架空電車線方式によって電化された鉄道。架線支持装置が並ぶ。鉄道の電化(てつどうのでんか)とは、鉄道の動力を電気にすることである。電化された路線では、動力に電気を使用する電気機関車や電車が用いられる。そのため、燃料や水を車両に積載する必要がない。電化方式は世界でいくつかの種類が存在する。
鉄道において電気動力は、蒸気機関や内燃機関に比べエネルギー効率で優れ、速度向上や快適性向上といった輸送サービス改善にも向くが、地上側に数々の電気設備が必要となり、それらの障害による停電には弱い。
車両外から電気を取入れるものが一般的で、車両外から電気を送ることを「饋電」(きでん)と呼び、車両側でその電気を取入れることを「集電」(しゅうでん)と呼ぶ[1]。集電方式は架空電車線方式と第三軌条方式の2つに大別される。また、電源の電流は直流を用いるものと交流を用いるものの2種類に分かれる[2]。なお、車両に蓄電池等の電源を搭載するものや、ケーブルカー(鋼索鉄道)・超電導リニアのような車両側に走行用電力が不要なものも存在する。
外部から取入れた電力は、主電動機の種類に応じて車両内で変換した上で使用される。
- 直流饋電
- 長所
- 複数の鉄道変電所から同時に並列して給電できるので、事故や工事等でも冗長性がある。
- 車両に大型の変圧器を搭載しなくて済むので、構造が簡単で軽く、交流区間を走る車両よりも安価。
- 最近まで主流であった直流整流子電動機がそのまま使用できた。
- 短所
- 車両側で変圧するには向かないので、電動機の電圧に合わせることが求められるため、高電圧/小電流にはできず、低電圧/大電流では送電ロスが大きくなる[注釈 1]。また、送電ロスを減らすために鉄道変電所を10~20km間隔で多く設ける必要がある[2]。
- 大電力を供給できないので、高速鉄道や重貨物列車を走らせる路線には不向き。
- 直流に変換する鉄道変電所は機器が割高になる[2]。
- 交流饋電
- 長所
- 変圧器を用いて、主電動機に加える電圧を容易にロスなく制御できる[2]。
- 高電圧/小電流にできるので送電ロスが少なく、大電力が供給でき変電所も30~50km間隔と少なくてすむ[2]。
- 短所
- 直接饋電方式という単純な交流饋電では、電線からの電磁波によって周囲の通信線へ障害を及ぼす「通信誘導障害」と呼ばれる現象が起きやすい。BT饋電やAT饋電等の工夫が行われる[1]。
- 車両に搭載する機器コストが高額となりやすい[2]。既に直流電化が普及している地域では、交直接続等の維持コストも必要となり、高額となる。そのため直流電化が普及した地域での部分的な交流電化は、全て直流化した時よりも総コストは大きくなる傾向にある。
ヨーロッパの電化方式の大まかな範囲はこのようになる 直流750V
直流1500V
直流3000V
交流15000V
交流25000V
非電化
もっとも一般的な電圧として、6種類が欧州および国際標準化のために策定されている。この他にも、世界では他の電圧による電化線が多く存在してる。
ヨーロッパ規格(EN)50163と[3] 、国際電気標準会議(IEC)[4]においては、以下が規格化されている。
| Electrification system | 電圧 |
|---|
最低 一時的 | 最低 常用 | 通常 | 最大 常用 | 最大 一時的 |
|---|
| 直流600 V | 400 V | 400 V | 600 V | 720 V | 800 V |
| 直流750 V | 500 V | 500 V | 750 V | 900 V | 1,000 V |
| 直流1,500 V | 1,000 V | 1,000 V | 1,500 V | 1,800 V | 1,950 V |
| 直流3 kV | 2 kV | 2 kV | 3 kV | 3.6 kV | 3.9 kV |
| 交流15 kV, 16.7 Hz | 11 kV | 12 kV | 15 kV | 17.25 kV | 18 kV |
交流25 kV, 50 Hz (EN 50163) 及び 60 Hz (IEC 60850) | 17.5 kV | 19 kV | 25 kV | 27.5 kV | 29 kV |
元々鉄道は人力若しくは馬力を使ったトロッコのようなものから始まり、その後蒸気機関車開発等もあったが、電気鉄道は1879年にドイツのジーメンスがベルリン博覧会で軌間490mm・総距離300mほどの小さな線路(なお、集電はこの間にある第3軌条から行った)に外部集電で電気を取る機関車を走らせたのが始まりとされる[5](これ以前にも電気鉄道を考案した人はいたが、いずれも「電気動力車に電池を搭載する」という形式で電池容量に乏しく重量もかさむため実現の日の目を見なかった[6])。こうした見世物的ではない電車営業運転は、1881年のドイツのベルリンにおける路面電車が最初であったといわれる[7]。
電化は当初どこでも大都市の交通としての路面電車や地下鉄に採用されており、電気方式は600V直流を送電して軌道上に架線を設ける(路面電車)か軌道の片側に第3レールを設ける(地下鉄)のが一般的だった。このように輸送機関に対する電気の応用は良い成績を示したので次に汽車の電化[注釈 6]が問題となるに至った[19]。
