 | この項目では、現在の地方公共団体(行政組織)および行政的なことについて説明しています。- 三浦半島西岸基部の地名や歴史的都市、あまり行政的ではないことについては「鎌倉」をご覧ください。
- その他については「鎌倉 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
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鎌倉市(かまくらし)は、神奈川県の南部に位置する市。人口は約17万人。三浦半島西側の付け根にあり、歴史的都市鎌倉が市域の中心にある。古都保存法の「古都」に指定されている自治体の一つである[1]。
鎌倉市は横浜市の南西、藤沢市の東、逗子市の北西に位置し、南は相模湾に面している。年間平均気温は16.9℃。三方が低い山で囲まれ、海に面する地である。かつては自然の要塞を活かして鎌倉幕府が置かれ政権の要の地となり、日本史の時代区分でもある「鎌倉時代」の由来にもなった。市章も頼朝の笹竜胆紋に由来する。今日では旧腰越町や旧大船町など、いわゆる「三方を山に囲まれた鎌倉」の外側に位置する地域も市内に含まれる。鎌倉は地域内に多くの歴史遺跡を持つ「古都」であるが、後述の通り室町時代中期以降に衰退したため「都市・鎌倉」としての歴史は連続していない。ゆえに中世以来の建造物は限られる。
江戸時代後期になると、地域内の寺社が多くの参詣客を集めるようになるが、明治初期の段階でも鎌倉大仏(高徳院)や長谷寺を擁する長谷(はせ)地区に都市的な集落が分布するのみで、現在の鎌倉市の中心市街地は形成されていなかった。明治初期、現鎌倉市域を含む鎌倉郡を管轄する郡役所は戸塚(現在の横浜市戸塚区)に置かれた。
明治中期以降、保養・別荘地として、昭和以降に観光地として改めて「都市・鎌倉」の発展を見たのである。横須賀線の開業により都内からのアクセスが向上し、戦前には多くの文学者が鎌倉に移住し、彼らは「鎌倉文士」と呼ばれた[2]。市内の55%が都市計画法における風致地区に指定されており[3]、鎌倉山など市内には高級住宅街が点在する[4]。古都保存法における指定都市でもあり、景観保護の点から土地利用に制限がかけられている[5]。また、江ノ島電鉄線(江ノ電)沿線には由比ヶ浜や七里ヶ浜などの有名海水浴場が所在し、隣接する藤沢市などの湘南地区や逗子・葉山とともにマリンスポーツが盛んなエリアである[6]。
市内を流れる河川は主な物で三本。全て二級河川である。これに支流や準用河川が加わる。
- 二級河川
- 準用河川
海域は市の南側に広がっている。南海トラフ巨大地震が発生した際には、最大8mの津波が到達することが予想されている。これは神奈川県下の市町村で最も高い値(逗子市と同値)である[7]。
鎌倉市内では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。
| 町名 | 町名の読み | 設置年月日 | 住居表示実施年月日 | 住居表示実施直前の町名 | 備考 |
|---|
| 梶原一丁目 | かじわら | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | |
| 梶原二丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | |
| 梶原三丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | |
| 梶原四丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | |
| 梶原五丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 梶原 | |
| 梶原 | 1889年4月1日 | 未実施 | | 大字梶原は住居表示未実施 |
| 鎌倉山一丁目 | かまくらやま | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | |
| 鎌倉山二丁目 | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | |
| 鎌倉山三丁目 | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | |
| 鎌倉山四丁目 | 1985年8月5日 | 1985年8月5日 | 笛田・腰越・津 | |
| 上町屋 | かみまちや | 1889年4月1日 | 未実施 | | |
| 手広一丁目 | てびろ | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | |
| 手広二丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | |
| 手広三丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | |
| 手広四丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | |
| 手広五丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | |
| 手広六丁目 | 1889年4月1日 | 2006年11月6日 | 手広 | |
| 手広 | 1889年4月1日 | 未実施 | | 大字手広は住居表示未実施 |
