗東京都文京区
順天堂大学医学部附属順天堂医院
出身校早稲田大学専門部政経科
前職新聞記者
所属政党自由党→)
自由民主党石井派石原G三塚派
称号正三位
勲一等旭日大綬章
日本の旗 第47代法務大臣
内閣竹下改造内閣
在任期間1988年12月27日 -1988年12月30日
日本の旗 第54代運輸大臣
内閣第1次中曽根内閣
在任期間1982年11月27日 -1983年12月27日
日本の旗 第35・37代労働大臣
内閣第2次田中第1次改造内閣
三木内閣
在任期間1973年11月25日 -1974年11月11日
1974年12月9日 -1976年9月15日
選挙区旧宮城2区
当選回数13回
在任期間1953年4月20日 -1955年1月24日
1958年5月23日 -1992年10月19日
テンプレートを表示

長谷川 峻(はせがわ たかし、1912年4月1日 -1992年10月19日[1])は、日本政治家。位階は正三位勲一等、勲章は旭日大綬章自由民主党衆議院議員宮城県栗原郡若柳町(現在の栗原市)出身。

来歴・人物

[編集]

旧制宮城県築館中学校(現・宮城県築館高等学校)、早稲田大学専門部政経科卒業後、1933年九州日報社(現 ・西日本新聞社)に入社。記者として活躍。この頃、緒方竹虎中野正剛との知遇を得て、両雄の下で政治のイロハを学ぶ。1945年、緒方が東久邇宮内閣国務大臣に就任すると、その秘書官を務めた。内閣では総理大臣の東久邇宮稔彦王の「国民諸君から直接手紙をいただきたい」との意向のもとで緒方のアイデアにより国民からの投書を募っていたが、稔彦王がすべての手紙を読むわけにもいかず、「平衡感覚を持った人」たる元記者の長谷川が手紙の整理役を務めた[2]。また、寄せられ整理された手紙の内容を稔彦王に進講するのも長谷川の役目であったが、その長さはときに3時間にも及ぶこともあった[3]。後年に『終戦内閣 東久邇政権・五十日』(政権シリーズ:行研、1987年8月)を著した。

1947年九州日報編集局長のため、公職追放となる[4]。追放解除後の1952年の衆議院議員総選挙で宮城2区から無所属で立候補するが落選。翌1953年自由党から立候補して初当選し緒方を補佐するが、1955年の総選挙で落選、さらに翌年には首相就任を目前にして、師である緒方が急死してしまう。

1958年に国政復帰。自民党では緒方派を継いだ石井派に属す。池田勇人内閣で文部政務次官に就任。佐藤内閣では新東京国際空港(現・成田国際空港)の建設に際し、現在の空港所在地である三里塚案についての自民党政務調査会交通部会での検討に関わったとされる[5]。(→成田空港問題

1973年第2次田中角榮内閣第1次改造内閣1974年三木内閣では労働大臣1982年第1次中曽根内閣では運輸大臣[1]と大臣職を歴任した。

しかし、1988年竹下改造内閣法務大臣として入閣した直後、当時世間を騒がせていたリクルート事件に関連し、リクルートからの政治献金が発覚。任命からわずか3日後で閣僚在任期間4日間の短命閣僚となり、戦後政治史では最短在任記録歴代1位となった[注釈 1]。この退任劇は竹下内閣に少なからず影響を与えた。就任時の記者会見で「(リクルートと)ご縁がないからここに居られる」と大口をたたいたことが結果的に命取りとなった。

旧石井派が解消した後は、1979年中川一郎が中心になって旗揚げした中川派に重鎮として参加。中川派解体後は石原慎太郎らと共に福田派→安倍派へ合流した。安倍の死後、派内で起こった三塚博加藤六月の後継者争い(三六戦争)では、当時清和会座長であった長谷川の裁定で三塚を会長に推し、決着させた。

