この項目では、仏教の開祖である釈迦について説明しています。如来としての釈迦については「釈迦如来 」を、その他の用法については「釈迦 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
「ゴータマ 」はこの項目へ転送 されています。その他の用法については「ガウタマ 」をご覧ください。
釈迦 (しゃか、旧字体 :釋迦 、サンスクリット :शाक्यमुनि 、Śākyamuni )は、北インド [ 5] の人物で、仏教 の開祖 。ただし、存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀 、紀元前6世紀 、紀元前5世紀 など複数の説がある。
釈迦は苦 の輪廻 からの解脱 を目指した。仏教の教義は多様化しているが歴史学的・宗教学的には「死後に天界 を含めて、一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」を釈迦は目指していたと説明される(大乗非仏説 参照)[ 6] [ 7] 。
姓名はサンスクリット語 の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ (梵 :गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha [ 8] [ 9] )、パーリ語 の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ [ 10] (巴 :Gotama Siddhattha )とも表記される。漢訳では瞿曇悉達多 (くどんしっだった)である[ 9] [ 注釈 1] 。
仏舎利 と言われる遺骨は真身舎利、真正仏舎利として今も祀られ、信仰を集めている。
シャーキヤ(梵 :शाक्य Śākya )は、釈迦の出身部族であるシャーキヤ族 [ 8] またはその領国である、シャーキヤ国を指す名称である。「釈迦 」はシャーキヤを音写 [ 8] したものであり、旧字体 では釋迦 である[ 11] 。
シャーキヤムニ(梵 :शाक्यमुनि Śākyamuni )はサンスクリット で「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、これを音写した釈迦牟尼/釈迦牟尼仏 (しゃかむに/〃ぶつ)[ 12] を省略して「釈迦」と呼ばれるようになった[ 8] 。天台宗 や、臨済宗 をはじめとする禅宗 などで多く唱えられる念仏 である「南無釈迦牟尼仏 」も南無は「あなたにおまかせする」という意であるため「釈迦牟尼仏 にすべてお任せします」という意味である[ 13] [出典無効 ] [ 14] [出典無効 ] 。
パーリ仏典では、釈迦の父方の従兄弟・アーナンダ もゴータマと呼ばれており、釈迦の母のマーヤー と母方の叔母で養母のマハー・プラジャーパティー はゴータマの女性形 であるゴータミー(巴 :Gotamī )と呼ばれている[ 15] [ 16] [ 17] 。
ガウタマ(ゴートラ )はアーンギラサ族 (英語版 ) (巴 :aṅgīrasa )のリシ のガウタマ の後裔を意味する姓であり、この姓を持つ一族はバラモン である。クシャトリア のシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不自然であり、先祖が養子だったとする説などがある[ 18] 。
名のシッダールタは、古い仏典に言及が無いこと、意味が「目的を達成した人」と出来過ぎていることから、後世に付けられた名前とする説がある[ 19] [ 20] 。
ブッダ (梵 :बुद्ध buddha )は、「目覚める」を意味するブドゥ(梵 :बुध् budh )に由来し、「目覚めた人」という意味である[ 10] [ 注釈 2] 。もともとインドの宗教一般において、すぐれた修行者や聖者に対する呼称であったが、仏教で用いられ釈迦の尊称となった[ 21] 。このため、ゴータマ・ブッダ[ 10] ともいう。漢訳の音写は仏陀 、旧字体では佛陀 であり、意訳は覚者 である。仏陀の略称が仏 であり、「仏教」や「仏像」などの用語はこの尊称に由来する[ 22] 。「仏陀」の発音 については「ぶっ-だ」の他に「ぶつ-だ」とも読まれる。
釈迦の異名は多くあるが、その中でも十号 がよく知られている[ 23] 。
タターガタ (梵 :तथागत tathāgata )は、「そのように来た者」または「そのように行った者」[ 24] を意味する釈迦の尊称である。音写は多陀阿伽度、意訳は如来 であり[ 25] [ 26] 、釈迦如来 ともいう。また、バガヴァント (英語版 ) (梵 :भगवन्त् Bhagavant )は、世の中で最も尊い者を意味する釈迦の尊称であり[ 27] 、音写は婆伽婆もしくは薄伽梵、漢訳は世尊 である[ 27] 。
仏教では、釈迦牟尼仏[ 28] [ 29] 、釈迦牟尼如来[ 28] 、釈迦牟尼世尊[ 30] としたり、またそれらを省略して、釈尊 [ 9] 、牟尼 [ 31] 、釈迦尊 、仏様 、お釈迦様 と呼ぶ。
釈迦を同時代に客観的に記録した一次史料は皆無に等しく、人種 さえ不明である。欧米の仏教学者の中には、釈迦はインド・アーリア人種である、アーリア人種は白人のルーツなのだから、釈迦はコーカソイド 的(白人的)な顔つき・身体的特徴を備えていたと主張する者もいる。釈迦が備えていた三十二相 の一つ「真青眼相」では、「ブッダの眼は青い蓮華のように紺青である」と説明される。
上座部仏教 と大乗仏教 のどちらにおいても釈迦は六神通 を使う超人的な存在として捉えられている。そのため経典が伝える釈迦の生涯(仏伝)は超人的な逸話が多いうえに、大乗非仏説 に基づけば、大乗経典は後世に成立した信仰や教義に合わせて仏伝を改変する傾向もあるとされるため、実在の人物としての釈迦の生涯を知る上では注意して取り扱わなければならない。釈迦の生涯を体系的に網羅した書籍としては『ブッダチャリタ 』が著名である。
釈迦を客観的に記録した一次史料が皆無な現代においては「史的ブッダ」を歴史学的に完全に復元することは不可能であるとされる。大谷大学 教授の新田智通 は次のように説明している。
実際に仏典を紐解いてみると、最初期のものと思われる文献においても、一個人としての「人間ゴータマ(釈迦)」はまったく説かれていないし、また一般的に保守的な見解に立っていたとされる
上座部 の文献を見ても(略)そこに描かれているゴータマの姿というのは一貫して神話的、超越的なのである
[ 32] 。
平川彰 の「純粋に”人間仏陀”の伝記は現在としては再現不可能である。仏陀の事蹟はすべて神話的に色づけられているからである」という言葉に端的に表されているように、ゴータマの脱神話化は結局不可能な試みなのである
[ 32] 。
本項の以下の記述は、伝統仏教の信仰的説話の内容も含むものである。
十六大国 時代のインド(紀元前600年 )白象懐胎(大英博物館 所蔵、製作年代は1世紀から2世紀頃) 釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナ は、コーサラ国 の属国 であるシャーキヤ のラージャ で、母は隣国コーリヤ の執政アヌシャーキャの娘マーヤー である[ 33] 。マーヤーは、出産のための里帰りの途上、カピラヴァストゥ郊外のルンビニ で子を産んだ[ 9] [ 注釈 3] 。
仏教の教義では、釈迦は六道 輪廻の中で善行を積み神々の住む天界 (兜率天 )に転生していたが、成道のため現世に降下することにし、釈迦は白象に化して母マーヤー の胎内に宿り、産みの苦しみを与えないためマーヤーの産道を通らず右の脇腹より生まれ出たとされる[ 34] 。そして生誕した釈迦は七歩歩いて右手 で天を指し、左手 で地をさして「天上天下唯我独尊 」と宣言したとされる。釈迦は生誕時には過去世の記憶を保っており上記の宣言をしたが、その後普通の人間と同じく過去世の記憶を失った。時は流れて釈迦が悟りを開いてブッダ になると六神通 を得て、六神通 の一つである宿命通によって釈迦は過去世の記憶を全て取り戻した、と説明される。
白象懐胎についてキリスト教の教義と混同した西欧人学者によって「マーヤーは処女懐胎 によって釈迦を受胎した」と説明されることもあるが、梶山雄一 は、『方広大荘厳経 』には白象懐胎によってシュッドーダナ との性行為によらずマーヤー が釈迦を受胎したとの記述は見られるものの、釈迦を受胎したときマーヤーが処女 であったとする記述は仏典には見られないとしている[ 34] 。
