| この項目では、兵庫県西宮市にある神社について説明しています。長野県長野市にある神社については「西宮神社 (長野市)」をご覧ください。 |
| 西宮神社 | |
|---|---|
拝殿 | |
| 所在地 | 兵庫県西宮市社家町1-17 |
| 位置 | 北緯34度44分8.5秒東経135度20分4.6秒 / 北緯34.735694度 東経135.334611度 /34.735694; 135.334611 (西宮神社)座標:北緯34度44分8.5秒東経135度20分4.6秒 / 北緯34.735694度 東経135.334611度 /34.735694; 135.334611 (西宮神社) |
| 主祭神 | 西宮大神(蛭子命) |
| 社格等 | 旧県社 別表神社 |
| 本殿の様式 | 三連春日造 |
| 札所等 | 神仏霊場巡拝の道第67番(兵庫第2番) |
| 例祭 | 9月22日 |
| 主な神事 | 十日戎 おこしや祭 誓文祭 |
| 地図 | |
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西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市社家町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国に約3,500社あるえびす神社の総本社(名称「えびす宮総本社」)である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
「西宮」という名称の起源について以下のように諸説ある。
祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭児命がどうなったかは書かれていない。当社の社伝では、蛭児命は現在の神戸沖に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。
創建時期は不明だが社伝によると、和田岬の沖に出現した蛭児命の御神像を鳴尾の漁師が引き上げて自宅で祀っていたところ御神託が降り、それによってそこから西の方に御神像を遷して改めて祀ったのが当社の起源だという。
延喜式内社の「大国主西神社」に同定する説がある。現在、境内末社の大国主西神社が式内社とされているが、後述のように西宮神社自体を本来の式内大国主西神社とする説もある。だが延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡ではなく、西宮神社にせよ現在の大国主西神社にせよ、式内社とするには一致しない。ただし武庫郡と菟原郡の境界は西宮神社の約200m西側を流れる夙川でありこの河道の変遷により古代は菟原郡に所属したとする説もある。
式内大国主西神社との関係がいずれとしても、平安時代には廣田神社の境外摂社であり「浜の南宮」または「南宮社」という名であった。廣田神社と神祇伯の白川伯王家との関係から頻繁に白川家の参詣を受けており、既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。
平安時代末期、廣田神社の摂社として「夷」の名が初めて文献にあらわれるようになる。そのためこの頃から戎信仰が興ったとの説がある。同時期の梁塵秘抄にも、諏訪大社、南宮大社、敢国神社と共に、廣田神社の末社が南宮とされている。この南宮が現在の西宮神社のことであり、廣田神社の境外摂社である「南宮神社」が現在でも西宮神社の境内にあるのはその名残りである。

神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを行って神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになった。
慶長9年(1604年)には豊臣秀頼によって表大門(赤門、重要文化財)が再建され、慶長9年から慶長14年(1604年 -1609年)の間に本殿、拝殿なども再建された。慶長15年(1610年)には秀頼によって「御戎之鐘」が奉納されている。
江戸時代には、徳川家綱により焼失した本殿が再建されている。また、全国に頒布していたえびす神の神像札の版権を江戸幕府から得て、隆盛した。
1870年(明治3年)、西宮戎社と呼ばれた当社であるが、『摂津志』などの記載により「大国主西神社」と改称した(現在のえびす神は実は大国主であるとする説も古代からあった)。1872年(明治5年)3月、官幣大社となった廣田神社から分離独立し、後に村社に列せられた。