| 寺分一丁目 | てらぶん | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 寺分 | |
| 寺分二丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 寺分 | |
| 寺分三丁目 | 1889年4月1日 | 1983年2月7日 | 寺分 | |
| 寺分 | 1889年4月1日 | 未実施 | | 大字寺分は住居表示未実施 |
| 常盤 | ときわ | 1889年4月1日 | 未実施 | | |
| 笛田一丁目 | ふえだ | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | |
| 笛田二丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | |
| 笛田三丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | |
| 笛田四丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | |
| 笛田五丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | |
| 笛田六丁目 | 1889年4月1日 | 2000年5月8日 | 笛田 | |
| 笛田 | 1889年4月1日 | 未実施 | | 大字笛田は住居表示未実施 |
| 山崎 | やまさき | 1889年4月1日 | 未実施 | | |
由比ガ浜- 鎌倉地域
- 扇ガ谷、大町、御成町、極楽寺、小町、材木座、坂ノ下、笹目町、佐助、十二所、浄明寺、二階堂、西御門、長谷、由比ガ浜、雪ノ下、稲村ガ崎
- 腰越地域
- 腰越、七里ヶ浜、七里ガ浜東、津、津西、西鎌倉
- 深沢地域
- 梶原、鎌倉山、上町屋、手広、寺分、常盤、笛田、山崎
- 大船地域
- 今泉、今泉台、岩瀬、大船、小袋谷、台(一丁目を除く)、高野、山ノ内
- 玉縄地域
- 植木、岡本、城廻、台一丁目、玉縄、関谷
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| 鎌倉市と全国の年齢別人口分布(2005年) | 鎌倉市の年齢・男女別人口分布(2005年) |
■紫色 ― 鎌倉市 ■緑色 ― 日本全国 | ■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性 |
鎌倉市(に相当する地域)の人口の推移
| 1970年(昭和45年) | 139,249人 | | | 1975年(昭和50年) | 165,552人 | | | 1980年(昭和55年) | 172,629人 | | | 1985年(昭和60年) | 175,495人 | | | 1990年(平成2年) | 174,307人 | | | 1995年(平成7年) | 170,329人 | | | 2000年(平成12年) | 167,583人 | | | 2005年(平成17年) | 171,158人 | | | 2010年(平成22年) | 174,314人 | | | 2015年(平成27年) | 173,019人 | | | 2020年(令和2年) | 172,710人 | |
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| 総務省統計局国勢調査より |
東京都特別区部への通勤率は23.5%・横浜市への通勤率は18.5%である(いずれも平成22年国勢調査)。
当地に常住する15歳以上就業者は72,820人。うち他市区町村で従業している者は44,730人と、全体の61.4%である。他市区町村への従業先1位は東京都特別区部の17,093人、2位は横浜市の13,459人、3位は藤沢市の4,418人、4位は川崎市の1,675人、5位は横須賀市の974人である(平成22年国勢調査による)。
- 神奈川県
鎌倉市内には多くの遺跡(埋蔵文化財包蔵地[8])があるが(※特に旧鎌倉中心部はほぼ全域が遺跡のエリアとなっている[9][10])、旧石器時代~縄文時代の遺跡(東正院遺跡・玉縄城遺跡・粟船山遺跡など)は、関谷や玉縄、大船など、主に旧鎌倉の外側にあたる市域北西部に分布している[11]。
弥生時代に入ると、台地以外でも、滑川沿いの沖積地(大倉幕府周辺遺跡群)や、由比ヶ浜沿岸の砂丘(由比ヶ浜南遺跡・長谷小路周辺遺跡など)で弥生時代集落が出現する[12][13][14]。
古墳時代中頃後半(5世紀末)には、この砂丘地帯に向原古墳群という古墳群が造られ、埴輪が出土している[15]。また古代豪族「鎌倉別(かまくらのわけ)」の本拠であったと考えられており、丘陵部に横穴墓群が多数形成された[16]。鎌倉市から隣の横浜市栄区あたりまで存在している横穴墓遺跡の中には、特徴的な形をした玄室を持つものがあり[17]、旧鎌倉郡に分布しているとして「鎌倉型横穴墓」(鍛冶ヶ谷式横穴墓)と呼ぶ事がある[18][19]。また、浦賀水道の海路を介して房総半島へ抜けるルートの古東海道が通っており、古代交通の要衝であった[20]。
奈良時代から平安時代前期には、鎌倉郡の郡衙が設置された。郡衙跡は御成小学校を中心とする今小路西遺跡で、コの字形に並ぶ大型掘立柱建物や、「天平5年(733年)」銘の木簡が出土している[21]。
- 平安時代