上座部仏教 の『パーリ仏典 』希有未曾有法経 では釈迦の生誕時の言葉について「私はこの世界で最上の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」、すなわち私はこれまで輪廻転生を繰り返してきたが、前世で功徳を累積し誰も到達したことのない悟りに最も近い者である、兜率天 から降下し今世の生で悟りを得て解脱 し涅槃 に入ってみせるという釈迦の決意表明だが、上座部仏教より後に成立した大乗仏教 では久遠常住 などの教義にそぐわないためか後半の「これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」が省かれて前半のみの「天上天下唯我独尊 」となり意味合いが分かりにくくなっていると説明される[ 35] (詳しくは大乗非仏説 参照)。
喜び楽しんでいる神々の群と帝釈天(インドラ )とが、恭しく衣をとって極めて讃嘆しているのを、アシタ (英語版 ) 仙は日中の休息のときに見た。喜び踊っている神々を見て、ここに仙人は恭々しくその理由を問うた。
(神々は答えて言った)「ボーディサッタ(菩薩、釈迦を指す)は諸人の利益安楽のために人間世界に生まれたもうたのです。シャカ族の村に、
ルンビニ に。ですから我らは嬉しくなって非常に喜んでいるのです。
サーリプッタ が言った。「私は未だ見たこともなく、また誰からも聞いたこともない。このように美わしき師、衆の主(釈迦)がトゥシタ天(兜率天 )から来りたもうたことを。
眼ある人(釈迦)は、天の神々と世人が見るように、一切の暗黒を除去して独りで法楽を受けられた。
釈迦生誕時の逸話として以下もある。父王シュッドーダナ は我が子である釈迦にまみえて、その器量に畏れの念を抱いた[ 38] 。そのためルンビニ の観相学に長けたバラモン に我が子である釈迦の観相を依頼したところ、そのバラモンは「お喜びください。太子(釈迦)は殊勝の子です。世俗にあれば転輪聖王 となって天下を統治し、衆生に現世利益をもたらすでしょう。世俗を放棄し出家者になるならば、必ずこの世界の真理を体得して覚者と成られることでしょう。」と答えた[ 39] 。その後、父王と釈迦の元にアシタ (英語版 ) 仙が訪れた。釈迦の三十二相 を見て、釈迦が将来必ず等正覚(悟り)を成ぜることを確信した。アシダは父王と釈迦の御前で涙を流したが王はその訳をアシタに尋ねた。アシタは「太子(釈迦)がブッダ となり説法をする頃には私の寿命は尽きているでしょう。そのことを私は悲しんでいるのです。」と答えた[ 40] 。
母マーヤーは釈迦を出産した7日後に死去した[ 41] 。マーヤーが出産した子はシッダールタと名付けられた[ 33] 。シャーキャの都カピラヴァストゥ にて、釈迦はマーヤーの妹マハープラージャーパティ によって育てられた[ 9] [ 33] [ 注釈 4] 。
釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけるが[要出典 ] 、「教えることが無くなりました」と教師が辞任を申し出たという話があるほど聡明であったと言われている[ 42] 。16歳または19歳で母方の従妹の [要出典 ] ヤショーダラー と結婚し、跡継ぎ息子としてラーフラ をもうけた[ 9] 。
釈迦在世時のインドでは沙門 ・六師外道 (外道は仏教側から見て「外道=仏教ではない」という意味である)といった修行者・思想家が出現し、後にジャイナ教 の始祖となったマハーヴィーラ を輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派 など様々な勢力が伝統的価値観とは異なる新思想運動を展開していた[ 43] 。彼らにとって輪廻からの解脱 は一つのテーマとなっていた。古代インドではバラモン教 の教義(リグ・ヴェーダ など)と輪廻転生 の概念が成立したが、輪廻転生 の概念では、アブラハムの宗教 のように人間のみを特別な生物だとして特別視するようなことはなく、死後にこの世界で生まれ変わったとしても人間以外の動物や家畜に生まれ変わることもあるとされた。そのため輪廻は苦をもたらすものだとして恐れられ、来世への恐怖感が生まれた。順世派 は唯物論 的観点から輪廻転生を否定し、人は死ねばそれで終わりである、来世はない、わざわざ解脱 の修行をしなくても生まれ変わらないのだから解脱 修行の必要はないと説いた。
四門出遊 釈迦が出家 を志すに至る過程を説明する説話に四門出遊 の故事がある[ 9] 。釈迦が初めてカピラヴァストゥ城 から外出したとき、最初の外出では老人に会い、2回目の外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会った。この出来事を契機として、人身は永遠ではなく病や老いを経て死に至る、この世は苦に満ちていると感じた(四苦 )[ 44] 。4回目の外出では一人の沙門 に出会い、老・病・死を超越した生き方を知り、出家の意志を持つようになった[ 45] 。なお仏教の信仰的説話では、父王シュッドーダナは太子(釈迦)の目を汚すとして沿道から老人・病人・死人(人の遺体)を徹底的に排除するよう厳命したが、過去世の記憶を失っていた釈迦に対して世の無常さを目の当たりにさせて成道を促すため、シュッダーディヴァーサ神(浄居天)が老人・病人・死人に変身して釈迦一行の前に現れたと説明される[ 46] [ 47] 。
なぜ私は、自ら
生 の法(ダルマ)を有する者でありながら生まれるものを求め、
自ら老の法を有する者でありながら老いるものを求め、
自ら病の法を有する者でありながら病めるものを求め、
自ら死の法を有する者でありながら死ぬものを求め、
自ら憂いの法を有する者でありながら憂いを求め、
自ら煩悩の法を有する者でありながら煩悩を求めているのだろうかと。[ 48] [ 49]
釈迦は王族としての安逸な生活では無常 や苦 を克服できないと痛感し、この世界の真理を追求しようと志して29歳で出家した[ 9] [ 49] 。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜に釈迦は王城 を抜け出した[ 9] 。当時の大国であったマガダ国 のラージャグリハ を訪れ、ビンビサーラ 王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った[ 9] 。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行 を観察するも、バッカバは死後に天界(デーヴァローカ) に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天界 の幸いも尽きればまた六道 に輪廻 すると悟った(天人五衰 も参照)[ 50] 。釈迦は、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマ の境地(無所有処定 )およびウッダカラーマ・プッタ の境地(非想非非想処定 )と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず[ 9] 、またこれらでは衆生を煩悩 から解放したり真の悟り を得ることはできないと覚った。この三人の師は釈迦の優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、釈迦はこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った[ 51] [ 50] [ 9] [ 52] 。
6年の苦行の後に山から出てくる釈迦を表した像。室町時代 の15世紀から16世紀の作。奈良国立博物館 蔵。 そしてウルヴェーラー (ヒンディー語版 ) の林へ入ると、父のシュッドーダナは、釈迦の警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘 )を同行させた。その後6年の間に様々な苦行 を行った[ 9] [ 52] 。断食 修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした[ 51] 。断食修行により釈迦の心身は消耗し、骨と皮のみのやせ細った肉体となっていた[ 51] 。
