たに まさゆき 谷 正之 | |
|---|---|
1942年 | |
| 生誕 | (1889-02-09)1889年2月9日 |
| 死没 | (1962-10-26)1962年10月26日(73歳没) |
| 出身校 | 東京帝国大学卒業 |
| 職業 | 外交官 |
| 罪名 | 平和に対する罪 |
| 刑罰 | なし(不起訴) |
| 栄誉 | 勲五等双光旭日章(1920年) 勲一等瑞宝章(1942年) |
| テンプレートを表示 | |
谷 正之(たに まさゆき、1889年(明治22年)2月9日[1] -1962年(昭和37年)10月26日[1])は、日本の外交官、外務大臣。妻・澄子は島津長丸の娘[2]。
熊本県上益城郡島田村櫛島(飯野村を経て現・益城町)出身[3]。熊本中学、第五高等学校を経て、1913年(大正2年)東京帝国大学法科政治学科卒業[1]。同年外務省に入る。1930年(昭和5年)アジア局長[1]。1933年(昭和8年)満州国大使館参事官[1]。1936年(昭和11年)オーストリア兼ハンガリー公使[1]。1939年(昭和14年)外務次官[1]。1942年(昭和17年)東条内閣の外務大臣兼情報局総裁[1]。1943年(昭和18年) 駐中華民国大使(終戦時まで)[1]。1945年(昭和20年)12月2日 連合国軍最高司令官総司令部による逮捕命令(第三次逮捕者59名中の1人)[4]。A級戦犯被指定者となるが、不起訴となる。1948年(昭和23年)公職追放[1]。1952年(昭和27年)追放解除[1]。この間、日東ペガサス社長[1]。1956年(昭和31年)駐アメリカ大使[1]。
戦後の外務省内において太田三郎・加瀬俊一と共に重光葵の腹心として活躍、「重光三羽烏」と称された。重光が副総理・外相を務めた時代には駐米大使に就任した。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 在オーストリア=ハンガリー帝国全権公使 | |
|---|---|
| 在オーストリア=ハンガリー帝国全権大使 | |
| 在オーストリア全権公使 | |
| 在ウィーン総領事 |
|
| 在オーストリア全権公使 | |
| 在オーストリア全権大使 | |
| 在オーストリア=ハンガリー帝国全権公使 | |
|---|---|
| 在オーストリア=ハンガリー帝国全権大使 | |
| 在ハンガリー全権公使(ウィーン駐在) | |
| 在ハンガリー全権公使(ブダペスト駐在) | |
| 在ハンガリー全権大使(ブダペスト駐在) |
|
| 在清国全権公使 | |
|---|---|
| 在中華民国全権公使 | |
| 在中華民国全権大使 | |
| 在中華民国(南京政府)全権大使 | |
| 在中華民国全権大使 | |
| 在中華人民共和国全権大使 | |
| 代理公使・弁理公使 | |
|---|---|
| 特命全権公使 | |
| 特命全権大使 | |
| 在外事務所長 |
|
| 特命全権大使 | |
| a 外務少輔・外務卿代理を一時期兼ねる b 再任 c 遣アメリカ合衆国特命全権大使(在アメリカ合衆国特命全権大使の野村に加えての大使) d 1941年12月の日米開戦後に大使館が閉鎖されたため実質的に失職、両名は翌年8月の抑留者交換船で帰朝 | |
この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 |