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車牙若鞮単于

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

車牙若鞮単于呉音:しゃげにゃくたいぜんう、漢音:しゃがじゃくていせんう、拼音:Chēyáruòdīchányú、? -紀元前8年)は、中国前漢時代の匈奴単于呼韓邪単于と第1閼氏(顓渠閼氏)との子で、捜諧若鞮単于の異母弟。車牙若鞮[1]単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は且莫車(しゃばくしゃ)という。

生涯

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呼韓邪単于と第1閼氏(顓渠閼氏)との間に生まれる。

建始2年(前31年)、呼韓邪単于は臨終の際、第1閼氏(顓渠閼氏)の子である且莫車を立てようと考えていたが、顓渠閼氏が「且莫車はまだ若く、民衆が附かないので、国を危ぶむ恐れがある」と言い、妹である大閼氏の子の雕陶莫皋を立てようと提案した。しかし、大閼氏は「若くとも大臣と協力していけば大丈夫であり、それよりも第一夫人の子を廃し、第二夫人の子を立てる方が後々不安です」と反論し、意見が分かれた。その後、呼韓邪単于が死去すると、顓渠閼氏の意見が採用され、雕陶莫皋が立って復株累若鞮単于となった。これ以降、単于位は弟に継がせることが規則となった。

復株累若鞮単于が即位すると、且莫車は左谷蠡王[2]に任ぜられた。

鴻嘉元年(前20年)、兄の捜諧若鞮単于が即位すると、且莫車は左賢王[3]に任ぜられる。

元延元年(前12年)、捜諧若鞮単于が死去したので、左賢王であった且莫車が車牙若鞮単于として即位した。車牙若鞮単于は子の右於駼仇撣王である烏夷当を漢に遣わして入侍させ、弟の嚢知牙斯を左賢王に任命した。

綏和元年(前8年)、車牙若鞮単于は在位5年で死去し、左賢王の嚢知牙斯が立って烏珠留若鞮単于となった。

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  • 右於駼仇撣王(烏夷当)

脚注

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  1. ^“若鞮”とは匈奴の言葉で“”という意味である。当時、漢の歴代皇帝が帝号に“孝”をつけていたため、匈奴は復株累若鞮単于以降、それを真似るようになった。<『漢書』匈奴伝下、『後漢書』南匈奴列伝>
  2. ^左谷蠡王(さろくりおう)は匈奴における王位継承第二位。
  3. ^左賢王(さけんおう)は匈奴における王位継承第一位。

参考資料

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  • 漢書』(匈奴伝下)
再統一匈奴の第3代単于(前12年 - 前8年)
統一時代

頭曼単于?-前209 / 冒頓単于前209-前174 / 老上単于前174-前161 / 軍臣単于前161-前127 / 伊稚斜単于前127-前114 / 右谷蠡王単于前119 / 烏維単于前114-前105 / 児単于前105-前102 / 呴犁湖単于前102 / 且鞮侯単于前102-前96 / 狐鹿姑単于前96-前85 / 壺衍鞮単于前85-前68 / 虚閭権渠単于前68-前60 / 握衍朐鞮単于前60-前58

分裂時代
東匈奴

呼韓邪単于前58-前31

西匈奴

郅支単于前56-前36

対立単于

屠耆単于前58-前56 / 呼掲単于前57 / 車犁単于前57-前56 / 烏藉単于前57 / 烏藉単于(重祚)前56 / 閏振単于前56-前54 / 伊利目単于前49

再統一時代
王莽が冊立した単于
北匈奴

蒲奴単于46-? / 優留単于?-87 / 北単于88-? / 於除鞬単于91-93

南匈奴
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