私はこれらの辛い苦行によっても、人法を超えた聖なる智見殊勝を証得しなかった。菩提のためには、別の道があるのではないだろうか。[ 51]
しかしスジャーター の施しを得たことで(乳粥供養)、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って釈迦は苦行をやめた(苦行放棄 )[ 9] [ 51] 。その際、五人の沙門は釈迦を堕落者と誹り[ 51] [ 9] [ 52] 、彼をおいてワーラーナシー のサールナート へ[要出典 ] 去った[ 9] 。
ブッダガヤの大菩提寺 のゴータマ・ブッダの菩提樹 釈迦は、悟りを開く直前に悪神マーラ による様々な誘惑を受けたが、それをすべて退けた(降魔 成道)[ 9] 。
釈迦は、ガヤー (現在のガヤー県 内)の近くを流れるナイランジャナー川 (英語版 ) で沐浴 したあと、村娘のスジャーター から乳糜 の布施 を受け[ 11] [ 9] 、体力を回復してピッパラ樹 の下に坐して瞑想 に入った。釈迦は正覚 (悟り )に達してこの世界の真理を体得しブッダ になったとされる(成道)[ 9] 。悟り得た釈迦は六神通 を体得した。
解脱 したとき、「解脱した」という智が生じました。
「生は尽きた。
梵行 は完成した。なされるべきことはなされた。(
漏尽通 によって)もはや二度と生まれ変わることはない」と了知したのです。
[ 51] この後、釈迦は宿命通 で自身の過去世を回想し、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの余韻を味わった。そののち縁起 と十二因縁 を悟ったといわれる。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱 の楽しみを味わったという。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた[ 53] 。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、「法 を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至り、余命を放棄しそのまま涅槃 に入ることも考えた[ 54] [ 48] [ 51] 。
ところが最高神ブラフマー (梵天 )が現れ、衆生 に法を説くよう繰り返し強く請われたとされる(梵天勧請 )[ 51] [ 48] [ 54] 。3度の勧請の末[ 54] 、釈迦は世の中には煩悩 の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した[ 48] 。
五比丘 釈迦はまず、修行時代のかつての師匠のアーラーラ・カーラーマ とウッダカ・ラーマプッタ に教えを説こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知ると[ 55] [ 52] 、ともに苦行をしていた五人の沙門(五比丘 )に説くことにした[ 55] [ 52] 。
ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五人の沙門に対して中道 、四諦 と八正道 を説いた(初転法輪 )[ 55] [ 9] [ 54] [ 52] 。五人は当初、釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが[ 55] [ 52] 、説法 を聞くうちに解脱 した[ 55] [ 9] 。最初の阿羅漢 はコンダンニャ であった[ 55] [ 54] 。法を説き終えた結果、世界には6人の阿羅漢 が存在した[ 55] 。最高の悟りを得て真理を体得した者を阿羅漢 と呼ぶが、原始仏教では釈迦も阿羅漢の1人とされた(現在の仏教教学では、阿羅漢はブッダに次ぐ存在とされブッダと阿羅漢は区別される)。
因果論 は仏教の重要教説である。ドミノ倒しの如く「AによってBが生ずる」と因果性を説くが、業論(カルマ論) と合わせて「自分の生み出した業は善業・悪業問わず、いずれ自らがその果報を必ず受ける」と説明される(自業自得)。「我こそが世界の創造神 である」と称した梵天 に対して「ではあなたは誰によって創造されたのか?」「輪廻転生の摂理もあなたが創造したのか?」と問い、創造神だという考えを論破する釈迦。 釈迦は無我 を説き、常一主宰な我 を否定した上で(肉体があればこそ意識 が生じるのであり、死後肉体が滅んでも霊魂は不滅であるという考えを否定した上で)、業(カルマ) に基づき輪廻転生 すると説いた[ 56] 。その理論を前提として釈迦が目指したものは「輪廻からの解脱を達成し、死後に天界 を含めて一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」 だったというのが宗教学上の通説である[ 6] [ 7] (詳しくは大乗非仏説 参照)。大乗非仏説 では浄土往生 は後世に後付けされた教義と捉える。佐々木閑 は「この世を一切皆苦ととらえ、輪廻 を断ち切って涅槃 に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」と説明している[ 7] 。釈迦の教えは輪廻からの解脱を望む人々のための教えで、一切衆生の救済を対象とするものではなかった[ 57] 。釈迦は、業(カルマ) によって輪廻転生するのは自然法則の一部であり、欲や執着を絶って輪廻の原動力である業を生み出さなければ転生しないという、極めて科学的な解釈をしていた[ 58] 。釈迦は無我 説を否定する教説である常見 (人生は一度限りだが霊魂は不滅であるとする見解)・断見 (出家し、欲や執着を絶って解脱 し涅槃 に入らなくても、人は死ねば二度と生まれ変わらないとする見解)は、悪見 であると批判した。
『沙門果経 』によれば、釈迦は人間の意識について「肉体は元素から成り食物の集積に過ぎず、恒常的ではなく衰退・消耗・分解・崩壊するものである。意識もその肉体に依存している」と説き霊魂を否定したとする(無我 )[ 59] 。
『雑阿含経 』の「盲亀浮木のたとえ」では、輪廻転生の中で人間に生まれるということは得難い機会である、来世で他の生物に転生してしまっては修行ができず輪廻から解脱できない、よって人間である今世こそが輪廻から解脱し入涅槃 できる最上の機会だと心得よ、と釈迦は説いたとする。『中阿含経 』(上座部では小マールキヤ経 )の「毒矢のたとえ」などの記録をもとに「釈迦は来世について沈黙した(無記 )」と説明されることもあるが、清水俊史 は来世の質問に釈迦が答えなかったのは相手を混乱させないため、または来世への執着につながり解脱と入涅槃 の妨げになると考えたためで「来世について沈黙した」というのは誤った解釈であると説明している。清水は『火ヴァッチャ経 』などの記述を元に、一切の衆生は死後転生するが、解脱 したのち死を迎え涅槃 に入った者(修行完成者、如来 )は二度と生まれ変わらないので来世はない、というのが釈迦の真意であると論じている[ 60] 。大谷大学 教授の新田智通 は、原始仏教は明らかに輪廻転生を前提とし、輪廻からの解脱をテーマとしているため、並川孝儀 の学説のように「釈迦は輪廻転生を否定した」という見解を採ると教義が破綻し成立しないと説明している[ 61] 。
釈迦は修行者の修行段階に応じて、何回輪廻転生すれば入涅槃 できるか(輪廻から解脱し生まれ変わらなくなるか)を説いたとされる。例えば阿羅漢 の者は今世で死を迎えれば涅槃 に入り、不還 の者は今世で死を迎えると天界に転生(生天)し、天界でも修行に専念すれば、天人として死を迎えたとき涅槃 に入ると説いたとする。しかし解脱に至る転生回数の教説については原始経典で見解の相違が見られることから、それが体系化されたのはアビダルマ 教学においてである、とする見方もある(詳しくは四向四果 参照)。
修行者たちよ、愚者は正しく苦を滅尽するための
梵行 を行なっていないのだ。それゆえ愚者は身体が崩壊しても(死を迎えても)、新たな身体が生じてそれを得るため(転生するため)、生・老死・悲・悲嘆・憂・悩より解放されず、苦より解放されないのだと私は説く。
ビンギヤが尋ねた。
「私は年をとったし、力もなく、容貌も衰えています。眼もはっきりしませんし、耳もよく聞こえません。私が迷ったまま死ぬことのないようにして下さい。どうしたらこの世において生と老衰とを捨て去ることができるのですか。その理(ことわり)を説いてください。それを私は知りたいのです。」