20世紀初頭になるとそれまで路面電車に使用されていた500-600Vよりはるかに高圧の交流電流が商用に供給されるようになったが、こうした交流送電における一般の電力の50~60Hzは(当時の)機関車の電動機に使いにくかったので、路面電車などで行われた「電流を変換し直流で使用する」か、3000V15Hzという「比較的電動機に使いやすい低周波数の三相交流を使う」案が生まれたものの、三相交流による交差点の架線複雑化や三相交流電動機が使いにくい[注釈 7]が懸念され、ここから交流送電は後にイタリアで見られる「それでも三相交流低周波数を使う[注釈 8]」かスイスで新しく見られた「はるかに高電圧(1万5千V)の単相交流を使う」という2案に分かれ、高電圧単相交流はその後ドイツやオーストリアにも普及した[11]。しかしこの単相交流は駆動用に適した交流整流子電動機には商用周波数では整流が困難であったため低周波数の交流を使う(低周波交流饋電方式)必要性があり、このためほかと融通の利かない鉄道独自の電源が必要になるという問題があった[16]。
1910年(明治43年)頃までには(欧州)各国で汽車の電化計画が盛んになったが、煙害根絶目的のために電化したごく一部の地域(サンゴッタルドトンネル等)を除き「石炭の輸入若しくは移入を抑えるため水力等[注釈 9]でも得られる電力で鉄道を走らせる」という経済的な目的で始めたので、まず周到に採算性の計算を行ったところ、この時は大半の国で否定的な結論が出ており、後に電化大国になるスイス等でも1912年の調査報告で「いずれの線路でももっと運輸量が増加して施設の利用率が良くなるまでは、電化が利益になる路線はない」と結論を下している[注釈 10]。他ヨーロッパ諸国で電化されたのは元々石炭がルール地方から移入して高価だったバイエルン山間部(山の水力発電所近くなので電力は安い)やプロイセンのデッソーからビッターフェルトの試験的な電化区間、スウェーデンの北部線(元々鉄鉱石輸送が盛んで、水力も利用でき、北極圏のため蒸気機関車が不利だった)等ごく僅かであった[20]。
こうした「長距離鉄道の電化は経済的でない」とされた理由には、朝倉希一によると以下のような理由が挙げられている[21]。
- 電力は備蓄できないので、多忙期と閑散期で輸送量が激しく変動する鉄道では電力消費量が大きく変わり、電力荷重として好ましくない。
さらに通常の電力として使われる三相交流は架線が2本必要なので複雑化するので、単相交流を使いたい[注釈 11]がこれでは特別の発電所が必要でほかと融通がない。 - 電気機関車の構造について信用が十分ではない(朝倉自身、日本の例でイギリスから輸入した電気機関車の不具合が電化の遅れにつながったとしている[注釈 12])。
- 都市近郊なら列車加速度や列車単位増大による輸送量増加を見込めるが、長距離鉄道ではそこまで増発が見込めない。
一方、アメリカでは私鉄各自の判断で大規模な電化に踏み切った物もあり、長距離鉄道の送電に単相交流方式のほかに直流高圧(3000V程度)の送電方式も選ばれ、1913年にこの直流3000V電化方式に成功したシカゴ・ミルウォーキー鉄道は1917年からシカゴからロッキー山脈やシエラネバダ山脈を越える710㎞近くにも及ぶ電化区間(当時世界最長)を設置し、1920年には太平洋岸の350㎞の電化も済ませ、こうした電化で煙からの解放のほかに運転時間20%短縮や回生ブレーキによる山越えのエネルギー回収(20 - 25%ほど)というメリットもあったものの、運転費そのものは蒸気機関車時代の方が安く済んでいたと判明した(鉄道会社の方では多少電力費が高コストになっても電化による乗客数増加等を期待していた[注釈 13])。その後、アメリカ合衆国ではミルウォーキー鉄道のような長距離電化はあまり考えられず、電化区間ごとに機関車をつけ変えていては大変なので、直通できる電気式ディーゼル機関車牽引で通しで走るようになった[22]。
一方、アメリカ以外の各国で鉄道電化が盛んになったのはスイスやイタリア等を除くと[注釈 14]1945年以後で、オランダのような殆ど鉄道が壊滅した国では戦争で破壊されたシステム復旧が必要で、他の国でも自国産の動力源を使いたいと考えていたことで電化が大きなうねりとなった[23]。
ヨーロッパでは元々電化が進んでいたイタリアでは戦前から前述の3000V直流饋電を採用して三相交流から徐々に切り替えていたが、戦後、残存三相交流路線を直流3000Vに交換して電化の統一を行うことに決定し、これによってまず戦火にやられた路線が補修時に直流に変更され、次いでモダーヌ-トリノ-ジェノヴァ線、ジェノヴァ -ヴェンティミーリア線、ジェノヴァ-ヴォゲーラ線、ボルツァーノ-ブレンネロ線などが1960年代までに変更された。最後まで三相交流方式が残ったのはピエモンテ州南部の地方路線で1970年代半ばだった。
ドイツは戦争の痛手が大きく[注釈 15]、東西分裂等の悪影響もあったが、それでも戦前通り単相交流15000V 16・2/3Hzによる電化を広げていった。
イギリスは自国内に大きな炭鉱があることもあって電化の経済的メリットが薄く、大都市周辺と南部に電化区間が集中し、全体では暫く蒸気機関車時代が続いた後、1955年にディーゼル機関車による動力近代化計画を発表した。
フランスはパリ-リヨン線を1946年に直流1500V電化を行って同国南部の路線にも拡大したが、25000V50Hz電化も検討し始め、1951年のエクスレバン-ラロシュ・シュル・フォロン間48マイル(78㎞)を試験的に電化し、水銀整流器と直流電動機の組み合わせた機関車が成功し、南部(その後もかなり直流1500V)より電化が遅れたフランス北部はこの方式で電化された[24]。世界的に交流電化が広がるきっかけになったのは、この単相商用交流饋電の成功からで、その後全域とまでは行かなくとも新規幹線にこれを採用した国がコンゴ(1952)、ポルトガル(1955)、インド(1958)、イギリス(1959)、ソ連、ハンガリー、中国と次々に現れた(日本も1954年に試験・1957年に営業運転開始を行っている)[25]。
