| 金井 元彦 かない もとひこ | |
|---|---|
| 生年月日 | (1903-11-28)1903年11月28日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1991-08-06)1991年8月6日(87歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学法科卒業 |
| 前職 | 内務省警保局検閲課長 |
| 所属政党 | (無所属→) 自由民主党(田中派) |
| 称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 |
| 配偶者 | 金井繁子 |
| 内閣 | 第1次大平内閣 |
| 在任期間 | 1978年12月7日 -1979年11月9日 |
| 選挙区 | 兵庫県選挙区 |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1971年6月27日 -1983年7月9日 |
| 当選回数 | 2回 |
| 在任期間 | 1962年11月24日 -1970年11月23日 |
| 在任期間 | 1945年4月21日 -1946年1月24日 |
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金井 元彦(かない もとひこ、1903年11月28日 -1991年8月6日)は、日本の内務官僚、政治家。
行政管理庁長官(第43代)、参議院地方行政委員長、同沖縄及び北方問題に関する特別委員長、参議院議員(2期)、兵庫県知事(第36-37代・公選)、兵庫県立近代美術館長(第3代)、兵庫県副知事、青森県知事(第45代・官選)などを歴任[2]。
1903年(明治36年)、後に初代灘区長となる金井元雄と岡山県玉島地区の醤油商の出身の金井ことみの元に姫路市五軒邸に生まれる[3][4]。金井家は赤松氏の幕下の太尾興次の末裔であり神戸市で育つ。大開第二尋常小学校(現・神戸市立兵庫大開小学校)、旧制第二神戸中学校(現・兵庫県立兵庫高等学校)、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学法科を卒業した。一度神戸二中に落第してしまい兵庫高等小学校に一度進学し、再受験で旧制神戸第二中学校に入学した[4]。1927年(昭和2年)に内務省へ入省し、浜口雄幸内務大臣からの訓示で宮崎県に出向[4]。翌1928年(昭和3年)に歩兵第三十七連隊に十カ月間入営[4]。退営後は香川県に転任し、仁尾での取り付け騒ぎの調査を行った[4]。その後土木課にて瀬戸内海国立公園関連の団体である香川県国立公園協会の設立に関わった[4]。1929年(昭和4年)に島根県に転任。社寺兵事課長に任命される。その後農務課長に任命され、同年発生した昭和恐慌時の農作物価格の低下に際して米の奨励品種を八雲、曲玉に決定し、各地に宣伝のため奔走した[4]。その後庶務課長になり、1933年(昭和8年)に後に五洋建設株式会社社長となる永野俊雄の紹介で戸川繁子と結婚[4]。同年に群馬県に転任し工場課長となった[4]。1935年(昭和10年)、警視庁特別高等警察部調停課長になる。二二六事件の際には連絡、情報係として派遣された。1936年(昭和11年)、内務省社会局労働部に転任、社会局長となる[4]。1938年(昭和13年)、企画院内政部の首席書記官となる[4]。1940年(昭和15年)、岡山県に転任。1942年(昭和17年)、警保局検閲課長に就任[4]。1944年(昭和19年)、保安課長に就任[4]。学童疎開の開始に伴い金井も家族を茨城県内に疎開させている[4]。1945年(昭和20年)1月、官選第45代青森県知事となる。