師(釈迦)は答えた「ビンギヤよ。物質的な形態があるが故に人々は害され、物質的な形態があるが故に人々は病などに悩まされる。ビンギヤよ。それ故に、あなたは怠ることなく、物質的形態を捨てて、再び生存状態に戻らないようにせよ。」
「四方と上と下と、これらの十方の世界において、あなたに見られず、聞かれず、考えられず、また認識できないものもありません。どうか理法を説いてください。それを私は知りたいのです。─どうしたらこの世において(輪廻転生 せず)生と老いとを捨て去ることができるかを。」
師は答えた「ビンギヤよ。人々は妄執に陥って苦悩を生じ老いに襲われているのをあなたは見ているのだから、それ故にビンギヤよ、あなたは怠ることなく励み妄執を捨てて再び迷いの生存状態に戻らないようにせよ。」
開教に際しての、バラモンの神ブラフマー が釈迦に教えを請うた梵天 勧請の故事については「天界の神々 よりも真理体得者のブッダ の方が上位に位置する」、「天界の神々 も衆生であって不死ではなく(天人五衰 参照)、死後どのようになるか分からないので、輪廻からの解脱 を望んでいる」のだと仏教側からは説明された(古代インドでは死後何処に、何の生物に転生するか分からないという来世への恐怖から解脱を望む、という感情があった)。釈迦はこの世界や輪廻転生の摂理は因果によって生じたのであり天界の神々 の存在は認めるが(他宗教で例えるならばヤハウェ のような)世界の創造者 (絶対者 )はいないと釈迦は説いた[ 64] 。釈迦は創造神の存在を想定したとき「ではその創造神は誰によって創造されたのか?」という問いが生じ、その問いに答えるためさらにその神を創造した上位の神を想定するならば「ではその上位の神は誰によって創造されたのか?」「その上位の神を創造した、上位の上位の神は誰によって創造されたのか?」という問いが無限に繰り返されるだけで、意味をなさないと説いた[ 65] 。
創造神の存在を否定する教義は大乗仏教 にも引き継がれている。例えば新井白石 はシドッチ の取り調べの中で「創造論 が正しいとするならば創造神デウス (ヤハウェ )自体を何者かが造って、天地がまだ存在しない時点で生まれたことになる。そうではなくてデウスが自ら勝手に生まれたと主張するならば、天地が勝手に生まれたとしてもおかしくはない」「キリスト教は仏教に比べて教義が劣っている」と述べ、創造論 を退けている[ 66] 。
ラージャグリハ の霊鷲山 ラージャグリハ の竹林精舎 釈迦は自らブッダ (目覚めた者)を名乗り、主に北インドを中心として教化活動を行った。釈迦の説く法は自ら悟り得たもので「私に師はいない」と釈迦は称した(無師独悟、縁覚 )。現在ではブッダ は釈迦の固有名詞のように捉えられているが、本来の意味合いとしては真理体得者(悟りを得た者)や聖仙 の称号の一つでありジャイナ教 のマハーヴィーラ も「ブッダ」と呼ばれていた[ 67] 。
バラモン のセーラは言った。「あなた(釈迦)は見るも美しい修行者(比丘 )で、その皮膚は黄金のようです。このように容色が優れているのに、どうして求道者となる必要がありましょうか。あなたは転輪聖王 (世界を支配する帝王)になって全土(インド全土)の支配者となるべきです。クシャトリヤ や地方の王どもは、あなたに忠誠を誓うでしょう。ゴータマ(釈迦)よ。王の中の王として、人類の帝王として、統治をなさってください。」
師(釈迦)は答えた、「セーラよ。私は王だが、真理の王である。真理によって法輪 を回すのである。」
セーラは言った。「あなたは目覚めた者(ブッダ )であると、みずから称しておられます。ゴータマ(釈迦)よ。あなたは「真理の王」だと説いておられます。では誰があなたの将軍なのですか? 師の相続者である弟子は誰ですか?あなたが回された法輪を、誰があなたに続いて回すのですか?」
師(釈迦)が答えた。「セーラよ。私が回した輪、すなわち無上の法輪は
サーリプッタ が回す。私は、知らねばならぬことをすでに知り、修むべきことをすでに修め、断つべきことをすでに断った。それ故に、私は目覚めた者(
ブッダ )である。
ナーガ に守護されるブッダ釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャス やカピラヴァストゥのプルナ らを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ 、ナディー・カッサパ 、ガヤー・カッサパ の3人(三迦葉 )は釈迦の六神通 を目の当たりにして改宗した[ 69] 。当時、この3人はそれぞれがアグニ を信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。
釈迦はマガダ国 の都ラージャグリハ に行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩 の炎によって、あなた自身も、あなたたちの世界も燃えさかっている」と弟子らに説き、煩悩の炎が吹き消された状態としての涅槃 を求めることを教えた。なお『スッタニパータ 』ではウバシーヴァの「輪廻からの解脱 を達成し涅槃 に入った者はどうなるのか?」という問いに対して、釈迦は「炎が消えたとき炎はどこへ行ったのかと問うようなもので、それを知覚し捉えることはできない」と答えている[ 70] 。
釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラ も仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎 を教団に寄進した[ 69] 。このころサーリプッタ 、マウドゥガリヤーヤナ 、倶絺羅 、マハー・カッサパ らが改宗した。
以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと釈迦に帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律 (具足戒 ・五戒 )が設けられるようになった。あらゆる欲や執着を絶ち輪廻からの解脱 を達成するため、修行者は必要最低限以上の物を所有することや、一切の生産活動に従事することが戒律で禁止された[ 71] 。修行者は生産活動に従事できないため托鉢 (乞食 )で得られる食料によって命を繋いだ[ 72] 。在家信者とサンガ(僧伽 )の関係については、在家信者らは解脱 という高尚な目標のために邁進するサンガ(僧伽 )に布施 をして善業 の果報による良い輪廻転生を期待し、サンガは在家信者からの布施を受けて輪廻からの解脱に専念するというギブアンドテイクの関係にあった[ 58] 。
サーンチー の仏教レリーフの父子相見の場面(紀元前1世紀頃)。紀元前の仏教では釈迦の偶像化が徹底的に忌避されたため、父王シュッドーダナ は上を見上げて合掌しているが、釈迦の身体は一切描写されていない[ 73] 。レリーフの詳細についてはen:Sanchi Stupa 参照のこと。これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、成道した釈迦は故郷に一度帰還したとされ、父王シュッドーダナ と面会した(父子相見[ 74] )。仏伝によれば、釈迦は六神通 を使って空を飛ぶ、自分の分身を作り出すなどの奇跡を起こし、一族は皆、釈迦に恐れおののいたという[ 74] 。故郷カピラヴァストゥへの釈迦の帰還によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ 、アーナンダ 、アニルッダ 、デーヴァダッタ 、またシュードラ の出身であるウパーリ が先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河 を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 のカンマーサダンマ (kammāsadamma) や、ヴァンサ国 のコーサンビー などである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティー の祇園精舎 で開かれた。
このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス 中流地域を包んでいる。アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んでいる。