平忠常の乱の際、平直方による鎮圧が失敗、実際に乱を征圧した源頼信の功により、その子源頼義の頃に畿内の河内国石川郡壷井(現・大阪府羽曳野市壷井)を本拠地とした河内源氏の所領となる。頼義の子で河内源氏三代目棟梁の八幡太郎義家の4代後の源頼朝が鎌倉幕府を置いて武家政権を成立させ、鎌倉街道も整備される。幕府の要職に就いた有力御家人は鎌倉に居を構え、また海に面した特徴を生かした海上交易も隆盛し、鎌倉五山なども置かれ関東における文化的中心地となる。
なお、九条兼実の日記『玉葉』の寿永2年(1183年)の記事に「鎌倉城」という言葉があることから、赤星直忠の研究以来、中世当時の鎌倉は全域が城郭都市と見なされていたとする説がある[22]。ただしこの言葉の解釈をめぐっては、赤星により防御施設遺構の例として挙げられた「お猿畠の大切岸」などに代表される山上の切岸状人工地形が、建築土木材用の石切場(採石場)であることが発掘調査で判明したことや[23]、『玉葉』での「城」という言葉が、城郭というより源頼朝(源氏)の「本拠地」という意味合いで使われているとする齋藤慎一の指摘などがあり[24]、鎌倉=城郭都市と見なすかについては諸説がある[25][24]。
- 鎌倉時代
丘陵上から臨む旧鎌倉中心部貞応3年6月28日(1224年7月16日)には北条泰時が執権に就き、連署や評定衆を置いて幕府の合議制を確立するとともに、政権を頼朝以来幕府が置かれた大倉幕府から宇都宮辻子沿いの宇都宮辻子幕府に移し、貞永元年(1232年)には御成敗式目を制定して幕府の体制を磐石なものとした(1236年(嘉禎2年)には、宇都宮辻子幕府から若宮大路幕府へ移転または改築)。
- 南北朝時代
元弘3年/正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の討幕に呼応した上野国(群馬県)の河内源氏義家流・新田義貞は、分倍河原などで鎌倉幕府を専横した桓武平氏流北条氏の兵を撃破し、鎌倉へ進撃して泰時以来の菩提寺である東勝寺で北条氏一族を滅亡させた(東勝寺合戦)。由比ヶ浜沿岸部の由比ヶ浜南遺跡や由比ガ浜中世集団墓地遺跡は、発掘調査により中世に集団墓地であったことが解っているが、1953年(昭和28年)の鈴木尚による調査では大量の刀創などのある人骨が出土している。
京都で後醍醐天皇の建武の新政が始まると義貞は召還され、京都の六波羅探題を滅亡させるなど討幕に功のあった一族の足利尊氏の弟である足利直義や一門の細川氏などが親王を奉じて下り、鎌倉将軍府が成立。北条氏一族の残党が中先代の乱を起こし鎌倉が陥落すると尊氏は討伐に向かい、そのまま新政から離反して鎌倉で恩賞の授与などを行うが、尊氏は追討に派遣された義貞らを撃破し、京での戦いに負け九州落ちした後に北朝を樹立して武家政権を設立し、鎌倉へは子の足利義詮を派遣する。足利家の内紛が観応の擾乱と呼ばれる内乱に発展すると義詮は京へ呼び戻され、代わりに尊氏の次子の足利基氏が鎌倉へ派遣されて鎌倉府を設置し、以後鎌倉公方として関東統治を行う。
- 室町時代
室町時代には鎌倉公方は幕府と対立し、鎌倉公方を補佐する関東管領とも対立したことなどにより上杉禅秀の乱、永享の乱、結城合戦などの騒乱が起こる。享徳4年(1455年)には享徳の乱で足利成氏が下総国古河へ移り古河公方を成立させたことにより鎌倉は衰退する。
- 戦国時代
戦国時代には小田原の北条早雲が鎌倉地域に進出して、玉縄城を築いて東相模地域を支配する軍事拠点とした。北条氏綱の治世時代に安房の里見氏との合戦で焼失した鶴岡八幡宮を再建。上杉謙信・武田信玄・里見氏らにより度々侵攻を受けたが、そのたびに撃退している。北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入った。
- 江戸時代
近世には江戸が東国の中心となり、江戸時代には寺社の復興が始まる。江戸の庶民によって、大山の阿夫利神社、江の島の江島神社などへの参拝を目的とした講が結成されるようになると、代参者の立ち寄り先として観光ルートに含まれるようになった。
1889年(明治22年)に東京と軍港のある横須賀を結ぶ目的で横須賀線が開通したが、その経由地となったことによって、観光地としての性格が急激に濃くなっていった。また、東京から至近の別荘地として、皇族・華族や政財界の有力者などの一部が別荘を構えるようになり、これらを相手とした観光産業が発展していった。なお、この横須賀線建設工事のため段葛は寸断された。
明治中期に観光地化される少し前の1883年(明治16年)に「衛生(えいせい)」という言葉を日本で初めて医学に使用した長与専斎が、神奈川県の鎌倉の地域の海を地形的な特徴から「海水浴場として最適」と紹介した。当時は海水浴が医療効果を持つと信じられていたため、長与の紹介も行楽的な観点からではなく医療的な観点によるものであった。今日では海水浴と医療効果との因果関係は科学的根拠に欠けるとされるが、由比ヶ浜、材木座海岸といった海水浴場は行楽客を対象に賑わい、湘南の一部として一般に認識されている。
昭和に入ると、久米正雄など、作家や文人の一部が鎌倉へ移り住むようになり「鎌倉文士」という言葉が生みだされた。また1936年(昭和11年)、松竹が撮影所を蒲田から大船に移し大船撮影所が開設されるようになると、映画関係者で鎌倉に移り住む者が増えていった。
1928年(昭和3年)の鎌倉山の分譲を嚆矢に、1930年(昭和5年)の横須賀線列車の電車化以降、戦前・戦後を通じて中流階級に向けた大規模な住宅開発が行われるようになり、東京近郊のベッドタウンとしての性格が強くなっていった。とりわけ、1950年代以降の高度経済成長期の大規模開発の波は「昭和の鎌倉攻め」とも形容される。
