| 忠遜王 銭弘倧 | |
|---|---|
| 呉越 | |
| 第4代王 | |
| 王朝 | 呉越 |
| 在位期間 | 天福12年6月13日 -12月30日 (947年7月3日 -948年2月12日) |
| 都城 | 銭塘(杭州) |
| 姓・諱 | 銭弘倧 |
| 字 | 隆道 |
| 諡号 | 忠遜王 |
| 生年 | 宝正3年(928年) |
| 没年 | 開宝4年(971年) |
| 父 | 文穆王 |
| 母 | 魯国夫人 |
銭 弘倧(せん こうしゅう)は、十国呉越の第4代王。文穆王銭元瓘の七男。
天福12年(947年)、兄の忠献王銭弘佐が薨去したが、その子が幼少であったため銭弘倧が王位を継承した。当時は遼の太宗耶律堯骨が後晋を滅亡させて中原を占拠しており、呉越もその臣と称していたが、遼軍の撤退後は後漢に臣従してその正朔を奉じている。
忠献王の在位時は、王が幼少であったことに乗じて諸将の専横があったため、即位した忠遜王は諸将を抑制する政策を実施した。しかし改革が性急過ぎたため、自らの地位に危機感を抱いた内牙統軍使胡進思らの反発を招いた。天福12年12月30日(948年2月12日)、胡進思らは夜宴に乗じて政変を起こし、忠遜王は軟禁され、異母弟の銭弘俶(忠懿王)が擁立された。胡進思は間もなく病没したが、忠遜王の軟禁状態は継続することとなる。
広順元年(951年)、忠懿王は忠遜王を東府越州に移し、その地に宮殿を造営して厚遇している。後の政変を防ぐために臣下が殺害を勧めたが、忠懿王は泣いて拒否した。
子の銭惟治・銭昆・銭易は忠懿王に引き取られて養子として育てられ、宋に帰順後は共に進士となり、官僚として宋に仕えた。
この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。 |