ドイツ・アーヘン中央駅。運転士が架線電圧を交流(ドイツ方式)から直流(ベルギー方式)に手動で切り替えている。国によって電化時期や経緯が異なるので電圧や(交流の場合)周波数もバラバラであり、ヨーロッパを例に取ると第二次世界大戦前はフランス・オランダ・イギリス[注釈 16]は直流1500V、ドイツとスカンディナビア諸国は単相交流1万5千V16.67(16と2/3)Hz、イタリア(三相交流切替後)・ロシア・スペインは直流3000Vを使用し、いずれも専用発電所から送電していることが多かったが、1970年代になると1920年代から研究されていた50Hz単相交流という一般商用周波数を用いた饋電が広がり、イギリス・フランス・トルコ・日本等で新たな電化路線に使用されたが古い方式を残す路線も多かったので場所によっては電気車は3種類又は4種類の電力を使える必要が生じたものもあった[26]。
電化区間自体も国策や資源(電力)事情、産業動向等により、各国での電化率には偏りが見られる。スイス、オランダといった国々が90%を越えるほか、ドイツやフランス、ロシア等のヨーロッパ諸国や、中国、韓国、台湾、日本等の東アジア諸国は50%を越える。北米大陸やオセアニア、東南アジア等は電化率が低い。スイスなどでは比較的電化費用が安価で石炭産出が少なかったことから比較的早いうちに鉄道路線はほぼ全線が電化されている。アメリカやオーストラリアなどの大陸横断鉄道は電化されていない区間が殆どであるが、ロシアを横断するシベリア鉄道は電化されている。
なお、都市鉄道や地下鉄では電化のデメリットである「高コスト」が輸送量増大が見込めることで打ち消せられるため、全線が電化されているのが原則である。
後述の通り、日本国内で電化・非電化区間が混在する路線は運行系統が途切れて別々の路線として扱われることが多い。例外的に大井川鉄道井川線のように輸送量増大目的ではなく何らかの理由で電気運転をやむを得ず使用する路線では非電化側の列車が直通する場合もある。
諸外国では、様々な方法を使って非電化混在路線での直通運転に対応している。例えばアメリカでペンシルバニア鉄道のワシントン‐ニューヨーク電化以前は、ニューヨーク手前まで来た蒸気機関車の列車がニューヨーク入口のボルティモア・ベルトラインのトンネル(ここのみ電化)だけ蒸気機関車ごと電気機関車が牽引していた事例があった[27][12]。機関車を交替することで非電化混在路線に対応するケースもある[28]。特にインドなどの国でこのような運転方法がよく見られる[29][30]。
電気軌道では、路面電車系統では1895年(明治28年)に京都市で京都電気鉄道が開通しているが、一般の鉄道では甲武鉄道(現在のJR中央本線)が1904年(明治37年)に飯田町 -中野間を電化したのが始まりである。当時の電化には、600V(京都電気鉄道などのように500Vの所も一部存在)の直流饋電が採用されていた[1](というより用いないといけなかった[注釈 17])。甲武鉄道は1906年(明治39年)の鉄道国有法によって国有化され、国営鉄道初の電化区間となった。以降、大正期は山手線等東京都市圏での通勤電車走行を目的に実施され、昭和初期には城東線(現・大阪環状線)等大阪都市圏でも実施された。
一方私鉄では蒸気機関車運行だった南海鉄道(後の南海電気鉄道)が1907年(明治40)年から電化を始め、1911年(明治44年)には60 ㎞以上の区間の電化を完成させるなど国営鉄道より長大な電化区間が誕生し、この時期国営鉄道にもなかった総括制御付きのボギー車(電2形、1909年)や、貫通扉や便所のある電車(電3・電附1形、1911年)導入など、この当時は私鉄の方が電化に関しては先進的な面が強かった[31]。
最も国営鉄道側も手をこまねいていた訳ではなく、1912年(明治45年)に煤煙問題に悩まされていた碓氷峠を電化し、初の電気機関車の導入、1914年(大正3年)には、京浜線(現・京浜東北線)の電車運転開始に際し輸送量増加に伴う電圧降下防止に昇圧されることになり、当時の技術等を考慮した結果、それまでの600Vから1,200V(丁度2倍の電圧なので電動機の直列並列を切替えれば従来の600V区間との直通もできた)が使用され、その後技術向上もあってさらに電圧を上げられるようになり、1922年(大正11年)に出された東海道本線の全線1,500V電化の計画[注釈 18]に先立って試験を行い、その結果を私鉄にも公開したところ、同年の大阪鉄道が私鉄で初めて1,500 V直流電源を採用(河内長野駅 -布忍駅間)し、東海道線電化以後開業の私鉄は基本的に1,500Vを採用するようになり、国営鉄道側も京浜線・中央線・山手線を1931年(昭和6年)までに1,500Vに昇圧した[32]。
この間、1927年(昭和2年)9月26日の東京朝日新聞「近く電化調査員会を設け電化区間の順位決定」という記事によれば、以下の区間が電化候補になったと報じられている。(路線名は出典ママ)
その後、北陸線米原 - 今庄、奥羽線福島 - 米沢、山陰線鳥取 - 豊岡、東海道山陽線大津 - 明石間電化が昭和4年度予算に必要経費が計上されたが、浜口雄幸内閣による緊縮財政により各線電化が中止に追込まれてしまった[33]。
時系列的に少し戻るが、昇圧のきっかけとなった東海道本線電化計画は試験機関車が来る前[注釈 19]から丹那トンネル開通まで見越して(実際の開通は1934年(昭和9年))東京から国府津まで1,500 Vで直流電化(1925年(大正14年))したが、その後は東海道線電化は一時考えないで大阪付近の輸送量が多い地域の電化や清水トンネル・仙山線といった長大トンネル付近の電化を優先的に行い、手間取っていた丹那トンネルの工事完了後は再び東海道線電化も考えられたが、1937年(昭和12年)に日中戦争が勃発、その先行きも不透明な中1941年(昭和16年)に対米開戦と、日本は戦争へと突き進み、電化工事は戦後まで持ち越されている[34]。(これら以外では関門トンネル(1941年(昭和16年))、外地の朝鮮総督府鉄道京元本線の福渓 - 高山間(1944年(昭和19年)なども電化)
こうした限られた部位のみの電化は当時の軍部が国営鉄道を建設・運営する鉄道院・鉄道省に対し、戦時に変電所を攻撃されると運転不能になることを理由に、基本的には非電化とすることを主張していたといわれているが[注釈 20]、国鉄の技師であった朝倉希一によると電化遅れについては軍隊の話は一切出ず「イギリスから輸入した電気機関車のトラブルとそれに伴う高コストが電化を遅らせた」としている[注釈 12]
なお、一から路線を作る予定だった「弾丸列車計画」(後に東海道新幹線として帰結する)でも東京 - 静岡・名古屋 - 姫路の2か所のみを直流3,000Vで電化し、ここ以外は当面非電化による蒸気機関車牽引予定で[35]、そのために大型の蒸気機関車の設計がいくつか行われていた[36]。
この時期は私鉄でも電化工事が進み、1927年には小田原急行鉄道で82km、そして1929年・1930年には関東の東武鉄道と関西の参宮急行電鉄で立て続けに、130kmを超す当時としては異例の長距離電車が運行され[注釈 21]、目黒蒲田電鉄・宮城電気鉄道・富山電気鉄道など当初より電気軌道の利便性を兼ね備えた電気鉄道の開業が相次いだ。(外地も含めると金剛山電気鉄道の鉄原 - 内金剛なども長大電化区間になる)
こうした大手の私鉄と異なり中小私鉄では戦前は電化ではなく内燃動車で効率を上げたところも多かったが、太平洋戦争の影響でガソリン等は配給制(闇市場でも高騰)になったため内燃動車に頼れなくなり、蒸気機関車が復帰を始めるも、戦争末期から石炭も品質が低下し数量確保さえ困難な時代[注釈 22]に成ったため、石炭産地の北海道と九州以外の非電化私鉄は燃料の確保に支障をきたすようになった。
これに反し電気事業の進歩は著しく発電力は戦前以上に進んだため、中小私鉄でさえ多少の投資をしてでも電化した方が採算が合うと電化に踏み切ったところが多かった。(特に昭和21年から26年(1946 - 1951年)は電化件数が多く、1946年1月の近江鉄道八日市線から、1951年12月の長岡鉄道(後の越後交通長岡線)の大半まで、(既存電化区間有無に関わらず)一部分の電化や軌道・貨物線も含めると24社[注釈 23]もあり、大半は十数km程度の電化だったが、大井川鉄道39.5km、長岡鉄道31.6km(翌年残り2.0kmも電化)と30km以上も一度に電化している鉄道も存在している[注釈 24]。)
しかし、その後はドッジ・ラインによる金融引締めが始まり電化工事の資金繰りが困難になったこと、さらに燃料事情が好転、石油類の安定供給並びに気動車の普及に伴い、非電化路線の電化事例は1954年(昭和29年)の三岐鉄道を最後に、約20社程度に留まった[注釈 25][注釈 26]。
日本国有鉄道(国鉄)でも組織内部のみならず参画院方面からも鉄道電化が要望されることとなり、十河信二が国鉄総裁の時、3,000kmの順次電化計画のため電化委員会が設けられ、蒸気運転の状態において電気と蒸気の経済比較の結果、直流1,500Vでも十分電化運転が有利で、交流なら(地上設備を減らせるので)なお有利となった[注釈 27]。1950年代以降、多くの路線が電化されていき、東海道本線については1956年(昭和31年)11月19日、米原駅 -京都駅間を最後に、支線を除く全線電化が完了した。これを記念し、1964年(昭和39年)に鉄道電化協会がこの日(11月19日)を「鉄道電化の日」に制定した(→日本の鉄道史・1956年11月19日国鉄ダイヤ改正も参照)。
また、直流饋電は多くの地上設備が必要でありコスト高となるため、電化が遅れていた東北、北陸、九州、北海道の電化を今後進めることも見越して、1954年(昭和29年)から仙山線で商用周波数による交流電化の試験が開始され、1957年には同じく交流電化試験を行った北陸本線と共に、仙台 - 作並間 (50 Hz) と、田村 - 敦賀間 (60 Hz) での営業運転が始まる[1]など実用化され、その後北海道・関東の太平洋側と東北・北陸(新潟周辺除外)・九州等に広がった[注釈 28]。戦後の電化は東海道本線を皮切りに、山陰地方を除く本州と九州で進められて行ったが、一方で北海道と四国の電化区間は短区間に留まった。特に四国では国鉄時代は国鉄分割民営化直前に本四備讃線開業に合わせて香川県内の一部区間で実施されたに過ぎない。分割民営化後も引き続き電化区間の延長が実施されているが、内燃動車の性能向上及びハイブリッド気動車や電気式気動車の発達で必ずしも電化の必要はなくなっているほか、蓄電池電車のバッテリー大容量化による航続距離伸展のため駅構内のみ電化されるケースも起きている。2018年現在、JRの在来線は北海道、東北、北陸、九州を中心に交流2万V(海峡線は交流2万5千V)饋電が行われているほかは直流1500V饋電、新幹線は全て交流2万5千Vである[1]。
輸送量の多い都市圏では電化進捗率が高く、都府県単位では既に全旅客線が電化された地域もある。しかし、電化工事には変電所の増設や架線設備の設置をはじめ、歴史が古く建築限界が小さい区間ではトンネル改修を要する等多額の費用が掛かる。そのため国鉄では、大都市近郊や都市間路線でも非電化の路線が長らくそのままにされていた。特に並走する私鉄がある区間では近距離輸送でも積極的な競争を行わないため、比較すると旧態依然としていたほか、電化した路線でも特急列車以外は内燃動車を継続して用いる例が見られる等、消極的な経営が批判されることもあった。もっとも、民営化と前後して大都市近郊の路線電化も少し行われた。
一方、閑散路線でも急勾配路線は高速化のため電化することがあった。しかし財政難等から北海道・四国の主要幹線や宗谷本線[注釈 29]・高山本線などでは国鉄時代に工事が中止された。その後気動車の性能が電車並に向上し、電化するよりも新製気動車を購入する方が低廉となったため、これらの路線では非電化のまま路線の高速化工事を実施し、出力を強化した気動車を投入して近代化を進めている[注釈 30]。また、沿線地方自治体が費用を負担した一部路線で、簡易方式による電化が行われた例もある[注釈 31]。
- 参考
参考
- 徳島県 -索道以外の鉄道線には電化区間がなく、全国で唯一電車が自走したことがない。なお、過去にも一切電化された路線が存在しないため[注釈 34]、歴史的に見ても電車が自走したことのない唯一の県である[注釈 35]。
旅客需要差から、一部区間のみが電化された路線もある。この殆どは運転系統が分断されるため、別路線のようになっている(交流・直流のデッドセクションを挟む場合も同様)が、大井川鐵道井川線のように一部の急勾配区間用に電化している場合は電化区間で補機が付くのみで非電化用車両で全線を走破する運行をしているケースもある。
電化・非電化が混在する路線の中には、可部線や札沼線のように電化区間を残して非電化区間のみが廃止された例もある。江差線も海峡線と一体化している電化区間[注釈 36]を残して非電化区間のみが廃止された。
以下に電化区間を記す。太字になっている駅は電化・非電化の境界となっているものである。なお、入出庫用に電化された区間は除く。
電化は初期投資を要するが、輸送量の大きい路線では輸送単位当たりの維持費用は一般に低い。しかし、電化当初に見込んでいた利用がなくなった路線など、気動車等の発展によって電化が必ずしも経済的に有利でないケースが生じることがある。アメリカのインターアーバンが貨物鉄道に転換された際、電車による頻発運転の旅客列車消滅により電化が不要になり、電化設備が撤去された事例も多い。
急勾配や長大トンネルでの蒸気機関車の煙対策のために電化していた路線の場合、強力なディーゼルエンジンと換気装置が登場することで代替されることがあり、アメリカのグレート・ノーザン鉄道(現・BNSF鉄道)が建設したカスケード山脈越えの路線(カスケードトンネル)は蒸気機関車時代に電化されていたが、このような理由からディーゼル化が行われている。
運用される電気機関車を含めた従来からの直流電化設備全般の老朽化による設備更新を行わずに、高性能のディーゼル機関車へ置換えることもある。例えば、ブラジルサンパウロ州には急勾配区間と近郊鉄道が運行される区間を除いたほぼ全電化区間の電気設備が撤去され、再び非電化となった路線が複数存在するほか、同様の例はチリのサンティアゴ -バルパライソの郊外間や、コンセプシオン郊外 -テムコ間等にも存在する。
緊急的な電化解除(意図的に行ったもの)では第一次世界大戦時のドイツで資源不足になり、電化鉄道の架線を撤去して銅を使用した結果、電気機関車が走れなくなったというケースもある[37]。
日本での事例としては、以下の路線で経費節減のために電車・電気機関車を気動車に置き換えた事例がある。
下記の路線は電化施設を撤去または使用中止し、電車・電気機関車運行を中止した路線である。大半は元々不採算路線だったためのちに廃線となっている。
- ★印は2024年10月時点で現存する路線。
下記の路線は電化設備を有し、特急・貨物列車は電車・電気機関車牽引で運行されるが、普通列車は全列車気動車で運行される(または過去に運行されていた)路線である。必ずしも経費節減が目的ではないことに留意されたい。
交流電化に対応した旅客電車は2両編成以上のものしか存在しないため、1両でも運転できるように気動車を導入している場合がある。
電化路線における気動車列車は架線下DC(DC=ディーゼルカー)とも呼ばれる[40]。
- ●印は2025年3月時点で実施中の路線。
- 湖西線(近江今津駅 -近江塩津駅間) - 1974年7月20日の開業時より全線電化されているが、永原駅 - 近江塩津駅間には交直流切替デッドセクションが存在したため、普通列車については電車化されず気動車が使用された。1991年9月14日に北陸本線の米原駅 -長浜駅間が直流化されるのと同時に、湖西線の普通列車も交直流電車による運行に移行した。
- ●鹿島線(鹿島神宮駅 -鹿島サッカースタジアム駅間) - 貨物営業のみの区間として1974年10月26日に電化。その後鹿島臨海鉄道との旅客列車の直通運転が開始されたが、境界駅の北鹿島駅→鹿島サッカースタジアム駅は通常旅客列車が全て通過することに加え、鹿島臨港線(1983年旅客営業廃止)・大洗鹿島線とも非電化路線であり、この区間では鹿島臨海鉄道の気動車が鹿島神宮駅まで直通する形態がとられている。