この時期に起こった鶴岡八幡宮裏の「御谷」開発中止を求める、作家大佛次郎を中心とした市民運動は、古都保存法制定の契機となり、異論はあるが日本におけるナショナル・トラスト運動の嚆矢ともいわれている。
市章は、源氏の家紋だったといわれる「笹りんどう」。
- 現職市長
- 2009年(平成21年)10月25日初当選(36歳、無所属)[48]、11月1日就任[49]、2013年(平成25年)10月31日退任。同年10月27日再選(40歳、無所属)[48]、11月1日再任[49]、2017年(平成29年)10月31日退任。同年10月22日再選(44歳、無所属)[48]、11月1日再任。2021年(令和3年)10月31日退任。同年10月17日再選[50](48歳、無所属)。11月1日再任。現在は4期目で、任期満了日は2025年(令和7年)10月31日。
- 歴代市長
- 出典1 -選挙管理委員会事務局 (2015年10月15日). “過去の選挙記録 - 鎌倉市の選挙”. 公式ウェブサイト. 鎌倉市. 2018年3月22日閲覧。 ※第21代まで。
- 出典2 -経営企画部秘書広報課 (2015年1月23日). “歴代市長”. 公式ウェブサイト. 鎌倉市. 2018年3月22日閲覧。 ※第22代まで。
首長の代数(歴代)の数え方は何種類もあるが、本節では (a)(b) を添える形で書き分けながら解説する。表示欄では「代(a)」「代(b)」という名で2種類を記載した。「代(a)」は、就任のあるたびにカウントする方式に基づく代数であり、「代(b)」は、同一人物による連続就任をカウントしない方式に基づく代数である。鎌倉市は「代(a)」の方式を採っているが(他の例:八王子市歴代市長、弘前市歴代市長[2]、浜松市歴代市長[3])、「代(b)」の方式を採る自治体も多く(例:京都市歴代市長[4]、大垣市歴代市長[5])、(a) と (b) の違いを認識しないまま単純に比較すると誤解が生まれる。なお、返り咲きがあろうとも同一人物を1カウントとする方式もあるが、鎌倉市にこれを当てはめると磯部が2回就任しているため、(b) の代数から 1 が引かれる。
| 代(a) | 代(b) | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
|---|
| 1 | 1 | 清川来吉 | 1940年(昭和15年)4月9日 | 1940年(昭和15年)11月16日 | 1939年(昭和14年)11月3日、鎌倉市が発足。市長が選出されて就任するまでの間は、市長職務代行者が置かれるが、旧合併特例法に基づく特例事項で都道府県知事等もしくは施行前の首長がこれを務める。鎌倉市の係る資料は確認できないが、おそらく旧鎌倉町長・清川來吉が務めた。その後、清川が選出され、初代市長に就任した。 |
| 2 | 2 | 鈴木富士彌 | 1940年(昭和15年)12月24日 | 1944年(昭和19年)12月23日 | 1期目4年を満了。 |
| 3 | 1944年(昭和19年)12月24日 | 1945年(昭和20年)12月10日 | 2期目の1周年を目前に体調を崩して辞任か。辞任のおよそ1か月後に死亡している。 |
| 4 | 3 | 磯部利右衛門 | 1946年(昭和21年)1月25日 | 1947年(昭和22年)3月25日 | 無所属。1期4年を満了せず。 |
| 5 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1951年(昭和26年)4月4日 | 無所属。1期分4年を満了。 |
| 6 | 4 | 草間時光 | 1951年(昭和26年)4月24日 | 1955年(昭和30年)4月23日 | 無所属。1期4年を満了。 |
| 7 | 5 | 磯部利右衛門 | 1955年(昭和30年)5月1日 | 1958年(昭和33年)7月17日 | 無所属。在任中に死亡[53]。 |
| 8 | 6 | 山本正一 | 1958年(昭和33年)9月3日 | 1962年(昭和37年)9月2日 | 自由民主党。1期目4年を満了。 |
| 9 | 1962年(昭和37年)9月3日 | 1966年(昭和41年)9月2日 | 自由民主党。2期目4年を満了。 |
| 10 | 1966年(昭和41年)9月3日 | 1970年(昭和45年)9月2日 | 自由民主党。3期目4年を満了。 |
| 11 | 7 | 正木千冬 | 1970年(昭和45年)9月3日 | 1974年(昭和49年)9月2日 | 鎌倉市民連合。1期目4年を満了。 |
| 12 | 1974年(昭和49年)9月3日 | 1978年(昭和53年)9月2日 | 鎌倉市民連合。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。 |
| 13 | 8 | 渡辺隆 | 1978年(昭和53年)9月3日 | 1981年(昭和56年)9月10日 | 無所属。在任中に病死[53]。 |
| 14 | 9 | 小島寅雄 | 1981年(昭和56年)11月1日 | 1985年(昭和60年)10月31日 | 無所属。1期4年を満了。 |
| 15 | 10 | 中西功 | 1985年(昭和60年)11月1日 | 1989年(平成元年)10月31日 | 無所属。1期目4年を満了。 |
| 16 | 1989年(平成元年)11月1日 | 1993年(平成5年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。3選を目指すも落選。 |
