Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

諏方国

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諏訪国から転送)
諏方国の位置(721年)

諏方国(すわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に位置する。諏訪国とも表記。領域は現在の長野県西部(木曽を除く中信と南信)にあたるが、短期間しか存続しなかった。

沿革

[編集]

養老5年(721年6月26日信濃国から分立した[1]。建国理由には諸説あるが、有力な説としては諏訪地方が古より独自の文化を形成していた地域(諏訪大社など)であったためという説と、分立前の信濃国は広大で地形も複雑であり当時の国府が北東の小県郡に位置していたため統治に難があったからという説がある。

同年8月19日には飛騨国と共に美濃按察使の下に付けられた。これは信濃国も前から美濃按察使の下にあったので、それを踏襲したものである。また、神亀元年(724年3月1日には、流罪人の配流地の遠近の規程において、伊予国と共に距離中国と定められている。

その後、天平3年(731年3月7日に廃止され、信濃国に復した。

領域は不明で諏方郡(後に編入された立場川以東を除く)と伊那郡太田切川以北は確実だが、上2郡の他に筑摩郡(後に編入された木曽地域筑北盆地を除く)と安曇郡を含める説も有力である。なお、国府の所在地等は不明。

和名類聚抄に見える名は土武、佐補、美和、桑原、山鹿、弖良と記述され、このうち佐補、美和、弖良は中世以降、伊那郡に所属したと比定されている[2]

また諏訪大明神絵詞には「信州に至り給し時、伊那郡と諏訪郡の堺に大田切と云所にて」との記述があり、また『修補諏訪氏系図』には「近代迄伊那郡に於ける北部にして諏訪郡に接続せる村里を外の諏訪郡と呼称せしことあり」と記述されていることから、古代においては大田切川以北、現在の上伊那郡北部も諏訪郡に含まれていたことが推察される。

また諏訪大明神絵詞には「信州に至り給し時、伊那郡と諏訪郡の堺に大田切と云所にて」との記述があり、また『修補諏訪氏系図』には「近代迄伊那郡に於ける北部にして諏訪郡に接続せる村里を外の諏訪郡と呼称せしことあり」と記述されていることから、古代においては大田切川以北は諏訪郡に含まれていたことが推察される。

民俗習慣や方言も太田切川を境にして異なっているが、これは急流さから両岸を結ぶ架け橋が近代まで実現せず、川をまたいでのつながりがほとんどなかったからである。

戦国時代以前は甲斐国巨摩郡との国境が、現在の甲六川ではなく、立場川であったとする伝承がある。

天保5年2月6日1834年3月12日) - 諏訪高島藩の内示により、元来「諏方郡」とも書かれていた表記が諏訪郡に統一。

脚注

[編集]
  1. ^続日本紀』該当年月条。以下特に注記しない限り同じ。
  2. ^「角川日本地名大辞典 長野県」p.635

関連項目

[編集]
五畿七道
畿内
東海道
東山道
北陸道
山陰道
山陽道
南海道
西海道

   畿内   東海道   東山道   北陸道   山陰道   山陽道   南海道   西海道
五畿八道
北海道
-
その他
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=諏方国&oldid=108289289」から取得
カテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2026 Movatter.jp