| 辻 第一 つじ だいいち | |
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| 生年月日 | 1926年2月6日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (2013-01-04)2013年1月4日(86歳没) |
| 死没地 | |
| 出身校 | 京都大学附属医学専門部 |
| 前職 | 医師 |
| 所属政党 | 日本共産党 |
| 選挙区 | (奈良県全県区→) 比例近畿ブロック(奈良1区) |
| 当選回数 | 6回 |
| 在任期間 | 1979年10月8日 -2000年6月2日 |
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辻 第一(つじ だいいち、本名:つじ ていいち[1][2][リンク切れ]、1926年〈大正15年〉2月6日 -2013年〈平成25年〉1月4日)は日本の医師、政治家。元・衆議院議員(日本共産党公認、通算6期)。
京都府京都市出身。京都大学附属医学専門学校を卒業後、1949年(昭和24年)伏見保健所勤務を経て、1955年(昭和30年)医療法人岡谷会(奈良民医連に加盟)岡谷病院に勤務、1963年(昭和38年)には同片桐民主病院(現・片桐民主診療所)長に就任。1979年の衆院選で奈良県全県区から出馬し初当選を果たす。以後通算6期17年衆議院議員を務め、2000年(平成12年)に引退を表明する。
議員在職中は共産党奈良県医療対策委員長、衆議院内閣・決算・運輸・建設の各常任委員、同交通安全特別委員などを歴任。建築確認及び検査の民間開放などを盛り込んだ建築基準法改正に反対の立場から政府の姿勢を質した[3]ほかに、大滝ダム(2002年(平成14年)完成)に地滑りの危険性を指摘した[4]。また、ドクターヘリを導入するよう先駆的な提起も行っていることでも知られる[5]。
民医連の医師として患者を診る中で「政治の貧困さ」を感じ、1966年(昭和41年)に日本共産党に入党。1976年の衆院選に初挑戦して約6万票で落選し、次の79年の衆院選で「生命と暮らしを守る」と訴えて約9万票を獲得して3位当選を果たした。共産党としては竹村奈良一以来、実に30年ぶりの議席である。奈良市芝辻町の選挙事務所は、駆けつけた党員・支持者らの喜びが爆発したという[6][リンク切れ]。この選挙の盛り上がりを、共産党奈良県委員長であった渡辺徳弘は「野の仏が立った」と述べている。医師としての献身的な活動と人柄の良さから多くの人から支持を集めた[7][8][リンク切れ]。スローガンは「いのち第一、辻第一」、党国会議員団の健康も気遣った。また、選挙の応援に駆け付けるときは、奈良市の東向き商店街の直径20センチほどもある三笠を差し入れたという[9]。
2013年(平成25年)1月4日、腎不全のため死去[2]、享年86。葬儀は7日にならやま会館で行われた。5月26日、平群町の星ノ尾墓地にある日本共産党奈良県委員会活動家の墓に合葬され(第19回合葬追悼式)、10月5日、東京都八王子市の上川霊園にある日本共産党常任活動家の墓に合葬された(第18回合葬追悼式)[10]。
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| 第50回 (定数28) |
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| †:当選無効、↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:繰り上げ当選。 | |||||||||||||||||||