天界の神々 に法を説くブッダ釈迦の生涯の奇跡のうち、釈迦が40代の時のある同じ年に連続して起こした奇跡「舎衛城の神変」「三道宝階降下」が特に著名である。この奇跡はサーンチー のレリーフやガンダーラ仏、マトゥラー仏 などでもよく題材にされている。
釈迦が40代の時のある年に、舎衛城 で外道(仏教以外の沙門 )から神通力による勝負を挑まれたため、六神通 を使って大量の自分の分身を作り出す(千仏化現)、肩口から火炎を上げて足元から水流を放つ(双神変 (英語版 ) )などの奇跡を釈迦は披露して見せ、外道らを退散させた(舎衛城の神変)。その後釈迦は亡き母の元を訪れることを思い付き、神足通 を使って三十三天 を訪れて、三十三天に転生していた母マーヤー と天界の神々に説法を行った。帰りは帝釈天が用意した豪華な階梯を使って地上に帰還した(三道宝階降下)、という内容である。
『ブッダチャリタ 』では三道宝階降下について以下のように記述される。
彼(釈迦)は三種の生存界(三有)を超えて、天に昇って行かれたが、それは母に利益を与え、彼女のために教えを説こうと思われたからである。こうして天に行かれた牟尼(釈迦)は天に住む母を知恵をもって教化しおわり、空中の神々の供養を受けたのちに、神々の世界から
サンカーシュヤ に降りられた。
『パーリ仏典 』では地上に帰還した際の経緯は次のように説明される。釈迦が天界から人間界のサーリプッタ の元に帰る予定であると帝釈天 (インドラ )に告げると、帝釈天 は見送りのもてなしとして天界と地上(人間界)を結ぶ豪華な階梯を用意させた。階梯は三種あり黄金製・銀製・瑠璃製のものがあった。釈迦は神足通 を使わず階梯を使って帰還し、帝釈天 と梵天 (ブラフマー )、その眷属 らが付き従った。釈迦は黄金の階梯、梵天 は銀の階梯、帝釈天 は瑠璃の階梯を使ってサンカーシュヤ に降下したという[ 76] 。釈迦が天界の神々を付き従えてサンカーシュヤ に降下したとする日はラバブ・ドゥーチェン (英語版 ) (降臨祭)としてスリランカ 、チベット 、タイ などで祝われている。
ガンダーラ仏で描写される
双神変 (英語版 ) の場面。肩口から火炎を上げ、足元から水流を放っている。
双神変 (英語版 ) の場面(マレーシアの仏教寺院Wat Olak Madu)。参考画像。
サーンチー の三道宝階降下のレリーフ(紀元前1世紀頃)。
ガンダーラ仏の三道宝階降下のレリーフ。
仏教の五逆罪のうち「破和合僧」では、分派を形成することや教団内紛を引き起こすことは重大な戒律違反であるとされる。しかし実際には釈迦在世中から教団内紛が発生していたと考えられている。
教団の分派形成と釈迦殺害を試みた悪業 の報いを受けて、生きながら地の底(地獄)に引きずり込まれるデーヴァダッタ 酔象調伏のレリーフ(マトゥラー仏 ) 教団内紛で広く知られるものはデーヴァダッタ 率いる分派と教団主流派との対立である。デーヴァダッタ は釈迦の従兄弟とされる。仏教主流派の伝統説話では、デーヴァダッタ は釈迦の定めた戒律(具足戒 )は手ぬるいと批判し、より厳格な戒律の制定を提案したものの釈迦が受け入れなかったため対立が生じたという。デーヴァダッタ が釈迦に提唱した「五事の戒律」は以下の通りである。
僧は人里離れた森林に住すべきであり、村々に入れば罪となす。 僧が乞食(托鉢)をする場合に、家人から招待されて家に入れば罪となす。 僧は糞掃衣(ふんぞうえ)を着るべきであり、俗人の着物を着れば罪となす。 僧は樹下に座して瞑想すべきであり、屋内に入れば罪となす。 僧は魚・肉・乳酪 を食さず、もし食したら罪となす。 仏教主流派(非デーヴァダッタ派)に伝わる伝統説話では、デーヴァダッタ は分派を形成するのみならず釈迦の殺害も企てたとされる。デーヴァダッタ はまず釈迦を落石で殺害しようと試みたが失敗した。釈迦は軽傷を負い血を流したものの命に別状はなかった[ 77] 。続いてデーヴァダッタ は酔象(酒に酔わせた象、発情期の象の2通りの解釈がある)を放って釈迦殺害を試みたが、釈迦は全く臆することなく暴れる象に法を説き調伏させた(大人しくさせた)という[ 78] [ 77] 。この説話は酔象調伏の故事として広く知られる。デーヴァダッタ はこれらの企ての後、五逆罪(出仏身血、破和合僧)の悪業 の報いを受けて、生きながらにして地の底(地獄)に引きずり込まれたという[ 78] 。
『スッタニパータ 』では、僧コーカーリヤ が阿羅漢 であるサーリプッタ とモッガッラーナ を誹謗中傷した結果、悪業 の報いを受けて悲惨な最期を遂げ、さらに地獄に転生したという説話があるが、この説話の成立にも教団内紛が関わっているとする説がある。
『スッタニパータ 』の説話は以下の通りである。僧コーカーリヤ が釈迦の元を訪れ、「尊き師(釈迦)よ。サーリプッタ とモッガッラーナ には邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」と進言した。釈迦は「コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタ とモッガッラーナ を信じなさい。彼らは善良な人たちだ」と答えた[ 79] 。しかしコーカーリヤ は同じ進言を繰り返し、釈迦も同じ回答を繰り返した。コーカーリヤ は進言を諦め釈迦の元を立ち去った。その後コーカーリヤ の体には小さな腫れ物ができたが、日に日にそれが大きくなり最後には腫れ物が破裂して出血死した[ 79] 。最高神で娑婆世界の主であるブラフマー (梵天 )は釈迦の元を訪れ「尊いお方様(釈迦を指す)、修行僧コーカーリヤは死去しました。コーカーリヤはサーリプッタ とモッガッラーナ に対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄 に転生しました」と報告し、敬礼して(右繞三匝 して)釈迦の元を立ち去った。釈迦はその後、弟子らの前で「人の口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自らを斬り割くのである」と説き、地獄に転生したコーカーリヤ について様々なたとえを用いて「彼が地獄で苦しむ期間は長い」と説明した[ 79] 。『スッタニパータ 』のこの説話は「諸々の智者の計算によれば(コーカーリヤが地獄で苦しむ期間は)五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄に留まらなければならない。それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳を目指して、常に言葉を慎むべきである」という文で結ばれている[ 79] 。
中村元 はこの説話について、サーリプッタ とモッガッラーナ は元々、懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタ の門下であったため他の釈迦の弟子らと不仲であったという見解を提示している[ 80] 。『スッタニパータ 』以外の原始経典によれば、突然の雨に見舞われたサーリプッタ とモッガッラーナ はある家で雨宿りをしたが その家には先客として女人がいたため、サーリプッタ とモッガッラーナ を嫌うコーカーリヤ は彼らを陥れるため「サーリプッタ とモッガッラーナ は女人と間違いを犯した」と吹聴したという[ 80] 。中村元 は、史実の釈迦はこうした内紛を抑え、弟子らの仲を取り持つため努力していたようだが、そうした調停が困難になりこうした説話が成立したと説明している[ 80] 。
釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、入滅前の1年間の事歴である。『パーリ仏典 』収録の『大パリニッバーナ経 』や、漢訳の『長阿含経 』の中の「遊行経」とそれらの異訳などの記録である。
アーナンダよ。私はもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。たとえば古ぼけた荷車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らく私の身体も革紐の助けによって保たれているのだ
[ 81] 。
入滅 の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居 が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎 から始められたといわれている。
