Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

谷村智啓

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
谷村 智啓(谷村智博)
兵庫県立武庫荘総合高等学校 投手コーチ
東大阪大学柏原高等学校 アドバイザー
基本情報
国籍日本の旗日本
出身地兵庫県西宮市
生年月日 (1947-08-03)1947年8月3日(78歳)
身長
体重
173 cm
76 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1970年 ドラフト1位
初出場1971年4月24日
最終出場1985年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
この表について
この表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

プロジェクト:野球選手  テンプレート

谷村 智啓(たにむら ともひろ、1947年8月3日 - )は、兵庫県西宮市出身の元プロ野球選手投手)・コーチ。旧名「智博」。

経歴

[編集]

プロ入りまで

[編集]

報徳学園高では2年次の1964年春の選抜に長坂正稔(中大東芝)の控え投手として出場。2回戦で徳島海南尾崎正司に完封を喫し[1]、自身の登板機会は無かった。同年の夏の甲子園兵庫予選では準決勝でエース・鈴木啓示を擁する育英高と対戦し、長坂をリリーフするも4-5で惜敗。長坂以外の1年上のチームメイトに捕手水沼四郎二塁手基満男右翼手三宅昇がいる。3年次の1965年夏の甲子園兵庫予選ではエースとして決勝に進出し、再度の対戦となった育英高の鈴木との投手戦の末に1x-0のサヨナラ勝ちで夏の甲子園本大会に出場。この大会では2試合完封を記録し、準々決勝では三池工と対戦。エース・上田卓三と投げ合うもボークを取られて動転し、延長10回2-3xで逆転サヨナラ負けを喫した[2]。同年の岐阜国体でも、準々決勝で三池工の上田に抑えられ敗退。1年下のチームメイトに捕手兼一塁手で5番打者の荒武康博がいる。

1966年関西学院大学へ進学し、関西六大学リーグでは1年次の同年秋季に優勝を経験。リーグ通算60試合に登板し、20勝25敗、防御率1.67、179奪三振の成績を残した。

1970年鐘淵化学へ入社し、同年の都市対抗では2勝を挙げて準々決勝に進出。サッポロビールに敗退[3]したが、大会優秀選手に選出され、この時のチームメイトにはいずれも新日鐵広畑から補強された高橋二三男佐々木恭介がいた。同年の産業対抗でも準々決勝に進み、熊谷組に惜敗する[4]が同大会でも優秀選手賞を獲得。年間にわたる活躍が評価され、社会人ベストナインにも選出される。

現役時代

[編集]

1970年のドラフト1位で阪神タイガースに入団。エースナンバー18が与えられ、当時はワインドアップと同時に左足を高く上げ、右腕をいったん下ろさずにそのまま投球する「タコ踊り」といわれる風変わりなフォームを見せ話題になった。4月24日広島戦(甲子園)の9回表に3番手で初登板を果たし、国貞泰汎から初奪三振を記録するなど1回を無失点に抑えた。5月25日の広島戦(甲子園)で初めて先発するが、衣笠祥雄に9号本塁打を浴びるなど8回4失点で降板。9回からは2番手の山本重政にバトンタッチするが、延長12回で4-4の引き分けに終わった。9月28日中日戦(甲子園)に5回表1死から2番手で登板し、7回2/3を無失点に抑えて初勝利を挙げる。

1972年4月末から先発の一角として起用され、5月21日大洋戦(甲子園)で9回1失点の初完投勝利、同31日の大洋戦(川崎)で初完封勝利をマーク。生涯唯一のオールスター出場も果たし、7月22日の第1戦(東京)で先発を任される。公式戦と同じ田淵幸一とのバッテリーであったが、専任捕手として出場した野村克也に1回に先制打、3回には勝ち越し2ラン本塁打を浴びて降板。谷村は全の敗戦投手となり、野村は第1戦のMVPを獲得。

1973年は、10月14日広島戦(広島市民)で外木場義郎と投げ合うが、3回を5安打2失点と早々に降板して痛恨の敗戦を喫する。その後の3試合でチームは1勝2敗で、巨人の逆転優勝を許した。

1974年には小山正明コーチの指導でパームボールを取得し、5月14日の大洋戦(川崎)の7回裏1死に3番手で登板して、2回2/3を無失点に抑えて初セーブを挙げる。同30日の巨人戦(甲子園)で王貞治に600号本塁打を献上したが、シーズン途中の6月15日に現在の登録名である「智啓」に改名。6月26日ヤクルト戦(甲子園)で浅野啓司と投手戦を繰り広げ、完封で改名後初勝利を挙げる。