- 田沢湖線 - 1982年11月15日に電化されたが、特急「たざわ」が電車で運行されるのみで、普通列車は引き続き気動車が使用された。1997年3月22日に秋田新幹線の運行に伴う改軌で、普通列車も電車列車に統一された。
- ●江差線→道南いさりび鉄道線(五稜郭駅 -木古内駅間) - 1988年3月13日の海峡線開業と同時に電化され、当初は電気機関車牽引の客車列車である快速「海峡」が運行されていたが、2002年12月1日に特急「白鳥」「スーパー白鳥」へ格上げされて廃止となった。それ以降、普通列車は電車化されず気動車で運行されており、2016年3月26日の道南いさりび鉄道への転換以降も同様となっている。この区間にはデッドセクションは存在しないものの、木古内駅の函館方にき電区分セクションがあり電圧が変化する。
- 津軽線(蟹田駅 -中小国駅間) - 江差線同様、海峡線開業と同時に電化されたが、中小国駅は海峡線の全列車が通過する。海峡線が分岐する新中小国信号場以北は引き続き非電化のため、蟹田駅以北の普通列車は気動車でのみ運行されていた。なお、2022年8月の大雨災害により蟹田駅以北の普通列車は運休が続いており、復旧は行われず2027年4月に定期旅客列車の運行を廃止することでJR東日本と地元自治体が合意に達した。
- ●七尾線(七尾駅 -和倉温泉駅) - 1991年に電化され、JR西日本とのと鉄道の共用区間となったが、七尾以北ではJR西日本は特急列車のみ運行しており、羽咋駅方面からの普通列車は全て七尾止まりとなっている。一方、のと鉄道は気動車のみを保有しているため、この区間の普通列車は気動車で運行されている。
- ●大村線(早岐駅 -ハウステンボス駅間) - 1992年3月にこの区間のみ電化され、特急「ハウステンボス」が電車で運行されるようになったが、普通・快速列車は非電化区間へ直通するため従来通り気動車で運行されている。ただし2017年11月30日までは臨時列車「ハウステンボスリレー号」が気動車のほかに電車でも運行されていた。
- ●羽越本線(村上駅 -鶴岡駅間) - 電気機関車牽引の客車列車が運行されていたが、1993年に村上駅 -酒田駅間の全ての普通列車が気動車化された。のちに鶴岡以北で1往復のみ電車による普通列車が設定されたものの、鶴岡以南では引き続き気動車のみの運行となっている。村上駅 -間島駅間には交直流切替デッドセクションが存在する[41]。
- ●肥薩おれんじ鉄道線 -2004年3月13日の肥薩おれんじ鉄道への転換以降、定期旅客列車はすべてHSOR-100形気動車による運行となっている。
- 日豊本線(佐伯駅 -延岡駅間) -2009年10月1日から一時全ての普通列車が気動車による運行となっていたが、2018年3月17日から電車による運行に変更。
- 仙石線(陸前小野駅 -石巻駅間) - 電化区間であったが、2011年3月11日の東日本大震災によって電化設備が損壊し、同年7月から暫定的にキハ110系気動車で運行していた。2015年5月30日の全線復旧により、電車による運行が復活した。なお、同区間を走行する仙石東北ラインは松島駅構内の仙石線と東北本線の渡り線部が非電化のため、HB-E210系気動車での運行となっている。
- ●えちごトキめき鉄道日本海ひすいライン(糸魚川駅 -直江津駅間) -2015年3月14日にえちごトキめき鉄道へ経営分離されて以来、この区間の普通列車は気動車による運行となっており、2017年3月4日のダイヤ改正では唯一電車で運行されていた快速列車が廃止となったため、定期旅客列車は気動車に統一された。なお、糸魚川以西についてもあいの風とやま鉄道の電車による列車が1往復設定されているのみで、自社の電車による定期列車は運行されていない。えちご押上ひすい海岸駅 -梶屋敷駅間には交直流切替デッドセクションが存在する[41]。
- 野岩鉄道会津鬼怒川線(上三依塩原温泉口駅 -会津高原尾瀬口駅間) - 2015年9月10日に発生した大雨で被災し、同年9月19日に運転再開したが、東京電力の送電鉄塔傾斜による停電のため、暫定的に会津鉄道から気動車が乗り入れていた[42]。同年12月11日より全線で電車運転が復活した。
- 会津鉄道会津線(会津田島駅 - 会津高原尾瀬口駅間) - 2022年3月12日のダイヤ改正で、この区間における電車の定期列車は特急「リバティ会津」のみとなり、普通・快速列車は全て気動車による運行となった。2025年3月15日のダイヤ改正で野岩鉄道から乗り入れる電車運転の区間快速が再度設定された。
経費節減目的で一時的に気動車列車を運行した路線
[編集]下記の路線は、電化施設を存置しながらも、経費節減を目的に気動車列車と電車列車が混在していた路線である。
- ^直流饋電では3,000 V程度が上限である。
- ^直流150Vの電気機関車が18人乗りの客車を12km/hで牽引した。
- ^『世界鉄道百科事典』p.384-385「BB機」ではこの電化を1896年としている。
- ^直流675V第三軌条集電方式、2軸車2両の永久連結でギアではなくゴムバンパーで動力伝達。
- ^単相交流を車内で回転式相変換器により三相交流に変化させて三相交流用のモーターを回転させる方法。余り使い勝手が良くなくその後世界の商用周波数単相交流利用には広まらず。
- ^ここでいう「汽車」は都市の外に出て走る鉄道のこと。
- ^スイス・イタリアでこの種の車両が実用化したように全く使えない訳ではないが、電動機の回転速度変動方法が極数切り替えや二次回路抵抗で運転速度が限られたこと、起動トルクが小さく牽き出しに牽引力が必要な機関車向けでないこと等が欠点だった。(鉄道の百科事典編集委員会 2012, p. 30,43)