1874年(明治7年)6月、大国主西神社(現・西宮神社)は県社に昇格する。この頃、境内末社の大己貴社こそが実は大国主西神社であるとする説が挙がり、教部省は同年8月に大国主西神社(現・西宮神社)の県社指定を取り消した上で、大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の末社とするとの通達を出した。
これに対して西宮神社と氏子総代は教部省に異議申立てを行った。しかし、同年11月に出された通達は、大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の末社とするが、両神社とも県社に指定するとのもので、西宮神社としては不満足な結果であった。そこで西宮神社からは、大己貴社は元々不動堂であって本来の式内社・大国主西神社ではなく今回の改称は誤った説に基づくものである[3]と上申したが、教部省は(本来の大国主西神社の所在が判明するまでという条件付きではあったが)その上申を拒否した。
最終的には翌1875年(明治8年)4月に、大国主西神社を西宮神社に、末社の大己貴社を大国主西神社に改称し、両神社とも廣田神社の末社とするが、両神社とも県社に指定する、また、西宮神社は廣田神社とは別に神主を定め、社務と社入も別途としても良い、との通達が出されなんとか西宮神社の独立は守られた。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)8月6日に行われた第5回西宮空襲によって境内に小型爆弾2発、焼夷弾300発以上が落下し、旧国宝の本殿などが焼失した。
戦後に神社本庁の別表神社に加列されている。だが、社名の改称問題は放置され、そのまま現在に至っている。
1961年(昭和36年)11月、本殿、拝殿が再建される。
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で境内は大きな被害を受けるが、2000年(平成12年)に復興する。

境外末社
毎年1月10日前後の3日間で行われる十日えびす(戎)では、開門神事福男選び、大マグロの奉納、有馬温泉献湯式などの行事とともに、800軒を超える屋台が軒を連ね、開催三日間で百万人を超える参拝者で賑わう。
正式には「十日戎開門神事福男選び」と呼ばれる。1月10日午前4時から十日えびす大祭が執り行われ、午前6時に終わると同時に表大門が開かれ、参拝者が本殿までの230メートルを「走り参り」する。先着の3人が福男と認定される[4]。
西宮神社周辺では室町時代から江戸時代にかけて、1月9日夜は家から外出しない「忌籠」(いごもり、居籠)という習慣があった。その間に"えべっさん"が市中を廻られる。忌籠り明けの翌朝、身を清めて神社に詣でたことが始まりと考えられる。1905年(明治38年)、神社近くに阪神電気鉄道の西宮駅が開業すると、地元以外に大阪市や神戸市などからの参拝者が増え、開門を待ちわびるようになった。1913年(大正2年)の新聞には「先登第一の魁けをして」「先登者に対して夫々優遇を為し神符を与へたれば」といった記述があり、一番乗りを特別視する風潮が参拝者、神社双方に根付いたと考えられる。昭和初期に「福男競争」「福男レース」といった言葉が使われるようになった。このように参拝客が勝手に始めた経緯があるため、この時点では神事としては扱われていなかったが、1989年(平成元年)は昭和天皇が崩御したことから、自粛ムードに配慮して「神事」と位置付けられた[5][6]。
日中戦争が始まっていた1940年(昭和15年)以降は、当時の新聞の戦意高揚記事と関連して、その年の一番福に褒美としてお守りやお供え物を授けたりしたという記録がある。それ以前は参拝者が思い思いに走ってお参りをしていたようで、1921年(大正10年)から17回一番乗りをしていた者もいたという[7]。

当日は未明から多数の人が表大門の前に集合し、午前6時の開門と共に230メートル先の本殿を目指して駆け出す。そして3着までにゴールした人間(待ち構えている神主に抱きつくことが条件になる)が、その年の福男となる。なお、福男といいながらこの祭事は男女混合であり、老若男女を問わず走ることが出来る。しかし、女性の一番福は未だに出現していない。参加者は毎年2000人以上で、特に2009年以降は約6000人が参加している。コースには3箇所のカーブ(天秤・楠両コーナー等)と本殿に駆け上がる木の坂(スリップ坂)が大きな障害としてあり、毎年のテレビ取材ではこの4箇所を中心に大小のカメラを設置している。開門時の押し合い・スタートダッシュの出来、猛スピードで駆け抜けるためカーブや最後の坂で転倒する者もおり、上手くスピードを制御出来た者が一番福 - 三番福の栄誉を獲得出来るといえる。