太平洋戦争の戦局悪化に伴いアメリカ軍の本土空襲が日を追って激しくなる中、金井は7月18日に新聞を通じて「家をからっぽにして逃げたり、山中に小屋を建てて出てこないというものがあるそうだが防空法によって処罰出来るのであるから断乎たる処置をとる」との声明を公表する[5]。この声明を受けて青森市では郊外へ避難している市民に対して「7月28日までに帰宅しなければ人名台帳から氏名を抹消し、食糧や物資の配給を差し止める」と警告し[5]、多くの市民が強制的に避難先から帰宅させられたが、青森市街は28日から29日にかけての青森大空襲により市街地の81%を焼失する壊滅的な被害を受け、1018名の犠牲者を出した[5]。空襲の際、金井は県庁前庭にある指揮防空壕に入ったが、煙霞の凄まじさに防空壕から飛び出すとともに消火用の池に入った[4]。その後、青森市郊外にある放送局に向かい、「青森市は焼かれたが我々は挫けない」と激励の言葉を送っている。しかし、結果的に金井の声明が空襲による犠牲者を増大させたとの批判がある。
1946年(昭和21年)1月、公職追放処分を受けて知事を免職となり大野連治が後任の知事に就任する。公職追放後は自宅が戦災によって失われたため、青森師範学校の弘前市への移設に伴う教職員宅の借家跡を借りた[4]。その後名古屋市の渡辺製菓の常務取締役、及び野原物産の社長を務めた[4]。一方、1948年(昭和23年)に自らの命令で空襲により多くの犠牲者を出したことを悼んで、慰霊のため観音像の建立を提唱し、柳町交差点のロータリーに三国慶一作の「平和観音像」が設置された。1964年(昭和39年)に道路拡張のため2代目の観音像が10メートルほど北に作られ、金井らが建立した初代の像は青森市文化会館の4階で展示されている[5]。1980年(昭和55年)、金井は青森県知事時代について「よき思い出は全くない。ただ悲哀と苦労の連続だった」と述懐している[6]。

1955年(昭和30年)2月、兵庫県知事の阪本勝に「郷里なのでやっていかないか」と打診されたことから副知事に就任[7]。1962年(昭和37年)、阪本が2期目の任期満了に伴い知事を退いた後継候補として知事選に出馬し当選する。当選後初の県議会にて経済力の培養、福祉の充実、教育文化の向上を三本とした県政の強化を訴え、同年10月には生活の科学化と教育の振興も掲げた[8]。後に金井は喫緊の課題として福祉の充実を最優先とし、また生活の科学化、教育の振興の政策について金井は「選挙参謀からの猛批判に遭いながらも信念を押し通した」と後年回顧している[8]。就任直後に生活科学審議会、生活科学センター、生活課を次々と設置[8]。政府は兵庫県における一連の動きを参考にし、消費者保護基本法、国民生活局の設置に至っている[8]。1964年(昭和39年)6月、現在の兵庫県庁舎1号館落成を記念して兵庫県旗を制定した。また県政百年記念事業として兵庫県立こども病院、兵庫県立近代美術館、のじぎく学園などの建設を行った[9]。特に兵庫県立近代美術館については兵庫県下に美術館が存在しないことを憂いた金井が重要事業として打ち立てたものであり、設計を村野藤吾に願い出た他、各地域に文化拠点となる地方文化会館を建設することとなった[8]。1965年(昭和40年)には公害に伴い公害防止条例を制定、公害課の設置を行い、兵庫県日赤紺受会の会長に就任した[10]。他、入試競争の過熱を受けて内申重視の兵庫方式の提案、青少年局の設置、生涯学習センターの「いなみの学園」の設置などを行った[8]。また対外関係として蜷川虎三京都府知事との間に協定した「三たん開発」や、石破二朗鳥取県知事、加藤武徳岡山県知事との協力により那岐山、氷ノ山の開発や地方道路の開発に取り組んだ[8]。ワシントン州、ハバロフスク、パラナ州などとの姉妹都市協定も結んだ[8]。そのため在任中の県民からの評価は好いものであった。多選を批判し[11]、前任者の阪本に倣って1970年(昭和45年)の知事選挙には出馬せず2期限りで知事を退任する方針を表明し[7][注釈 1]、副知事の坂井時忠が後継に指名された。