| 17 | 11 | 竹内謙 | 1993年(平成5年)11月1日 | 1997年(平成9年)10月31日 | 鎌倉を愛する市民の会。1期目4年を満了。 |
| 18 | 1997年(平成9年)11月1日 | 2001年(平成13年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。 |
| 19 | 12 | 石渡徳一 | 2001年(平成13年)11月1日 | 2005年(平成17年)10月31日 | 2001年(平成13年)10月21日、48歳で初当選[48]。無所属。1期目4年を満了。 |
| 20 | 2005年(平成17年)11月1日 | 2009年(平成21年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。3選は目指さず。 |
| 21 | 13 | 松尾崇 | 2009年(平成21年)11月1日 | 2013年(平成25年)10月31日 | 2009年(平成21年)10月25日、36歳で初当選[48]。無所属。1期目4年を満了。 |
| 22 | 2013年(平成25年)11月1日 | 2017年(平成29年)10月31日 | 無所属。2期目4年を満了。 |
| 23 | 2017年(平成29年)11月1日 | 2021年(令和3年)10月31日 | 無所属。3期目4年を満了。 |
| 24 | 2021年(令和3年)11月1日 | ( 現 職 ) | 無所属。現在は4期目で、任期満了日は2025年(令和7年)10月31日。 |
- 市役所
- 鎌倉市役所 - 御成町18-10に所在。
- 深沢支所 - 常盤111-3に所在。
- 腰越支所 - 腰越864に所在。
- 大船支所 - 大船2-1-26に所在。
- 1970年(昭和45年)に革新市長・正木千冬が誕生すると、勧奨退職金の最高額を90ヶ月分から130ヶ月分にまで大幅にアップした[54]。これを受けて、1980年代には市職員が各省事務次官をしのぐ5千万円以上の高額退職金をもらう事例が続出し、「退職金日本一のお役所天国」と揶揄された。
- 2012年(平成24年)4月頃から2年間にわたり、市役所の生活福祉課の生活保護相談窓口の前に棚や衝立などを設置し、窓口を利用できない状態にしていたことが発覚した[55][56]。隣の窓口で生活保護相談を受け付ける旨の表示はあったが、同課を訪れた市民が窓口で引き返した例もあり、支援団体からの指摘を受けて窓口を再開した。松尾崇市長はツイッター上で本件について謝罪した[57]。
- 選挙区:鎌倉市選挙区
- 定数:2人
- 任期:2019年4月30日 - 2023年4月29日
- 投票日:2019年4月7日
- 当日有権者数:148,003人
- 投票率:39.78%
| 候補者名 | 当落 | 年齢 | 党派名 | 新旧別 | 得票数 |
|---|
| 永田磨梨奈 | 当 | 36 | 自由民主党 | 新 | 20,900票 |
| 飯野眞毅 | 当 | 47 | 立憲民主党 | 新 | 18,735票 |
| 三宅真里 | 落 | 61 | 神奈川ネットワーク運動 | 新 | 10,979票 |
| 岩田薫 | 落 | 66 | 諸派 | 新 | 6,623票 |
- 選挙区:神奈川4区(横浜市栄区、鎌倉市、逗子市、三浦郡)
- 任期:2021年10月31日 - 2025年10月30日
- 投票日:2021年10月31日
- 当日有権者数:332,708人
- 投票率:61.70%
- 税務署
- 検察庁
- 鎌倉区検察庁 - 庁舎は横浜地方検察庁本庁舎(横浜市中区日本大通9)内に所在。管轄区域は、鎌倉市、横浜市(戸塚区、栄区、泉区)。
- 鎌倉警察署(由比ガ浜2-11-26)
- 交番 -鎌倉駅前交番など、9ヶ所。鎌倉市南部
- 駐在所 - 6ヶ所。
- 大船警察署(大船1709-2)
- 交番 - 大船駅前交番など、4ヶ所。鎌倉市北部
- 駐在所 - 今泉駐在所のみ。
- 本部
- 消防署
- 鎌倉消防署 -由比ガ浜4-1-10に所在。
- 腰越出張所 -腰越4-9-12に所在。
- 深沢出張所 -手広1-16-12に所在。
- 浄明寺出張所 -浄明寺6-2-7に所在。
- 七里ガ浜出張所 -七里ガ浜東1-2-5に所在。
- 大船消防署 - 大船3-5-10に所在。
- 玉縄出張所 -玉縄2-5-2に所在。
- 今泉出張所 -今泉2-4-25に所在。
- 消防団
医療提供施設は特筆性の高いもののみを記載する。急患診療所以外の医療提供施設の記載順は「#町名」節の記載順を基準としている。
- 一次医療圏
湘南鎌倉総合病院- 鎌倉市医師会休日夜間急患診療所 -材木座3-5-35に所在。
- 額田記念病院 -総合病院。大町4-6-6に所在。
- 清川病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。小町2-13-7に所在。
- 鎌倉ヒロ病院 - 救急指定病院(輪番制)。材木座1-7-22に所在。
- 鎌倉病院 - 救急指定病院(輪番制)。長谷3-1-8に所在。
- 医療法人社団 南浜会 鈴木病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。腰越1-1-1に所在。
- 湘南記念病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。笛田2-2-60に所在。
