| 辻 新次 つじ しんじ | |
|---|---|
| 生年月日 | 1842年2月18日 (天保13年1月9日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1915-11-30)1915年11月30日(73歳没) |
| 死没地 | |
| 称号 | 従二位 勲一等旭日大綬章 男爵 |
| 配偶者 | さと |
| 子女 | 太郎(長男) あか(長女・斎田功太郎妻) 同次郎(次男) 信(次女・野口弥三妻) |
| 親族 | 棐(兄) 大仏無角(弟) 経吉(弟) 謙之助(弟) 末(妹・今村有隣妻) 良(妹・高良二妻) |
| 在任期間 | 1896年1月31日 - 1915年12月3日[1] |
| テンプレートを表示 | |
辻 新次(つじ しんじ、1842年2月18日〈天保13年1月9日〉-1915年〈大正4年〉11月30日)は、明治時代の日本の文部官僚。旧松本藩士。男爵。号は信松。
信濃国松本出身。1866年(慶応2年)に開成所化学教授手伝並となり、明治に入ってからは大学助教、次いで大学南校校長となった。また1871年(明治4年)の文部省出仕以降は、学制取調掛、学校課長、地方学務局長、普通学務局長、初代文部次官を歴任。明治前半期のほとんどの教育制度策定にかかわったため、「文部省の辻か、辻の文部省か」と言われ[2]、また「教育社会の第一の元老」、「明治教育界の元勲」などと評された。この間、明六社会員となり、大日本教育会(後に帝国教育会)、仏学会、伊学協会の各会長にも就任している。1892年(明治25年)の文部省退官後は貴族院勅選議員、高等教育会議議員、教育調査会委員に選ばれたほか、仁寿生命保険、諏訪電気、伊那電車軌道の社長を務めた。
松本藩医(小姓格、15石)の辻大渕介如水の次男として、松本城下に生まれる。幼名は鼎吉。後に理之助・新次郎・新次と改名した。12歳から藩校崇教館で朱子学を学び、後に蘭学を学んだ。崇教館での成績は抜群であったといわれる。その後、江戸に出て苦学しながら蘭学・英学・西洋兵学を学び、また幕府の蕃書調所精錬所(のち化学局)に入って大砲の鋳造や火薬製造学も学んだ。1863年(文久3年)、22歳で開成所(東京大学の源流)精錬方世話心得となる。辻は当初軍人志望であり、西洋兵学を実戦で試す絶好の機会として、1864年(元治元年)、藩に無断で幕府の武田耕雲齋討伐軍に加わったが(天狗党の乱)、藩に呼び戻されて譴責を受けた。
その後、再び江戸に上り、開成所に復帰したが、火薬製造中の事故で負傷。それ以降、教育家になることを決心し、フランス学の研究に邁進した。1866年(慶応2年)に開成所化学教授手伝並となり、下谷練塀町(現秋葉原)で仏学塾を経営。この私塾の教え子の中には、後に近代土木界の最高権威となる古市公威がいた[3]。明治維新後は、新政府により開成学校の教授試補に登用された。
1871年(明治4年)、文部省設置に伴い文部権少丞兼大助教となり、以後20年以上に渡って文部行政に従事することになる。同年12月には、文部卿・大木喬任により学制取調掛に任命され、箕作麟祥のもとで学制の起草にあたった[4]。学制公布後は、第一大学区大学設立掛に任命され、大学南校(現東京大学)校長、東京外国語学校(現東京外国語大学)校長事務取扱なども兼任し、教育行政に尽力した。大学南校校長時代のエピソードは『大学々生溯源』に詳しい。
1877年(明治10年)1月、文部権大書記官に就任し、東京大学の設立に従事したほか、文部大輔・田中不二麿のもとで教育令の制定に参画した。また、同年6月に鈴木唯一・佐沢太郎らと汎愛社を設立し、『教育新誌』を発行。この時期から大日本教育会結成に向けて動き始める。1878年(明治11年)9月からは太政官大書記官も兼任し、教育令原案が元老院の議に上ると、委員として教育令成立に貢献。1880年(明治13年)には教則取調掛長に任命され、教育令改正にも従事した。
教育令改正後の1881年(明治14年)には、商法講習所(現一橋大学)の存続を助けている。東京府会で商法講習所の廃止が決議された2日後の7月28日、文部省地方学務局長として東京府知事・松田道之宛に講習所存置の希望を申し入れ、その数日後、松田府知事から農商務卿・河野敏鎌宛に補助金下付の要望書が提出され、農商務省が支援することで、商法講習所の存続が決まった[5]。
1885年(明治18年)12月に内閣制度が発足し、森有礼が初代文部大臣に就任すると、辻は大臣官房長兼学務局長となり、翌1886年(明治19年)3月には次官職の新設により初代文部次官に就任した。文部官僚のトップとして、帝国大学令・師範学校令・中学校令等の公布に携わり、高等中学校候補地選定のための巡視も行なっている[6]。
また同年(1886年)には、帝国大学工科大学初代学長に就任した古市公威らと5月に仏学会(日仏協会の前身)、11月に東京仏学校(後に東京法学校と合併して法政大学の前身となる)を設立し、仏学会の初代会長にも就任している[7]。