「生活の科学化」をスローガンに掲げて第1次県勢振興計画を策定したその一環として、1969年(昭和44年)にダウン症候群などの染色体異常を早期に発見することを目的として出生前診断を奨励した「不幸な子どもの生まれない運動」を打ち出した。これは1965年(昭和40年)に一日滋賀県知事として[12]滋賀県の障害児入所施設・びわこ学園を視察した際、金井が入所児の「笑うことも、はいまわることも忘れ、喜びを奪われた、気の毒な姿」を目にし、園長からの言葉に深く感動した体験を基に提唱したものである。金井はこの運動の先頭に立ち1969年に施設の現状を昭和天皇に奏上した[13]。金井は「障害児の出生予防は呼びかけても100%は無理だろうが、もし不幸にして障害児が生まれたら何とかして助けてやりたい、救ってやりたい。」と構想を示し、その一環として兵庫県下初となる小児専門病院の兵庫県立こども病院を開院した[14]。そのため、平田美穂などの兵庫県下の医師や有力者はユニークな運動として当運動を評価していたが、青い芝の会などの障害者団体は優生思想に基づく人権侵害施策として強い非難を送った[15]。元明石市長泉房穂は、『金井は、優生保護法の推進第一人者で、兵庫県庁にその部署まで作り『障害のあるものはこの世から抹殺する』ということを方針に掲げ『障害を持ち生まれそうだったら、殺してしまえ』という運動を全国の先頭を切って行った知事であった。このため、障害者であった私の弟も危うく殺されそうになった。」と金井を批判し、証言している[16]。また、NPO法人のDPI日本会議の常任委員の藤原久美子は「不幸な子どもの生まれない運動は兵庫県から全国に波及し、手術の増加を招いた悪しき政策」と批判している[13]。運動は後任の坂井時忠にも引き継がれ、坂井も運動を奨励していたものの[17]、1974年(昭和49年)に見直され1978年(昭和53年)以降は手術は行われなくなった。しかし1989年(平成元年)まで兵庫県は精神科病院に手術の申請書を配り続けていた[13]。
知事職を退いた翌1971年(昭和46年)の第9回参議院議員選挙に自民党公認で兵庫県選挙区から出馬して当選、七日会(田中派)の立ち上げに参加する。沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律に関して特別委員会の委員になり[4]、文教委員会、公害環境特別委員会にも所属した。2期目の1977年(昭和52年)には参議院地方行政委員長に就任し、1978年(昭和53年)には第1次大平内閣で行政管理庁長官として入閣した。1980年(昭和55年)春の叙勲で勲一等瑞宝章を受章(勲四等からの昇叙)[18][19]。
1983年(昭和58年)の第13回参院選には出馬せず政界を引退し、兵庫県名誉顧問、兵庫県社会福祉協議会会長、兵庫県近代美術館長に就任する。金井は参議院議員時代から兵庫県に限らず国内外の美術館に通いつめたほか、近代美術館に天皇夫妻が来館した際には所蔵品の説明を行った[4]。また、かつて日本三大仏の一つに数えられながらも1944年(昭和19年)に金属類回収令で解体された能福寺(神戸市兵庫区)の兵庫大仏再建事業に際して奉賛会会長を務め、1991年(平成3年)5月9日の開眼法要に出席した。同年8月6日、脳梗塞のため死去、87歳。死没日をもって従四位から従三位に叙される[20]。神戸市長田区の兵庫県立文化体育館で開催された県民葬には竹下登ら約2700名が参列した。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 荒舩清十郎 | 第43代:1978年 - 1979年 | 次代 宇野宗佑 |
| 先代 阪本勝 | 公選第5 - 6代:1962年 - 1970年 | 次代 坂井時忠 |
| 議会 | ||
| 先代 高橋邦雄 | 1977年 - 1978年 | 次代 永野厳雄 |
| 先代 星野重次 | 1973年 - 1974年 | 次代 古賀雷四郎 |
| 官職 | ||
| 先代 大島弘夫 | 官選第45代:1945年 - 1946年 | 次代 大野連治 |
| 総裁 | |
|---|---|
| 長官 | |