- 大船中央病院 - 総合病院。救急指定病院(輪番制)。大船6-2-24に所在。
- 湘南鎌倉総合病院 - 総合病院。救急指定病院(鎌倉市唯一の救命救急センター)。岡本1370-1に所在。
- 広域医療圏
鎌倉市が属する広域医療圏は、二次医療圏(二次保健医療圏)としては「横須賀・三浦医療圏(横須賀・三浦保健医療圏)」(管轄区域:横須賀市、鎌倉市、逗子市、三浦市、葉山町)[59][60][61]である。三次医療圏は「神奈川県医療圏」(管轄区域:神奈川県全域)。
鎌倉郵便局
大船郵便局- 鎌倉郵便局 -小町1-10-3に所在。
- 鎌倉材木座郵便局 -材木座3-17-30に所在。
- 鎌倉浄明寺郵便局 -浄明寺3-2-20に所在。
- 鎌倉長谷郵便局 -長谷1-15-11に所在。
- 鎌倉由比ヶ浜郵便局 -由比ガ浜3-9-45に所在。
- 鎌倉雪ノ下郵便局 -雪ノ下1-10-6に所在。
- 鎌倉稲村ガ崎郵便局 -稲村ガ崎1-15-18に所在。
- 腰越郵便局 -腰越3-1-23に所在。
- 鎌倉津西郵便局 -津西1-1-14に所在。
- 西鎌倉郵便局 - 西鎌倉1-3-4に所在。
- 鎌倉梶原郵便局 -梶原2-34-8に所在。
- 深沢郵便局 -常盤60-3に所在。
- 鎌倉手広郵便局 -笛田1-8-4に所在。
- 鎌倉今泉台郵便局 -今泉台4-19-17に所在。
- 大船ルミネウィング内郵便局 -大船1-4-1 大船ルミネウィング内に所在。
- 大船郵便局 - 大船2-20-23に所在。
- 鎌倉大船三郵便局 - 大船3-15-29に所在。
- 鎌倉台郵便局 -台3-11-21に所在。
- 鎌倉小坂郵便局 -山ノ内739に所在。
- 鎌倉植木郵便局 -植木580に所在。
- 鎌倉岡本郵便局 -岡本2-12-4に所在。
- 鎌倉市中央図書館 - 御成町20-35に所在。
- 鎌倉市大船図書館 - 大船2-1-26に所在。
- 鎌倉市玉縄図書館 - 岡本2-16-3に所在。
- 鎌倉市深沢図書館 - 常盤111-3に所在。
- 鎌倉市腰越図書館 - 腰越864に所在。
- 姉妹都市
- 姉妹都市
鎌倉市は三方を山に囲まれているため市外からの電波が入りにくく、古都保存法によって新たな中継局設置も困難なことから、地上デジタル放送の難視聴世帯が多く発生すると見られている。これに対し、市ではケーブルテレビによる解決を図っている[62]。
- テレビ放送
- ラジオ放送
- 上水道
- 下水道
- 山崎浄化センター -山崎354-2に所在。大船、今泉、玉縄、植木などの地域の汚水を処理するための下水道終末処理場。放流先水域は、山崎川雨水幹線。1993年(平成5年)6月1日運転開始[40]。
- 七里ガ浜浄化センター -七里ガ浜東5-3-1に所在。鎌倉旧市街、七里ガ浜、腰越、西鎌倉などの地域の汚水を処理するための下水道終末処理場。放流先水域は、七里ガ浜雨水幹線(行合川)。1972年(昭和47年)3月15日運転開始[40]。
- 清掃
- 名越クリーンセンター -大町5-11-16に所在[64][44]。
- 今泉クリーンセンター -今泉4-1-1に所在。
- 深沢クリーンセンター -笛田3-24-1に所在。
- 笛田リサイクルセンター - 笛田1-11-34に所在。
- 最終処分
名越クリーンセンターと今泉クリーンセンターから発生する焼却残渣は、2000年(平成12年)4月以降は全量を溶融固化処理を行っており、最終処分場での埋め立ては行われなくなった[44]。
- 鎌倉市では、「鎌倉市奨学金制度」という奨学金制度がある。
- 公立
- 私立
- 公立
- 鎌倉市立第一中学校
- 鎌倉市立第二中学校
- 鎌倉市立大船中学校
| - 鎌倉市立岩瀬中学校
- 鎌倉市立玉縄中学校
- 鎌倉市立御成中学校
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- 国立
- 私立
- 公立
- 国立
- 私立
大船駅
国道134号
県道21号(若宮大路)鎌倉市の交通については、鉄道は市の規模に対して充実している反面、道路については地形の特性上行き止まりが多く、交通は限られた路線に集中する上、幅員も狭く歩行者・自動車の分離も不十分でかつ計画道路整備率が県内平均に劣っていることなど、交通安全上・渋滞面で課題を抱えており、特に休日や海水浴シーズンには市内各所で激しく渋滞する。バス路線は地域内を網羅しサービス水準は高いものの、前述の道路面の課題に影響され定時性の確保が課題となっている[65]。
この道路渋滞を少しでも緩和するため駐車上の整備とともにパークアンドライドが2001年度から本格実施されている。また、参拝客が集中する年末年始にかけては市内中心部(いわゆる鎌倉)を中心に大規模な交通規制が実施される。
- 東日本旅客鉄道(JR東日本)
東海道線・■上野東京ライン・
湘南新宿ライン
横須賀線・
湘南新宿ライン
京浜東北・根岸線- 湘南モノレール
- ■江の島線
- 江ノ島電鉄 (江ノ電)
EN江ノ島電鉄線
オムニバスタウン政策をとっていることもあり、コミュニティバスの普及も見られる。
明治・大正期に隆盛を極めたが、自動車の普及で衰退して一時途絶したものの、人力車は市内観光用として昭和末期に復活した[66]。現代では個人営業以外に人力車を運用する企業も市内に存在する。
同様に観光馬車も復活しているが、複数の車が営業を行っている人力車に比べるとマイナー存在である。
- 人力車
- 鎌倉有風亭 -1983年、鎌倉で最初に人力車を復活させたパイオニア。人力車屋業界では箱根以東で、もっとも歴史が古い店舗。