1890年(明治23年)に第1回帝国議会が開設されると、教育予算削減のため、高等中学校その他12学校の廃止論や内務省との合併による文部省廃止論などが唱えられたが、辻は帝国議会において文部省所管政府委員として矢面に立って防戦し、教育予算の削減を最小限にとどめさせた。
1892年(明治25年)に文部省を退官した後は、伊藤博文が創設した東京女学館の初代館長に就任し、1894年(明治27年)には教員の遺族を救済する目的で、生命保険を取り扱う仁寿生命(後に野村生命と合併して東京生命保険となる)の初代社長に就任した。
1896年(明治29年)に貴族院議員に勅選され、1897年(明治30年)以降は高等教育会議議員、教育調査会委員なども歴任し、教育擁護の立場からたびたび意見を提案した。また、大日本教育会の国家教育社(伊沢修二が創設)併合による帝国教育会への改編に際し、会長職を貴族院議長の近衛篤麿に譲ったが、1898年(明治31年)の近衛会長辞職後に後任会長選挙が暗礁に乗り上げたため、役員達の懇願を受けて辻は再び会長職に就いた。以後1915年(大正4年)に死去するまで帝国教育会の会長を務め続け、教育改革に尽力した。辻の大日本教育会・帝国教育会の会長在職年数は実に約27年、会長経験者のうち在職年数はトップである。墓所は染井霊園。

辻は、その教育界への影響力から様々に評された。
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1882年(明治15年)6月17日 | 勲四等旭日小綬章 | ||
| 1886年(明治19年)11月30日 | 勲三等旭日中綬章[23] | ||
| 1889年(明治22年)11月25日 | 大日本帝国憲法発布記念章[24] | ||
| 1890年(明治23年)11月1日 | 藍綬褒章[25] | ||
| 1892年(明治25年)8月26日 | 勲二等瑞宝章[26] | ||
| 1894年(明治27年)3月9日 | 大婚二十五年祝典之章[27] | ||
| 1903年(明治36年)12月14日 | 旭日重光章[28] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 勲一等瑞宝章[29] | ||
| 1912年(大正元年)8月1日 | 韓国併合記念章[30] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章[31] | ||
| 1915年(大正4年)12月1日 | 旭日大綬章[21] |
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1889年(明治22年)5月7日 | 王冠第一等勲章(英語版)[32] | |||
| 1889年(明治22年)11月13日 | レジオンドヌール勲章コマンドゥール(英語版)[33] |
主な執筆者の順。
記事の脚注に未使用のもの。発行年順。
{{cite encyclopedia ja}}: CS1メンテナンス: dateとyear (カテゴリ)| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 (新設) | 1886年 - 1892年 | 次代 久保田譲 |
| ビジネス | ||
| 先代 (新設) | 伊那電車軌道社長 1907年 - 1915年 | 次代 池上仲三郎 |
| 先代 (新設) | 諏訪電気社長 1897年 - 1912年 | 次代 小口長蔵 |
| 先代 (新設) | 仁寿生命保険社長 1894年 - 1909年 | 次代 下郷久成 |
| その他の役職 | ||
| 先代 近衛篤麿 | 帝国教育会会長 1898年 - 1915年 | 次代 沢柳政太郎 |
| 先代 菊池大麓 | 本郷区教育会会長 1909年 - 1915年 | 次代 松平頼寿 |
| 先代 (新設) | 日仏協会理事長 1909年 - 1914年 仏学会理事員長 1892年 - 1909年 仏学会会長 1886年 - 1892年 | 次代 古市公威 |
| 先代 (新設) | 東京女学館長 1893年 - 1898年 | 次代 吉村寅太郎 |
| 先代 九鬼隆一 (新設) | 大日本教育会会長 1886年 - 1896年 1883年 | 次代 近衛篤麿 九鬼隆一 |
| 先代 (新設) | 伊学協会会長 1888年 - 1896年 | 次代 鍋島直大 |
| 日本の爵位 | ||
| 先代 叙爵 | 男爵 辻(新次)家初代 1908年 - 1915年 | 次代 辻太郎 |
国立科学博物館長(博物館御用掛:1875年) | |
|---|---|
| 博物館長 | |
| 東京博物館長 | |
| 教育博物館長 | |
| 東京教育博物館長 ※1889-1902高等師範学校附属 1902-1914東京高等師範学校附属 | |
| 東京博物館長 | |
| 東京科学博物館長 | |
| 国立科学博物館長 | |
東京大学総長(第一大学区第一番中学長:1872年) (南校校長:1872年) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||