議員在職中の1992年10月19日、肝不全のため、東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去した[6]。80歳没[1]。同月21日、特旨を以て位を七級追陞され、死没日付をもって従六位から正三位勲一等に叙され、旭日大綬章を追贈された[7]追悼演説は同年12月3日、衆議院本会議で山口鶴男により行われた[6]

当選回数は通算13回。日本遺族会会長も務めた。長谷川の地盤は嫡子の章(元宮城県議会議員)が継承を画策するも、社会党や保守系無所属2名に食い込まれ落選した。

墓所は鎌倉市内の東慶寺にある。

また皇居勤労奉仕は、1945年(昭和20年)11月に、長谷川と栗原郡青年団長の鈴木徳一が同道して宮内省を訪れて宮城(現在の皇居)の清掃奉仕を申し出て認められ、長谷川と鈴木が12月に栗原の青年や女性たちをメンバーとした「みくに奉仕団」を結成して宮城内の清掃作業を行ったことがきっかけで始まり、そのことが日本全国に伝わったことで各地から現在のように奉仕団が集り、皇居や御用地などの清掃作業を行うことが定着したと言われている[8]

脚注

[編集]
[脚注の使い方]

注釈

[編集]
  1. ^亀井静香2010年6月8日金融担当大臣に任命されてわずか3日後の6月11日に金融担当大臣を辞任している。ただし、亀井は2009年9月16日に金融担当大臣に任命されて在任して、2010年6月8日の任命は金融担当大臣の再任であるため、金融担当大臣としては連続して269日間在任している。

出典

[編集]
  1. ^abc“(訃報欄)”. 交通新聞 (交通新聞社): p. 3. (1992年10月21日) 
  2. ^#袖井 (1991) pp.14-15
  3. ^#袖井 (1991) p.15
  4. ^『朝日新聞』1947年11月29日一面。
  5. ^東京新聞千葉支局/大坪景章 編『ドキュメント成田空港』東京新聞出版局、1978年、33頁。
  6. ^ab第125回国会 衆議院 本会議 第6号 平成4年12月3日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム
  7. ^『官報』第1023号6頁 平成4年10月26日
  8. ^“〈特集〉 ~皇居勤労奉仕団 発端の物語~”(HTML). 一般財団法人国民公園協会 皇居外苑. 11 January 2019. pp. 1–3. 2019年12月5日閲覧.

参考文献

[編集]
  • 袖井林二郎『拝啓 マッカーサー元帥様占領下の日本人の手紙』中央公論社〈中公文庫〉、1991年。 

関連項目

[編集]
公職
先代
林田悠紀夫
日本の旗法務大臣
第47代:1988年
次代
高辻正己
先代
小坂徳三郎
日本の旗運輸大臣
第54代:1982年 - 1983年
次代
細田吉蔵
先代
加藤常太郎
大久保武雄
日本の旗労働大臣
第35代:1973年 - 1974年
第37代:1974年 - 1976年
次代
大久保武雄
浦野幸男
議会
先代
川野芳滿
日本の旗 衆議院運輸委員長
1965年 - 1966年
次代
古川丈吉
日本の旗法務大臣 (1988年)
法務総裁
法務大臣
カテゴリカテゴリ
日本の旗運輸大臣 (1982年-1983年)
統合前
運輸大臣
建設大臣
建設院総裁
建設大臣
北海道開発庁長官
国土庁長官
統合後
2001年、運輸大臣、建設大臣、国務大臣国土庁長官は国土交通大臣に統合された。長官は国務大臣としての長官を表記。
日本の旗労働大臣 (1973年-1974年)
再編前
厚生大臣
労働大臣
厚生労働大臣

2001年の省庁再編により厚生大臣と労働大臣は統合された。

カテゴリCategory:日本の厚生労働大臣Category:日本の厚生大臣Category:日本の労働大臣
日本の旗 衆議院運輸委員長 (1965年-1966年)
定数4
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
定数3
第40回
↓:途中辞職、失職など、↑:補欠選挙で当選。
全般
国立図書館
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=長谷川峻&oldid=107717629」から取得
カテゴリ:
隠しカテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2026 Movatter.jp