- 鎌倉力車 - 東京都台東区(浅草)にある東京力車の系列会社。
- 人力車えびす屋鎌倉 -1992年に京都で創業された人力車会社、えびす屋の系列店。同店は鎌倉店以外に京都東山、小樽、浅草、宮島、倉敷、関門、湯布院に店舗が存在。
- 国道
- 県道
鎌倉市は、横浜ナンバー(神奈川運輸支局)を割り当てられている。
- 横浜ナンバー割り当て地域
- 横浜市・鎌倉市・逗子市・横須賀市・三浦市・三浦郡(葉山町)
バイクの場合は、江ノ電が描かれたご当地ナンバープレートが存在する。
年間延べ観光客数は約1,902万人。以下に主要な名所などを掲げる。なお、国宝・国指定文化財は216件であり、鎌倉の歴史的建造物群には「武家の古都・鎌倉」として、日本の世界遺産暫定リストに登録されているものがある。
銭洗弁財天宇賀福神社
釈迦堂切通し/浄明寺側より望む。通行禁止前
円覚寺舎利殿/国宝
鶴岡八幡宮 流鏑馬- 鶴岡八幡宮で催される祭事については、当該項目も参照のこと。
- 東日本大震災復興祈願祭(3月)
- 鎌倉祭り(4月)
- 夏越(なごし)祭り(8月)
- ぼんぼり祭り(8月)
- 鶴岡八幡宮秋期例大祭(9月)
- 面掛行列(9月)
- 御鎮座記念祭(12月)
- 鎌倉祭りと鶴岡八幡宮秋期例大祭では、流鏑馬が奉納される(画像を参照)。
水中花火(鎌倉花火大会)- 1949年(昭和24年)より開始。材木座・由比ヶ浜海岸を会場とし、海岸に打ち上げ用の船を停泊させて海上から花火を打ち上げる水上花火・水中花火がある[35]。
「#鎌倉文士」も参照。
国木田独歩は1902年(明治35年)に鎌倉を訪れ、最初は御霊神社内の貸家に居を構えたが友人の押川春浪が紹介した貸別荘が気に入って賃貸することにし、後に代表作の一つとなる『運命論者』をここで執筆した。間もなく、妻子を呼び寄せ、「鎌倉ほど住みやすい所はない」「風光明媚なる為、どうしても(鎌倉を)離れられない」と述べたが、数ヶ月後に就職口が見付かって帰京することになる[68]。
その後、『鎌倉夫人』や『空知川の岸辺』、『非凡の凡人』などの諸作品を執筆するが、1908年(明治41年)に、結核によってこの世を去った。享年38歳。
芥川龍之介は、1916年(大正5年)7月に東京帝国大学(現・東京大学)英吉利文学科を卒業した後、恩師の紹介で横須賀にある海軍機関学校英語教授嘱託として12月付けで赴任することになり、東京から鎌倉町和田塚(現・由比ガ浜4-8付近)へ転居して、江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)沿線で下宿生活を始める。
その後1917年(大正8年)9月にいったん横須賀市汐入町へ転居したが、1918年(大正7年)3月になって大町字辻の小山別邸内に借家として新居を構え、1919年(大正8年)3月末に海軍機関学校を退職し、田端の自宅(東京府北豊島郡滝野川町田端、現在の東京都北区田端1-19-18。田端文士村も参照)に戻るまで暮らした。
おおよそ1917年から1919年までの間、芥川が生活と文筆活動の本拠を鎌倉に置いたことは、1923年(大正12年)の関東大震災発生以降に文化人が鎌倉へ移住し「鎌倉文士」と呼ばれた時代の先駆けとされる。
大佛次郎は、1921年(大正10年)2月に妻となる女優の吾妻光(本名・原田酉子)と学生結婚するのを機に鎌倉へ移住し、鎌倉女学校(現在の鎌倉女学院)で教鞭を執った。大佛と言えば『鞍馬天狗』をはじめとする娯楽小説の大家として有名であるが、これは関東大震災の影響で文芸界が劇作家をやれる状況でなくなり、困窮した大佛が時代劇娯楽小説、通称「マゲもの」に手を出さざる得なかったためだが、これが当たって以後、次々に作品が生まれ出ることとなる。大佛次郎のペンネームも鎌倉の大仏にちなむもの、当時は長谷大仏の裏に住んでいたところから、「マゲもの」掲載時にペンネームを求められた際にあわてて名付けたとされる[69]。
流行作家となった大佛は、鎌倉でたびたび転居し住まいを変えているが、これは生来の猫好きが原因だったようで、ひととき住んでいた材木座の借家は退去する際、畳を変えた上に襖や障子も新調し「小説家というのは感心な者だ」と家主に褒められたが、実際には十数匹の飼い猫が残した惨状を回復するためそうせざる得なかったという[70]。この家を退去後、1928年(昭和4年)に雪ノ下(神奈川県鎌倉市雪ノ下1丁目11-22)に新居を構えたが、これが大佛の終の住まいとなった。1945年(昭和20年)に鎌倉文庫設立の参加や、研究社の『学生』の主筆となり、1949年(昭和24年)まで「鎌倉通信」を連載し、財団法人鎌倉風致保存会の設立発起人及び初代理事を務めた際にもここを住まいとしていた。この鎌倉の邸宅は大佛の没後、「大佛茶廊」として2019年8月まで週末のみ一般公開されていた[71]。
1973年(昭和48年)に病没した。没後は鎌倉扇ヶ谷の寿福寺に葬られた。
- 植木シャトーズ(鎌倉リーグ1部)
- 鎌倉第一スターズ(鎌倉リーグ1部)
- 三菱電機 鎌倉(鎌倉リーグ1部)
- EST(鎌倉リーグ1部)
- 深沢ピジョンズ(鎌倉リーグ1部)
- ゼオン梶原(鎌倉リーグ1部)
- サンダース V(鎌倉リーグ1部)
- 腰越ソフトボールクラブ(鎌倉リーグ1部)
- SKAP(鎌倉リーグ2部)
- HolyBacchus(鎌倉リーグ2部)
- 御成倶楽部(鎌倉リーグ2部)
- 西鎌倉ベアーズ(鎌倉リーグ2部)
- クマーズ(鎌倉リーグ2部)
- FUNKEES(鎌倉リーグ2部)
