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出典検索?"郢" – ニュース ·書籍 ·スカラー ·CiNii ·J-STAGE ·NDL ·dlib.jp ·ジャパンサーチ ·TWL
(2019年9月)

(えい、拼音:Yǐng)は、春秋戦国時代首都、および首都を指す名称である。

歴史

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楚は遷都するたびに都城を郢と名づけており、郢と呼ばれた都は複数存在する。後世では時代や場所ごとに区別するため、郢に接頭辞を加える。

楚の歴代の都城は以下の通りである。なお、現在地名は推測であることを留意されたし。

  1. 丹陽:成王の時代に初代君主熊繹が封じられた地。丹江の北側にあり、楚人の移住に伴って移動したので固定の地名ではない。
  2. 郢:文王(一説には武王)の時代に遷都した。伝統的な見方によれば紀元前690年頃から紀元前278年の計400年以上にわたり楚の都だった。後に南郡が置かれた。現在の湖北省荊州市荊州区に位置する。
  3. 鄀(鄀郢):昭王の時代に遷都した。後に郢に戻った。現在の湖北省襄陽市宜城市南東部に位置する。
  4. 鄢(鄢郢):恵王の時代に遷都した。後に郢に戻った。現在の湖北省襄陽市宜城市南東部に位置する。
  5. 陳(陳郢):頃襄王21年(紀元前278年)に白起に郢を落とされて遷都した。現在の河南省周口市淮陽区に位置する。
  6. 鉅陽(巨陽とも):考烈王10年(紀元前253年)に遷都した。陪都説がある。現在の安徽省阜陽市太和県に位置する。
  7. 寿春(寿郢):考烈王22年(紀元前241年)に遷都した。現在の安徽省淮南市寿県に位置する。

紀南城遺跡

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湖北省荊州市荊州区にその跡地が存在し、現在では紀南城遺跡として、全国重点文物保護単位に指定されている。

多くの学説によれば、少なくとも春秋時代後半から紀元前3世紀頃までは、楚はこの都市を郢と呼んで首都としていたとされている。また、春秋左氏伝には、文公14年(前613年)と昭公23年(前519年)にそれぞれ「城郢(郢に城く)」とあることから、少なくともこの頃までには、楚はこの遺跡を首都として城壁の造営工事を行ったとされており、考古学的裏付けもされている。

ただし、この遺跡の一部には、春秋中期のものと見られる遺構もあることから、それ以前から楚がこの地を郢と呼び、首都を置いていた可能性も指摘される。この遺跡は、現在荊州市の行政区画内にあり、その城壁はおしなべて方形で、北3547m、西3751m、東3706m、南4502m、付近の八嶺山や紀山には当時の楚の王族の墓も散見される。

参考文献

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関連項目

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国立図書館
その他
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