この頃コーサラ国 では内紛があり、国王プラセーナジット の子ヴィドゥーダバ が挙兵し、父王から王位を簒奪 した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁いでいたマガダ国のアジャータシャトル を頼って向かったが、城門に達する直前に絶命した。
新王ヴィドゥーダバは即位後、即座にシャーキャ国 の攻略に向かった。この時、釈迦はシャーキャ国のカピラヴァストゥ に残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を道筋の樹下に座って三度阻止した。しかしシャーキャ国の滅亡は業(カルマ) によるもので宿因の止め難きを覚り、四度目の出兵では釈迦は阻止を試みず、ついにカピラヴァストゥは攻略された。その後コーサラ国 の王ヴィドゥーダバ 自身も真理体得者(釈迦)の一族を皆殺しにした悪業 の報いを受けて、河で戦勝の宴の最中に、洪水または落雷によって命を落としたという。
釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。
釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(巴 :ambalaṭṭhika )へ、ナーランダ を通ってパータリ村(後のパータリプトラ )に着いた。ここで釈迦は在家信者に対して、仏法を拠り所として戒律(五戒 )を遵守して生きれば善業 を生み、その果報として死後天界 に転生(生天)すると説いた[ 82] 。パータリプトラを後にして、増水していたガンジス河 を渡り、コーティ村 に着いた。『ブッダチャリタ 』では、釈迦一行は六神通 の一つ神足通を使ってガンジス川を瞬間移動で渡河したという逸話がある[ 83] 。
次に釈迦は、ナーディカ村 を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダ の質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流 の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡 の説法をする。次にヴァイシャーリー に着いた。ここはヴァッジ国 の首都であり、アンバパーリー という遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処 や三学 を説いた。やがてここを去ってベールヴァ (Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故 を求めて安居に入った。この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽 のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、
修行者たちは私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別なく、ことごとく法を説いた。アーナンダよ、如来(修行完成者、釈迦本人を指す)の教法には教師の握り拳(
ācariyamuṭṭhi 、秘密の奥義)はない。
[ 84] と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。
アーナンダよ、あなたたちは、自らを灯明とし、自らを拠り所として、他のもの(
añña )を拠り所としてはならない
[ 84] と訓戒し、また、「自らを灯明とすること・法を灯明とすること」とは具体的に どういうことかについて、
ではアーナンダよ、修行者が
自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明、法灯明 )ということはどのようなことか? アーナンダよ、ここに修行者は、身体について…感覚について…心について…諸法について…(それらを)観察し(
anupassī )、熱心につとめ(
ātāpī )、明確に理解し(
sampajāno )、
よく気をつけていて (
satimā )、この世界における欲と憂い(執着)を捨て去るべきである。
[ 84] として、いわゆる四念処 (四念住)の修行を実践するように説いた。
これが有名な「自灯明、法灯明 」の教えである。
『大パリニッバーナ経 』と『ブッダチャリタ 』では具体的に何の神通力によるものかは明記されていないが、釈迦は入涅槃にあたり、釈迦は死期を自ら定めたということになっている。それらの仏典によれば経緯は以下の通り。病から回復した釈迦の前に、かつて成道を妨害しようとした悪神マーラ が再び現れた。マーラは釈迦の教化によって堕落した人間が減り、自らの領域が狭まることを恐れ「あなた様はこの世界で法を説いて回り、もうなすべき事は全てなした筈です。生に執着せず涅槃 に入られたらいかがですか」と釈迦に入涅槃を勧めた。これに対して釈迦は余命(一説には釈迦は現世で善行をなしていたので一劫年 の余命があったとも[ 85] 、一方「一劫年」は経典の誤読とする説もある[ 86] )を捨てる決意をし、釈迦はマーラに「慌てることはない、あと3か月もすれば私は涅槃 に入るだろう」と答えた。釈迦が自ら余命を捨てたため大地で地震が起こり、アーナンダ が何かの変事かと思い釈迦の元に駆け付けて理由を問うと、「私は自ら余命を捨てる決意をしたので地震が起きたのである」と答えたという[ 87] [ 88] 。
やがて雨期も終わって、釈迦は、ヴァイシャーリーへ托鉢 に戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと六神通 について説いた[ 89] 。
托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来(釈迦)のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagāma) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigāma)、アンバ村 (ambagāma)、ジャンブ村 (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学 を説いた。釈迦は、ここで鍛冶工のチュンダ のために法を説き供養を受けたが、チュンダが供した料理を食した釈迦は激しい腹痛に見舞われた。
鍛冶工のチュンダ のささげた食物を召して、死に至る激しい病に罹られた。下痢をしながらも師(釈迦)は言われた。「私はクシナガラ へ行こう」と。
腹痛の原因は「スーカラ・マッタヴァ」という料理だったが『大パリニッバーナ経 』ではそれが何の料理だったかについて具体的な説明はない。上座部仏教 で最も権威ある仏典注釈者のブッダゴーサ は「若すぎず老いすぎない上等な野豚の生肉である」と注釈を付けている[ 91] 。宇井伯寿 はキノコ料理説を提示している[ 92] 。かつては、鍛冶工チュンダ は貧しい貧民であり供された供物も粗悪なものだったので食中毒を発症したという説が存在したが、現代の研究では鍛冶工はカーストの下位に属するものの『大パリニッバーナ経 』に「チュンダ はマンゴー林を所有していた」という記述が見られることから、チュンダ は貧民ではなく富裕層に属すると解されるのが一般的である[ 93] 。
釈迦は「スーカラ・マッタヴァを完全に消化できるのは、修行完成者(釈迦)の他にいない。人間を含む全ての生物や天の神々でも消化できる者を見出すことはできない」と説き、残ったスーカラ・マッタヴァを他の者は食べずに、地面に穴を掘って埋めるよう指示した[ 94] 。
現代人の感覚から見れば「釈迦は食中毒で死去した」と受け止められる。しかし上座部仏教徒 は、釈迦の直接の死因は釈迦が悪神マーラとの対話の中で自ら余命を放棄したことによるもので、余命の放棄で生命力が減退していたために食中毒を発症したという、食中毒はあくまで二次的な死因と解釈している[ 95] 。