- 稲村アロハビアーズ(鎌倉リーグ2部)
- シーガルズ(鎌倉リーグ2部)
- 鎌倉サンライズ(鎌倉リーグ3部)
- ESTプレミアム(鎌倉リーグ3部)
- ISG・UFO(鎌倉リーグ3部)
- Cool Wave(鎌倉リーグ3部)
- ナスラック(鎌倉リーグ3部)
- トータス(鎌倉リーグ3部)
- 七里ガハマーズ(鎌倉リーグ3部)
- ウラニワーズ(鎌倉リーグ3部)
- MSC(鎌倉リーグ3部)
- 鎌倉エンジェルス(鎌倉リーグ)
- 深沢レグルス(鎌倉リーグ)
鎌倉文士も参照。
基本的に五十音順で表記。
注記のないものは連載終了した作品
秋田書店
- 『吸血姫美夕』(ヴァンパイア ミユ)垣野内成美(サスペリアに不定期掲載) - 主人公がヴァンパイアとして覚醒する場所が鎌倉である。
- 『侵略!イカ娘』(安部真弘』(週刊少年チャンピオン連載) - 主要キャラの相沢千鶴と嵐山悟郎のデートの待ち合わせ場所に鎌倉駅と駅前の時計塔の描写がある。
- 『花右京メイド隊』もりしげ(月刊少年チャンピオン) - 主人公の太郎が観光で訪れる回がある。江ノ島から鎌倉高校駅前付近にかけての海岸線を散策し、鶴ヶ岡八幡宮や江ノ電も登場。
角川書店
講談社
集英社
小学館
スクウェア・エニックス
芳文社
その他の出版社(作品名順)
- ^大正時代(1912-1926年)の中期ということで、記載位置は1919年とする。
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| 北海道地方 | - 北海道(北海道価値を生かした広域SDGsモデルの構築)
- 札幌市(次世代の子どもたちが笑顔で暮らせる持続可能な都市・「環境首都・SAPP︶RO」)(北海道)
- ニセコ町(環境を活かし、資源、経済が循環する自治のまち「サスティナブルタウンニセコ」の構築)(北海道)
- 下川町(未来の人と自然へ繋ぐしもかわチャレンジ2030)(北海道)
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| 東北地方 | - 東松島市(全世代グロウアップシティ東松島)(宮城県)
- 仙北市(IoT・水素エネルギー利用基盤整備事業)(秋田県)
- 飯豊町(農村計画研究所の再興『2030年も「日本で最も美しい村」であり続けるために』)(山形県)
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| 関東地方 | - つくば市(つくばSDGs 未来都市先導プロジェクト)(茨城県)
- 神奈川県(いのち輝く神奈川 持続可能な「スマイル100歳社会の実現」)
- 横浜市(SDGs未来都市・横浜 〜"連携"による「大都市モデル」創出〜)(神奈川県)
- 鎌倉市(持続可能な都市経営「SDGs 未来都市かまくら」の創造)(神奈川県)
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| 中部地方 | - 富山市(コンパクトシティ戦略による持続可能な付加価値創造都市の実現)(富山県)
- 珠洲市(能登の尖端"未来都市"への挑戦)(石川県)
- 白山市(白山の恵みを次世代へ贈る「白山SDGs未来都市2030ビジョン」)(石川県)
- 長野県(学びと自治力による「自立・分散型社会の形成」)
- 静岡市(「世界に輝く静岡」の実現 静岡市5大構想×SDGs)(静岡県)
- 浜松市(浜松が「五十年、八十年先の『世界』を富ます」)(静岡県)
- 豊田市(みんながつながる ミライにつながるスマートシティ)(愛知県)
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| 近畿地方 | - 志摩市(持続可能な御食国の創生)(三重県)
- 堺市(「自由と自治の精神を礎に、誰もが健康で活躍する笑顔あふれるまち」)(大阪府)
- 十津川村(持続可能な森林保全及び観光振興による十津川村SDGs構想)(奈良県)
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| 中国地方 | - 岡山市(誰もが健康で学び合い、生涯活躍するまちおかやまの推進)(岡山県)
- 真庭市(地域エネルギー自給率100% 2030"SDGs"未来杜市真庭の実現〜永続的に発展する農村村のモデルを目指して(私がわたしらしく生きるまち)〜)(岡山県)
- 広島県(SDGsの達成に向けて平和の活動を生み出す国際平和拠点ひろしまの取り組みを加速する〜マルチステークホルダー・パートナーシップによるSDGsの取り組みの強化〜
- 宇部市(「人材が宝」みんなでつくる宇部SDGs推進事業〜「共存同栄・協同一致」のさらなる進化〜(山口県)
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| 四国地方 | - 上勝町(SDGsでSHLs(Sasutenaburu Happy Lives)持続可能な幸福な生活)(徳島県)
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| 九州地方 | - 北九州市(北九州市SDGs未来都市)(福岡県)
- 壱岐市(壱岐活き対話型社会「壱岐(粋)なSociety5.0」)(長崎県)
- 小国町(地熱と森林の恵み、人とのつながりがもたらす持続可能なまちずくりを目指して)(熊本県)
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