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近江国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近江国

-近江国
-東山道
別称江州(ごうしゅう)
近州(きんしゅう)
所属東山道
相当領域滋賀県
諸元
国力大国
距離近国
12郡93郷
国内主要施設
近江国府滋賀県大津市近江国庁跡
近江国分寺1.(推定)滋賀県甲賀市紫香楽宮跡
2.(推定)滋賀県大津市野郷原
3.(推定)滋賀県大津市光が丘町
近江国分尼寺(未詳)
一宮建部大社(滋賀県大津市)
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近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道に属する。現在の滋賀県全域にあたる。

「近江」の名称と由来

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→「琵琶湖 § 呼称」も参照

近江は、『古事記』では「近淡海(ちかつあはうみ)」「淡海(あはうみ)」と記されている。7世紀、飛鳥京から藤原宮期の遺跡から見つかった木簡の中には、「淡海」と読めそうな字のほか、「近淡」や「近水海」という語が見えるものがある。「近淡」はこの後にも字が続いて近淡海となると推測される[1]。国名は、琵琶湖を「近淡海」と称したことに由来するとする説が広く知られているが、琵琶湖を「近淡海」と記した例はなく、『万葉集』をみても、琵琶湖は、「淡海」「淡海之海」「淡海乃海」「近江之海」「近江海」「相海之海」と記されている。「淡海」の所在する国で、畿内から近い国という意味であり、「近つ『淡海国』」であり、「『近つ淡海』国」ではない[2]。おおよそ大宝令の制定(701年)・施行を境にして、近江国の表記が登場し、定着する。和銅6年(713)4月丁巳(25日)の、諸国郡郷名には好字二字をつけよ、との法令による。

沿革

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→詳細は「滋賀県 § 歴史」を参照

近世以降の沿革

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国内の施設

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近江国は畿内に隣接し、これまでに3度天皇の住居(宮)が構えられている。

古事記,日本書紀には志賀高穴穂宮の存在が記述されており、景行天皇,成務天皇,仲哀天皇が都したとされている。

国府

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栗太郡勢多に所在。1964年昭和39年)に現在の大津市三大寺で遺跡が発見された。国府の遺跡が発見された最初の例である。

国分寺・国分尼寺

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国分僧寺は、はじめ甲可寺(現 甲賀市信楽町、紫香楽宮跡とされてきた)に設置された。その後、瀬田廃寺(大津市神領)にうつり、焼失の後、820年弘仁11年)に国昌寺跡(大津市国分)に移された。ここでは最澄が若き日に修学しているとされる。国分尼寺跡としても、石山国分遺跡(大津市国分)が有力視されている。

神社

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延喜式内社
延喜式神名帳』には、大社13座10社・小社142座132社の計155座142社が記されている(近江国の式内社一覧を参照)。大社10社は以下に示すもので、全て名神大社である。
総社一宮以下

地域

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江戸時代の藩

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近江国の藩の一覧
藩名居城藩主
彦根藩佐和山城
(1600年~1606年)
彦根城
(1606年~1871年)
井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石)
膳所藩膳所城

戸田家(1601年~1616年、3万石)
本多家(1616年~1621年、3万石)
菅沼家(1621年~1634年、3万1千石)
石川家(1634年~1651年、7万石→5万3千石)
本多家(1651年~1871年、7万石)

水口藩水口城

加藤家(1682年~1695年、2万石)
鳥居家(1695年~1712年、2万石)
加藤家(1712年~1871年、2万5千石)

大溝藩大溝陣屋

分部家(1619年~1871年、2万石)

仁正寺藩仁正寺陣屋

市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石)

山上藩山上陣屋

稲垣家(1698年~1871年、1万3千石)

近江宮川藩宮川陣屋

堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石)

三上藩三上陣屋

遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石)

堅田藩堅田陣屋

堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石)
下野佐野藩に転封、堅田藩は廃藩

朽木藩朽木陣屋

朽木稙綱(1636年~1648年、1万石)
朽木家は下野鹿沼藩に転封、朽木藩は廃藩

大森藩大森陣屋

最上義俊(1622年~1632年、1万石)
嗣子・義智が幼年のため5千石の交代寄合とされ、大森藩は廃藩

近江高島藩

佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石)
信濃飯山藩に加増転封、近江高島は飯山藩領の飛び地となったが、後に佐久間氏は無嗣改易となり近江高島は天領となった

近江小室藩小室陣屋

小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石)
不正のため改易・廃藩

人物

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国司

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近江守

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続日本紀

日本後紀

続日本後紀

日本文徳天皇実録

日本三代実録

その後の平安時代

南北朝時代

近江介

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近江掾

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守護

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鎌倉幕府

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室町幕府

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戦国大名

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武家官位としての近江守

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江戸時代以前

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江戸時代

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近江国の合戦

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その他

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2009年12月8日の滋賀県議会一般質問で無所属議員の木沢成人が、県内外での滋賀ブランドを向上させるため、「滋賀県」から「近江県」への改名を提議したことがある[4]

関連氏族

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脚注

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[脚注の使い方]

注釈

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  1. ^狭山藩は明治2年12月26日(1870年1月27日)に廃藩。
  2. ^丸亀藩は明治4年4月10日(1871年5月28日)に廃藩。
  3. ^大溝藩は明治4年6月3日(1871年4月16日)に廃藩。
  4. ^『籐氏家伝』の「武智麻呂伝」にある。続日本紀には霊亀2年(716年)5月に在職であったことが分かる。
  5. ^六角氏頼が出家してしまい、嫡男の義信はまだ幼少だったため、氏頼の弟の定詮(後の山内信詮)が後見として守護に任じられたが、観応の擾乱足利尊氏と敵対する足利直義方に離反したため、もう一人の弟である直綱に守護に交替させられた(下坂守「近江守護六角氏の研究」(初出:『古文書研究』12号(1978年)/所収:新谷和之 編著『シリーズ・中世西国武士の研究 第三巻 近江六角氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-144-8))。
  6. ^佐々木氏宗家の氏頼嫡男の義信が先立ったため、佐々木氏傍家の京極氏から養嗣子として高経を迎えた。当初は六角氏の家督と近江守護を継ぐが、氏頼嗣子の満高が立ったため、内紛で実家の京極氏に戻された後に「京極高詮」として京極氏の家督と(近江ではなく)飛騨守護を継いだ。

出典

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  1. ^舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、17頁・19-20頁。
  2. ^櫻井信也「「大津宮」の宮号とアフミの表記」、『近江地方史研究』第32号、1996年。
  3. ^ab「旧高旧領取調帳」の記載は大津県。本項では「角川日本地名大辞典」の記述による。
  4. ^近江の人 木沢まさと: ブランド構築に向けて、木沢成人、2009年12月11日更新、2011年3月8日閲覧。

参考文献

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関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、近江国に関連するカテゴリがあります。

外部リンク

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