アジャンター石窟群 の釈迦入滅のレリーフ(世界遺産 )激しい腹痛に見舞われた釈迦だったが歩みを止めることなく、カクッター河で沐浴したのちマッラ国 のクシナガラ へ向かった。釈迦はクシナガラで自らの最期が近いと覚り、この地で入滅する決意を固めた。アーナンダ は「尊いお方様(釈迦)は小さな町で入滅してはなりません。尊いお方様は王舎城 のような大都市でお亡くなりになってください。そうした大都市には裕福な王族、裕福なバラモン 、裕福な資産者がおり修行完成者(釈迦)を崇拝しています。彼らは修行完成者の遺骨を崇敬の対象にすることでしょう」と進言したが、釈迦は「そのような(クシナガラを蔑視する)発言をしてはならない」と戒めた[ 96] 。
釈迦は、チュンダ が「修行完成者(釈迦)を死に追いやった悪業 の報いが必ず自分に降りかかる」という恐怖にかられている可能性を考慮し、アーナンダに「修行完成者(釈迦)はスーカラ・マッタヴァを食して涅槃 に入った(輪廻 からの解脱 を達成した)。よってチュンダ には大いに功徳がある」とチュンダ に伝えるよう指示した[ 97] 。
釈迦はクシナガラ近くのヒランニャバッティ河のほとりへ行って横たわり、そこで入滅して涅槃 に入った。80歳であった。佐々木閑 は釈迦の説く涅槃 の意味合いについて「解脱 し悟り を開いた者(修行完成者)だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」と説明している[ 6] 。『ブッダチャリタ 』では涅槃に入った釈迦について「地上においては老・死の恐怖はなく、天上 においては天界 から落ちる恐怖(天人五衰 )はない。(中略)生があれば不快が生じる。再び輪廻に生まれないことによる非常な快以上の快はない。」と述べている[ 98] 。
悲しむなかれ、嘆くなかれ、アーナンダよ。私は説いていたではないか。最愛で、愛しい全ての者たちは、離ればなれになり、別離する運命ではないかと[ 99] [ 100] 。
アーナンダよ、あなたたちのために私が示し定めた「法 と律 」が、私の滅後は、あなたたちの師である[ 99] 。
釈迦の最期の言葉は以下であった。
さあ修行者たちよ、いまあなたたちに伝えよう。
全ての事象 は変わり過ぎ去るものである(諸行無常)。
怠る ことなく修行を完成させなさい
[ 99] 。
サーンチー の仏教レリーフ。七大国の大軍に包囲されるクシナガラ。レリーフの詳細についてはen:Sanchi Stupa 参照のこと。釈迦の滅後、その遺骸は釈迦の弟子らとマッラ族の人々の手によって火葬 された。当時、釈迦に帰依していた七大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利 )を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、マッラ族の人々はこれを独り占めしようとし諸国の王らの要求を拒否した。そのため七大国の王たちは軍勢をクシナガラに差し向け、クシナガラは大軍に包囲されたが[ 101] 、ドーナ(dona、香姓。独楼那、徒盧那とも[ 102] )というバラモンの調停を得て仏舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てたという。
その八大国とは、
クシナガラ のマッラ族 マガダ国のアジャタシャトゥル王 ベーシャーリー のリッチャビ族 カピラヴァストゥ のシャーキャ族 アッラカッパ のプリ族ラーマ村のコーリャ族 ヴェータデーバのバラモン バーヴァーのマッラ族 である。
弟子たちは釈迦の遺した教えと戒律 に従って跡を歩もうとし、何度か結集 を行い釈迦の教法と律とを口伝で伝世させた。それらが文字化されたものが『パーリ仏典 』や『阿含経典 』群であるとされる。
釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の一次史料が皆無に等しく、一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった(釈迦は架空の人物という説もあった)。
近現代においては文献学的な考証から、大乗経典の成立時期の問題からして、『パーリ仏典 』や『阿含経典 』群のみに釈迦直説の教説が説かれているとし、他の教説は後世に付け加えられたものであるとされた(大乗非仏説 )。『パーリ仏典 』のスッタニパータ は最古層に属する仏典ということで宗教学者・文献学者・言語学者の間で見解の一致を見ているが、『パーリ仏典 』に関しても全てが釈迦の直説ではなく、『天宮事経 』や『譬喩経 』など後年に創作されたものも含まれると考えられている。
注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経 のことで、続く数字は巻数とページ数である。
修行本起経 〔大正・3・461〕瑞応本起経 〔大正・3・472〕 - これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。過去現在因果経 〔大正・3・620〕 - 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。中本起経 〔大正・4・147〕 - 成道から晩年までの後半生について説く。仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕仏本行集経 〔大正・3・655〕 - これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。十二遊経 〔大正・4・146〕 - 成道後十二年間の伝記。方広大荘厳経 (普曜経) - これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている[要出典 ] 。ブッダチャリタ 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita )馬鳴 著マハーヴァストゥ 遊行経 『長阿含経 』中 仏般泥洹経 白法祖訳 大般涅槃経 法賢訳 - 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。『自説経 (ウダーナ)』 - パーリ語による仏典[ 注釈 5] 。 アショーカ王の建てた石柱には、ブラーフミー文字で『ブッダ生誕地なのでルンビニでは税を免除する』と刻まれている。 1868年 、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラー (英語版 ) がネパール の南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字 で、「アショーカ王 が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地 のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニ だとわかった。
イギリス駐在官W・C・ペッペが発掘した「ゴータマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」と書かれた壺。 1898年にルンビニに程近いピプラワ (英語版 ) 遺跡で、イギリス駐在官W・C・ペッペが「ゴータマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」と書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した遺骨の壺は、現在では真の仏舎利 として最も信憑性があるとされている[ 103] 。この壺は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、仏舎利の一部は日本では覚王山日泰寺 に納められている[ 104] 。
シャーキャ国の都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥ は、法顕 が5世紀に、玄奘 が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼 の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教 やイスラム教 にとってかわられ、釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。