- ^その後、イタリアでは三相交流用電気機関車がいくつも生み出され、性能そのものは問題ないものの1920年代に「三相交流送電にはメリットはあるも技術的に伸びしろがない」と判断され、水銀整流器によって高圧直流電力が使えるように成ったりしたことから、ナポリ-フォッジャ線を直流3000Vで試験的に電化したところ成績が優秀だったため、1930年代に入るまでにこちらを主流に切替えている。((フランコ2014)p.169)
- ^プロイセンでは「低質で機関車には使えないが火力発電所なら使える」という石炭を使う火力電化も考えられていた。
- ^なお、スイスの電化が盛んになったのは第一次世界大戦の影響で、ドイツから石炭輸入が出来なくなり、アメリカから買い付けしたり自国の山の薪で代用したりした結果、財政難覚悟で電化に踏み切った。
- ^既に実績があった路面電車などの600V直流では長距離送電が困難。
- ^ab原文「東海道線電化の一部として東京 - 国府津間電化のために一括してイギリスに注文した機関車の品質が悪く、安全運転さえ出来なかった。(中略)多くの改造の結果使用に耐える状態になったが、電化論者の主張は完全に裏切られ、電化は高価であることを事実上に示した。これが国鉄の電化実施を遅らせた大きな原因となった。」((朝倉1979-11)p.104)
- ^ミルウォーキー鉄道の710㎞電化区間の旅客列車は電化後の1921年時点でも1日につき片道2本ずつだけだった。((朝倉1979-5)p.116)
- ^スイスとイタリアは、両方とも石炭非産出国で輸入に頼らねばならなかったが、水力による発電量は相当得られる国であったため、第二次世界大戦前は電気機関車(及びそのための電化)に関しては先頭を行っていた。なお、他欧州諸国でも少しずつは電化は進んでおり、ドイツでは1930年代にあちこちで電化区間が生まれ、フランスではパリ-オルレアン鉄道(PO)が1926年に電化を始めた。((フランコ2014)p.167)
- ^電気機関車の被害だけでも、1945年時点で動かせたものは戦前(880両)の1/4程度だった。((ロス2007)p.420)
- ^実際にはイギリスはサードレール区間が多く600V付近の路線の方が多かった。
- ^当時の「電気事業取締規則及び電気鉄道電機取締規則」で電気鉄道は直流電圧600 V以下という制限があり、これ以上の高電圧が使えなかった。
- ^「東海道線全線を大正17年までに電化する」というような計画が出され閣議決定、東京 -国府津の東海道本線と、国府津 -熱海の熱海線がまず電化されることになっていた。((福原2007)p.62)
- ^なお、電気機関車なしでも電気動力運行を始めるつもりだった証拠として、既に国産技術が確立した電車で100 ㎞近い長距離に対応出来るようにしたデハ43200形が計画だけではなく実際に製造されている。ただし、デハ43200形は関東大震災による被災復旧に回され、実際にこの目的には使用されないまま終わっている。
((福原2007)p.62-63「1-13 木製電車の最後を飾った伝説の名車」)。 - ^東海道全線即時電化論者の内田信也は鉄道大臣時代に東海道本線電化を目論み、東久邇宮稔彦王に陸軍を押さえるよう頼んだが、押さえることは出来なかった。『喜安健次郎を語る』1959年、34-36頁
- ^なお、戦前日本で最長の距離を走る電車列車は1912年(昭和12年)より豊川鉄道・鳳来寺鉄道・三信鉄道・伊那電気鉄道をまたがって運行された豊橋 -辰野間の196㎞。
(ただし、伊那電気鉄道の架線電圧は他社と異なる1,200 Vとなっていたため、戦後の1955年(昭和30年)に昇圧を行って電動車も直通可能になるまでは付随車だけ直通して、電動車は天竜峡駅で増解結を行っていた。詳しくは伊那電気鉄道の電車を参照。)
同区間は戦中の1943年(昭和18年)に国有化されて飯田線になっているので、国鉄でも戦後80系電車に更新されるまではここが最長の「電車列車の運行区間」であった。
((福原2007)p.108「戦前期の最長距離電車運転」) - ^『交通年鑑』昭和25年版161 - 163ページによると、昭和22年時点の石炭の質は戦争の影響がほぼない昭和11年と比較して熱量が「6,450 kcal/kgから5,350 kcal/kg」、完全燃焼前にボイラーから出て熱量損失になる粉炭率が「37 - 38 %から70 %」に悪化。そしてここまで低質になったにもかかわらず価格はハイパーインフレもあり282倍に高騰した。
- ^電化順に近江鉄道・富山地方鉄道・淡路交通・福井鉄道・栃尾鉄道・大和鉄道・弘南鉄道・三重交通・土佐電気鉄道・下津井鉄道・大井川鉄道・北陸鉄道・流山鉄道・小坂製錬小坂線・秋田中央交通・遠州鉄道・住友別子鉱山鉄道・伊予鉄道・東濃鉄道・栗原鉄道・相模鉄道・十和田鉄道・松尾鉱業鉄道・長岡鉄道。 なお、相模鉄道が大手私鉄扱いになったのは1990年からで当時は含まれない。
- ^どちらも水力発電所が盛んな地域の鉄道である。
- ^ドッジライン自体は昭和24年から開始だが上記のデータは電化工事完了日時なのでずれがある。(『交通年鑑』昭和27年度版、交通新聞社、p.350・351)
- ^なお、茨城県ではそれとは別に石岡市柿岡にある気象庁地磁気観測所での地磁気観測への影響回避のため直流電化が事実上不可能なことから非電化が多く残っている。