三番福までの賞品は以下の通り。
2008年(平成20年)からは福男法被、2011年(平成23年)からはヱビスビールが新たに加えられた。また開門前に待っている先着5000名には、開門神事参拝証が授与される。
福男選びは、新聞をはじめ、1997年(平成9年)に『おはようクジラ』(TBS)で初めてテレビで実況生中継されたり、『ブロードキャスター』(TBS)で特集を組まれたりするなどテレビニュースになっていたが、扱いはそれほど大きくなかった。しかし2004年(平成16年)、大阪市の消防署員による妨害が問題となり、規定が改正(後述)されてから、新春恒例の全国ニュースとして、各テレビ局(主にキー局ならびに関西地方局)の報道・情報番組でも大きく取り上げられるようになった。中には午前6時に合わせて福男選びの実況生中継を恒例的に行う朝の情報番組(『みのもんたの朝ズバッ!』2006年 - 2008、2011年・2013年、『やじうまプラス』2007年・2008年、『おはようコールABC』2007年・2008年、『ズームイン!!サタデー』2009年、『ズームイン!!SUPER』2011年、『めざましテレビ』2011年)なども出てきた。
神戸市東部卸売市場(神戸市東部水産物卸売協同組合、大水、神港魚類)が大漁を願い、1970年(昭和45年)から毎年1月8日開催の「招福大まぐろ奉納式」で大マグロ(体長約3メートル、重量約300キログラム、刺身約1500人分)を奉納している。十日えびすの期間中は「招福マグロ」として拝殿に飾られ、多くの参拝者が凍ったマグロの頭や背中などに硬貨を貼り付け、うまく張り付けばお金が身に付くということで、商売繁盛や金運などの願いを掛けて参拝している。十日えびす終了後は解体され、関係者の手で刺身などにして食されている。
有馬温泉の商売繁盛を願う献湯式で毎年1月9日に有馬温泉から金泉を樽で西宮神社に運び、その温泉と湯文字を奉納する行事で、1995年(平成7年)からはじまった、献湯式では湯女に扮した芸妓が湯もみ太鼓のお囃子にあわせて湯もみ(木の板で温泉をかき回して湯温を下げる)を行い、その温泉と湯文字を神前に奉納している。奉納された金泉に1円玉を浮かべて拝むと福を招くとされている。
西宮の旧家中著聞するものを馬氏の諸家となす[15]。「辰馬氏、葛馬氏、八馬氏[注 3]、乙馬氏(音馬氏)、六馬氏、小上馬氏、善茂馬氏、一馬氏、七馬氏、十馬氏、他人足馬氏(與三太郎馬氏)、與四郎馬氏、大黒馬氏、大徳馬氏、小唐馬氏」の15家が存在し[16]、この諸家は「西宮神社の神幸の騎馬の供奉などの役に当たる家柄、または西宮の宿場の役に関する家」とも言われる[15]。馬氏の諸家はその他の神事を手伝う格式ある家柄であり、町内の世話役だった[16]。
福沢桃介著『財界人物我観』(1930年出版)には「西宮には、昔から他所には珍しい馬の字がつく姓を名乗る家が多い。昔は十二馬あったと云うが現在では辰馬、八馬、音馬、葛馬、早馬、小上馬、六馬、一馬の八姓が残っている。是は西宮に鎮座まします福の神、戎神社に古い馬の伝説があって、古典に據る往昔の祭礼行列に氏子から選ばれて、神馬に携わった人たちが祖先であると云う。」とある[17]。
佐藤周平著『辰馬吉左衛門をあばく 現金七千万円・資産一億円(金持解剖パンフレツト 其1)』(1934年出版)によると「元来西宮界隈には馬を姓とする家が頗る多い。例えば一馬、六馬、七馬、八馬、十馬、辰馬、葛馬、乙馬(音馬とも)、小上馬、善茂馬、他人足馬(與三太郎馬とも)、與四郎馬、大黒馬、大徳馬、小唐馬の如く『馬氏八家』などと昔から言われているが、事実は十五家に達する馬家が居住していた。これらは何れも西宮市の西念寺、信行寺、如意寺、積翠寺の過去帳や西宮寺の墓碑等によって知られるのである。そこで彼等共通の馬姓を名乗る十五家の先祖は一体何者であるかさえ掴めれば判る筋合いである。彼等一味の先祖は結局、往古宿場人足の賤業に従事していた馬子で、その姓は各々自分らの飼馬の名を冠したものと云われているが、考証がないため更に他に一説を生んでいるのである。それによれば昔西宮の産土神戎神社(今の西宮神社)の例祭九月二十二日には今の西宮から遠く兵庫和田岬へ神幸の式があり、往きは千百の船舶で海上を渡御し、翌朝陸路を美々しく行列して帰還されたものである所、その祭儀の帰路に騎馬の供奉の役(馬の手綱取り)を掌っていたものとも伝えられているが何れにしても彼らの先祖は馬喰丑五郎もどきの当時の被虐階級であったことに断じて間違いはないのである」という[18]。