現代ではネパールとインド間で、カピラヴァストゥの比定地を巡って論争になっている。インド側はネパール国境に近いウッタル・プラデーシュ州 バスティ県のピプラワ (英語版 ) 遺跡(上述のW・C・ペッペが釈迦の骨壺を発掘した遺跡)がカピラヴァストゥの比定地だと主張し、ネパール側はティロリコート (英語版 ) がカピラヴァストゥの比定地だと主張している。
釈迦の没年は、仏教経典に「仏滅から○○年後にアショーカ王が即位した」と記述されるため、アショーカ王の即位年を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に大乗仏教 と上座部仏教 の経典 で100年以上の差がある。ただし北伝仏教の『歴代三宝紀 』収録の「衆聖点記」に関しては上座部経典の伝える入滅年と同じ見解を採る。
日本の仏教学者の宇井伯寿 や中村元 は大乗仏教の経典に基づき、欧米の仏教学者の多くは上座部仏教 の経典(パーリ経典 )に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経 』その他いずれの典拠においても釈迦が80歳で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。
上座部仏教 の本場スリランカに伝わる『マハーワンサ 』や、上座部仏教で最も権威ある仏典注釈者ブッダゴーサ の注釈によれば「仏滅から218年後にアショーカ王が即位した」と記録される。その記録に基づけば釈迦の入滅年は紀元前486年と導かれる。山崎元一 は、古代インドのバラモン教側の歴史史料や、ジャイナ教 側の歴史史料(マハーヴィーラ 入滅から○○年後に○○王が即位した、○○が死去したなどの記録が多く残る)も踏まえれば、スリランカ上座部の伝える釈迦の没年(紀元前486年 )が圧倒的に歴史学的根拠があると説明している[ 4] 。
主な推定生没年は、
等がある[ 注釈 6] 。
考古学による調査結果からの推定もあり、2013年にルンビニ で紀元前6世紀の仏教寺院の遺構 が見付かったと報道された[ 106] 。この遺構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中村説は否定されることになる。ただし、問題の遺構は必ずしも仏教寺院のものとは限らないとする反論もある[ 107] 。
釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、紀元前7~5世紀頃のインド北部(現在のビハール州マガダ地方)で生まれたため、主にマガダ語 (Magadhi Prakrit)というプラークリット語 の方言を話していたと考えられている。
これは、当時の東部インドの一般的な口語で、サンスクリット (古典語)とは異なり、庶民的な言語であった。
釈迦の教えは多様な聴衆に届けるため、地方の方言を使い分けていた可能性もあるが、経典の記述からマガダ語が本人の母語とされている。
言語環境: 釈迦の時代はヴェーダ語 (サンスクリットの祖語)とプラークリット語(口語)が並存。釈迦は王族だが、庶民に近いマガダ語を使い、教えを平易に伝えたとされる。パーリ語 (経典の保存言語)は後世の標準化版で、釈迦の口語に近いが、釈迦自身が話したわけではない。 経典の記述: 『マハーパリニッバーナ・スッタ』(長部経典)で、釈迦は死の床で「私の言葉はマガダ語で伝えた」と示唆。後世の注釈書(アッタカター)でもマガダ語が釈迦の言語とされる。 学説: 学者(例: エドウィン・アーノルドの研究)では、マガダ語が釈迦の自然な話し言葉で、パーリ語はスリランカでの経典編纂(紀元前1世紀)で標準化されたものとされる。 釈迦の教えは口承で伝えられ、言語の違いを超えて普遍的に広がった。
上座部仏教 では、釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢 と呼ばれ、仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。一方大乗仏教 では三身説 をとり、姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏 、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏 (人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)に対して、応身仏 である釈迦は衆生を救うため人間としてこの世に現れた仏であると説明される。
釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教 は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派 のプラーナ文献 に釈迦はヴィシュヌ のアヴァターラ として描写されている。ただし、ヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とはいえ、必ずしも肯定的な評価ではない。
この件に関して、20世紀 に新仏教運動 を興したアンベードカル はヴィシュヌ派による釈迦の扱いを「偽りのプロパガンダ 」と呼んで非難している[ 108] 。一方で、新ヴェーダーンタ学派 (英語版 ) のサルヴパッリー・ラーダークリシュナン は、『法句経 』を英訳した際の註釈で、釈迦の思想が極端に誇張されて伝わったのは当時とそれ以降の時代背景のせいで、釈迦の思想はウパニシャッド から派生したもの、と評価している[ 109] 。なお、インド憲法 でも仏教はシク教 ・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教 の分派のひとつとして扱われている[ 110] 。
マニ教 の開祖であるマニ は、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。
マルコ・ポーロ の体験を記録した『東方見聞録 』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒 であればイエス にかしずく聖人になっていただろう」[ 111] あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」[ 112] としている。また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教 以外の宗教は全て「偶像崇拝教 」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は、釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。釈迦はマルコ・ポーロの時代より1世紀前に、ローマ教会 よりヨサファトの名で聖人 として加えられていた(仏教とキリスト教 )が、マルコ・ポーロはそんな事はまったく知らなかった[ 113] 。
多種多様な仏像を祀る大乗仏教 は偶像崇拝 という印象もあるが、紀元前の仏教では反偶像主義の立場がとられ、ムハンマドの表象 のように開祖の釈迦を像や絵画として描写することが忌避されていた[ 114] 。サーンチー の仏教レリーフでは釈迦を描写することが徹底的に忌避され、場面的に釈迦が登場せざるを得ないシーンでも法輪や聖樹に置き換えて表現するなどの対応がとられている[ 73] 。例えば『パーリ仏典 』や『ブッダチャリタ 』などに記録される、舎衛城の神変で 肩口から火炎を上げて足元から水流を放ったという奇跡(双神変 (英語版 ) )を釈迦が披露した場面や、成道した釈迦が父の浄飯王 に再びまみえ六神通 で釈迦が空中に浮遊した場面(父子相見[ 74] )などでも、釈迦の身体は一切描写されていない[ 115] 。釈迦の描写が忌避された理由については「私の死後は私の説いた法を拠り所にすべきであって、私自身を信仰の対象にしてはならない」という釈迦の遺言に基づいていたなど諸説ある[ 116] 。釈迦の図像化はガンダーラ仏の出現によって忌避されるものではなくなり、多種多様な仏像が造像されるようになり今日に至っている[ 117] 。
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Māyā was called Gotami (
Therag. 535)
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