- ^なお、これに関わった朝倉希一によると、この時には「蒸機・電機共に機関車を新造する」という前提で計算したため、厳密には現状の機関車を使用できる蒸気運転はもう少し低コストに見積もるべきで、1921年(大正10年)にミルウォーキー鉄道に調査に行った際「電化で不要になった蒸気機関車を全部下取りに出すから電気機関車購入のコスト(同鉄道では全電化費の半分)は実質半分ですむ」というそこまで中古機関車が高く売れるのか怪しい情報を聞かされたのを思い出したほか、電化進展が速くなると蒸気機関車の他地域の転用ができなくなるのでそこまで楽観視するべきかどうかと指摘したとこ、部外の委員がこの調査で良いと言われて承認することにしたという。((朝倉1979-5)p.118)
- ^なお、既存直流区間も「(地上設備を減らせる)3000Vに昇圧させるべきではないか」という案が1975年頃から出たが、我が国で多い電車方式では(イタリアに3000Vで電車使用例があるので不可能ではないものの)高電圧の絶縁が厳しくなること、改造する車両数と電力設備が莫大なことから見送られた。((持永2012)p.32)
- ^その後旭川運転所移転に伴う回送電車走行目的で2003年(平成15年)3月に一部区間のみ電化された。
- ^JR東海武豊線では同社の電車と遜色ない性能のキハ75が投入されたため一旦は電化をせず近代化が図られたが、後に運用効率を重視して直流電化された。なお同線は国鉄時代に電化計画があった。
- ^播但線・加古川線・小浜線・土讃線の一部など。
- ^ただし、自社では営業を行っていないものの、城北線はJR東海が第一種鉄道事業者として施設を保有しており、子会社JR東海交通事業が運営している。また、関西本線・武豊線の貨物列車はディーゼル機関車牽引で運行されているため、大府駅構内にある武豊線との貨物用連絡線・関西本線の一部駅にある中線等は非電化のままとなっている。県外のJR非電化区間へ直通する気動車による特急・快速列車は定期的に運行されている。
- ^後藤総合車両所後藤地区までの回送と、試運転で走行するのみで、旅客列車の電車運行はない。
- ^かつて阿波電気軌道という事業者が存在したが、電化は計画のみで実施されないままとなった。この他にも阿南電気鉄道や上徳電気軽便鉄道などの計画が存在したものの、免許申請段階で変更もしくは頓挫している。
- ^例外として三好市にある奥祖谷観光周遊モノレールが徳島県内にある唯一の電気で動く車輛になるが、法的には鉄道事業法や軌道法によるものではなく、遊戯施設としての扱いとなる。また、県内でも試験走行を行ったSmart BESTは、製造メーカーの近畿車輛や報道では「電車」と位置づける例もあるものの、法制度上は気動車に区分されている。
- ^現:道南いさりび鉄道線
- ^函館本線列車入出庫向けとして、宗谷本線 旭川 -旭川運転所 間が電化されているが、宗谷本線営業列車は石北本線営業列車(旭川 -新旭川)含め全て気動車で運転されているため、この一覧からは割愛する。
- ^ただし、東室蘭 -苫小牧の電車運転は、2023年5月19日まではすずらんのみ。
- ^ただし、出雲市 -西出雲間は後藤総合車両所出雲支所が所在するため同車庫への入出庫を兼ねて電化されているため、電車による旅客列車は1日に数本程度しかない。
- ^これとは別に同線では大分 -下郡信号場間も電化されているが、この区間は大分鉄道事業部大分車両センターの回送線を兼ねているため電化されているためここでは割愛する。
- ^ただし、自社車両は気動車により運転。
- ^なお、長与経由の旧線は開設当初から非電化
- 岩沙克二・菅建彦 著、鉄道の百科事典編集委員会 編『鉄道の百科事典』丸善出版株式会社、2012年、p.1-58、第1章「鉄道学入門」1.1「鉄道の起源と発展史」頁。ISBN 978-4-621-08462-5。
- フランコ・タネル 著、黒田眞知・田中敦・岩田斎肇 訳『ヴィジュアル歴史図鑑 世界の鉄道』株式会社河出書房新社、2014年。ISBN 978-4-309-22609-5。
- 福原俊一『日本の電車物語 旧性能電車編創業時から初期高性能電車まで』JTBパブリッシング、2007年。ISBN 978-4-533-06867-6。
- 持永芳文・他 著、持永芳文・宮本昌幸 編『鉄道技術140年のあゆみ』株式会社コロナ社、2012年、p.23-188、第2章「電気鉄道と電力供給の変遷」第3章「鉄道車両の変遷」頁。ISBN 978-4-339-00832-6。
- デイビット・ロス 著、小池滋・和久田康雄 訳『世界鉄道百科事典』悠書館。ISBN 978-4-903487-03-8。
- 齋藤晃・杉田肇 著、岡田秀樹 編『幻の国鉄車両』JTBパブリッシング、p.30-37「幻の広軌新幹線(弾丸列車)計画に登場する蒸気機関車」(齋藤)・38-43「幻の大陸連絡広軌新幹線(弾丸列車)の電気機関車」(杉田)頁。ISBN 978-4-533-06906-2。
- 朝倉希一「技術随筆 汽車の今昔5「6.鉄道の電化」」『鉄道ファン』第19巻第5号(通巻217号、雑誌06459-5)、株式会社交友社、1979年5月1日、112-118頁。
- 朝倉希一「技術随筆 汽車の今昔11「11.広軌改築論、12.蒸気機関車を送る」」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、p.102-105。
- 大塚和之「ジーメンスの電気機関車第1号」『鉄道ファン』第19巻第11号(通巻223号、雑誌06459-11)、株式会社交友社、1979年11月1日、78-86頁。
- 交友社編集部 編『目で見てわかる鉄道常識事典』交友社、1966年。doi:10.11501/2509702。