1975年安仁屋宗八に背番号18を譲って15へ変更し、3年ぶりの2桁となる11勝を挙げる。

1976年には2年連続2桁で自己最多の12勝を挙げる。

1977年も7勝を記録。1977年8月25日ヤクルト戦(岡山)で大杉勝男に1500本安打[5]を打たれる。

1978年9月26日中日戦(ナゴヤ)で宇野勝にプロ初本塁打を献上。

1979年オフに鈴木弘規との交換トレードで阪急ブレーブスに移籍。

1980年には13試合に先発し、リリーフとしても活躍して7勝を挙げる。4月17日西武戦(西京極)は古沢憲司と元阪神同士の先発となり、120球1失点完投勝ちで7回途中129球3失点の古沢に投げ勝つ。試合後に谷村は「力のあるボールを投げていた」、古沢は「ボールの切れが阪神時代よりいい。落ち着いた投球だった」と互いに相手を褒めた[6]7月29日の西武戦(西武)で野村に現役最後の本塁打を打たれた。

1985年10月14日近鉄戦(西宮)で先発し、9回をリチャード・デービスのソロ本塁打のみの1点に抑えて2-1で勝利。最終登板を完投勝利で飾った。同年引退。

引退後

[編集]

引退後は阪急→オリックスで二軍投手コーチ(1986年 -1990年,2004年 -2006年[7]・スカウト・編成部長を歴任し、スカウト時代は関学大の後輩である田口壮を獲得。退団後はBCリーグ福井ミラクルエレファンツ投手コーチ(2010年 -2011年[8])を務め、2020年6月頃からは兵庫県立武庫荘総合高等学校投手コーチに就任。同校で週に数回指導している[9][10]ほか、東大阪大学柏原高等学校アドバイザーも兼任し[11]、月2回は大谷高等学校コーチも務めている[12]

詳細情報

[編集]

年度別投手成績

[編集]




















































W
H
I
P
1971阪神24500012----.33323858.05241612281024223.411.17
1972442210201111----.500777191.0186836711712052482.261.16
19734124630712----.368757185.01761344115800061562.721.19
197436227125131--.278674157.0165225564800084804.591.40
197544234201191--.550720172.0180154286422077663.451.29
197640265131280--.600770180.1216223452570291763.801.39
19773624601770--.500707156.22032038275011109985.621.54
1978289000140--.20033071.295142142270162577.131.62
197980000101--1.000539.223420040012109.002.59
1980阪急3113401772--.500606140.11662739311350080744.761.46
1981183000230--.40022949.06851824100133295.331.76
198270000110--.5008618.026391260019189.001.94
1983169000410--.80020749.05741000120025244.411.37
198488000120--.33311224.2312100040015145.111.66
1985121100120--.33311926.222318206201093.041.50
通算:15年393189439772825--.46863851489.016661663925256512857546814.121.38
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

[編集]
初記録
  • 初登板:1971年4月24日、対広島東洋カープ2回戦(阪神甲子園球場)、9回表に3番手で救援登板・完了、1回無失点
  • 初奪三振:同上、9回表に国貞泰汎から
  • 初先発:1971年5月25日、対広島東洋カープ7回戦(阪神甲子園球場)、8回4失点
  • 初勝利:1971年9月28日、対中日ドラゴンズ26回戦(阪神甲子園球場)、5回表1死に2番手で救援登板・完了、7回2/3を無失点
  • 初先発勝利・初完投勝利:1972年5月21日、対大洋ホエールズ7回戦(阪神甲子園球場)、9回1失点
  • 初完封勝利:1972年5月31日、対大洋ホエールズ9回戦(川崎球場
  • 初セーブ:1974年5月14日、対大洋ホエールズ5回戦(川崎球場)、7回裏1死に3番手で救援登板・完了、2回2/3を無失点
その他の記録

背番号

[編集]
  • 18 (1971年 - 1974年)
  • 15 (1975年 - 1979年)
  • 13 (1980年 - 1985年)
  • 71 (1986年 - 1990年)
  • 86 (2004年 - 2006年)
  • 78 (2010年 - 2011年)
    • スカウト時代の1991年 - 2003年にもキャンプにスタッフとして参加した際に「119」のユニフォームを着用した写真が、新聞や雑誌に掲載されたことがあるが、非公式な扱いであるため、各種メディアによる背番号一覧などには掲載されていない。

登録名

[編集]
  • 谷村 智博 (たにむら ともひろ、1971年 - 1974年6月14日)
  • 谷村 智啓 (たにむら ともひろ、1974年6月15日 - )

脚注

[編集]
  1. ^「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  2. ^「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  3. ^「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  4. ^「日本社会人野球協会報1970」日本社会人野球協会 1971年
  5. ^1970年代 | 東京ヤクルトスワローズ
  6. ^スポーツ報知1980年4月18日一面
  7. ^2期目のチーム名は「サーパス神戸→サーパス」
  8. ^監督、コーチ勇退のお知らせ”. 福井ミラクルエレファンツ (2011年10月17日). 2011年10月18日閲覧。
  9. ^無名の公立校にプロ注目右腕がいた!武庫荘総合の斉藤汰直が2安打2失点で完投勝利
  10. ^ようこそ武庫荘総合高校へ
  11. ^阪急の元バッテリーが再会 74歳の高校野球指導者2人が発した言葉はくしも
  12. ^魔球「ナックル」、僕のコツは小指 親子で極めた投げ方

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
指名選手
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=谷村智啓&oldid=101805259」から取得
カテゴリ:
隠しカテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp