Movatterモバイル変換


[0]ホーム

URL:


コンテンツにスキップ
Wikipedia
検索

西城秀樹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テレビ番組・中継内での各種情報(終了した番組・中継を含みます)は、DVDやBlu-rayなどでの販売や公式なネット配信、または信頼できる紙媒体またはウェブ媒体が紹介するまで、出典として用いないで下さい検証可能性に基づき除去される場合があります。
画像提供依頼:顔写真およびロゴの画像提供をお願いします。2023年12月
西城 秀樹
出生名木本 龍雄(きもと たつお)
生誕
死没
学歴明治大学付属中野高等学校定時制 卒業
ジャンル
職業
担当楽器ボーカルドラム
活動期間1972年 - 2018年
レーベル
配偶者木本美紀(2001年 - 2018年 死別)
著名な家族宅見将典(甥)
木本慎之介(長男)[2]
事務所芸映(1971年 - 1983年)
アースコーポレーション(1983年 - 2018年)
公式サイトhttps://earth-corp.co.jp/HIDEKI/
テンプレートを表示

(さいじょう ひでき、1955年昭和30年〉4月13日 -2018年平成30年〉5月16日[3])は、日本歌手ドラマー俳優タレント新御三家の1人。本名、木本 龍雄(きもと たつお)。広島県広島市東蟹屋町(現:東区東蟹屋町)出身。アースコーポレーション最終所属。

来歴

[編集]

生い立ち

[編集]

父・木本三郎、母・とし子の間に三人姉弟の末っ子として広島県広島市東蟹屋町(現:東区東蟹屋町)に生まれる[4]。1962年4月、広島市立尾長小学校に入学。ジャズギターが趣味だった父親の影響で幼少期から洋楽に親しみ、広島中央ジャズ・スクールに通うようになる。最初はエレキ・ギター、その後にベース、次いでドラムを勉強した[5]

1965年、小学4年生の時に兄とエレキ・バンド「ベガーズ (beggars)」を結成[6][7]。小学校在学中から小学生ドラマーとして活動する[8]。1968年4月、広島市立二葉中学校に入学。兄が中3、自身が中1の時には中学校の文化祭でステージ演奏をした[9]ザ・ベンチャーズローリング・ストーンズジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンシカゴなどの洋楽に影響を受ける[10]。こうした洋楽通ぶりが後に、他のアイドル歌手とは一線を画す個性となった[11]

ドラマーから歌手へ

[編集]

1969年、中学2年生の時、兄たちが卒業したため「ベガーズ」からメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成[12]。1971年4月、私立山陽高等学校商業科に入学。「ジプシー」のリード・ボーカルとなる[13]。それまではロックの世界でドラマーとして成功することを目指していたが、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聴いて歌謡曲のイメージが一変し、歌手に転向することになった[14]。「ジプシー」でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテストの第1回、第2回に出場し[12]、中国大会で優勝[15]。R&B喫茶「パンチ」から声がかかってレギュラー・バンドになり[13]、店で歌っていたところ、東京から来ていたマネージャーの目に止まりスカウトされる[15][16]

1971年10月3日、厳格で頑固だった父親の芸能界入りへの猛反対を押し切って[17]、家出同然で広島から夜行列車に乗りこみ、翌4日朝、東京駅に到着する[13]。芸能事務所「芸映」に所属[18]明治大学付属中野高校定時制へ転校する(1976年に卒業)[19][20]。マネージャーと二人で3畳もない納戸(三角部屋)に同居し[13][21][20]、厳しいレッスンの毎日を送るようになる。12月、RCAディレクターであるロビー和田に認められ、デビューが決定する。

芸能活動(年表)

[編集]

1972年 - 1975年

[編集]

1972年3月25日、RCAレーベル(日本ビクター、現在はソニー・ミュージックレーベルズ)よりシングル「恋する季節」で歌手デビューする。8月8日、東京郵便貯金ホールでファースト・コンサート「ワイルドな17歳」を開催。11月5日、ファースト・アルバム『ワイルドな17才』発売。11月26日、第14回日本レコード大賞の最優秀新人賞候補として5組を選出、森昌子三善英史麻丘めぐみ、郷ひろみに次ぐ得票の青い三角定規(20票)に僅か1票差の19票に終わり惜敗、選に漏れる[22]

1973年3月26日、大阪毎日ホールでデビュー1周年記念コンサート「ヒデキ・オン・ステージ」を開催。6月25日、5枚目のシングル「情熱の嵐」で初めてオリコン週間チャートのベストテン入りを果たす。9月24日、「ちぎれた愛」が自身初となるオリコン1位を獲得(4週連続)[11][23]、70年代デビューの男性アイドルとしても初のオリコン1位となった[23]。12月24日、続く「愛の十字架」もオリコン1位を獲得。12月31日、「ちぎれた愛」で第15回日本レコード大賞歌唱賞を受賞、一方で初出場が確実視された『第24回NHK紅白歌合戦』は落選となる[24]

1974年1月16日から10月9日まで放送された『寺内貫太郎一家』(TBS系)にレギュラー出演、ホームドラマとして人気を博す。2月25日発売の「薔薇の鎖」でマイクスタンド・アクションを披露。5月25日発売の「激しい恋」が58.4万枚のセールスを記録し、オリコン年間チャートの第8位に輝く。6月8日、主演映画『愛と誠』公開。8月3日、日本でソロ歌手として初のスタジアムでのワンマン・コンサートを大阪球場で開催(以降、大阪球場では10年連続、後楽園球場では1978年から4年連続で開催)。10月6日、広島郵便貯金ホールにて凱旋コンサート「バック・ホーム・アゲイン・ヒロシマ」を開催[25]。12月31日、「傷だらけのローラ」で第16回日本レコード大賞歌唱賞を2年連続受賞(演歌歌手以外では史上初)、『第25回NHK紅白歌合戦』(NHK総合ラジオ第1)初出場。

1975年1月30日、第12回ゴールデン・アロー賞でグラフ賞を受賞。2月15日、初の海外進出作品として「傷だらけのローラ」のフランス語版「LOLA」がフランス、スイス、ベルギーで発売され、続いて3月31日に発売されたカナダでは[26][27]同国のヒットチャート第2位にランクインする[28][注 2]。5月、『寺内貫太郎一家2』(TBS系)で小林亜星との乱闘シーンの撮影中に腕を骨折。6月6日 - 9月26日、『あこがれ共同隊』(TBS系)で郷ひろみ、桜田淳子らと共演。6月29日、第4回東京音楽祭国内大会に出場しゴールデン・スター賞を受賞。

同年7月20日、富士山麓緑の休暇村の特設ステージにて日本歌謡史上初の大規模野外コンサートを開催。これを皮切りに「全国縦断コンサートツアー」をスタート、8月24日、大阪球場のエンディング・フェスティバルで閉幕。10月10日、このツアーを追ったドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』公開[29]。11月3日、日本人ソロ歌手としては初めての日本武道館公演を行う[30](以降、1985年まで11年連続で開催)。

1976年 - 1979年

[編集]

1976年2月25日発売の「君よ抱かれて熱くなれ」から作詞者に阿久悠、作曲者に三木たかしを起用する(翌年9月5日発売の「ボタンを外せ」まで継続)。6月27日、「ジャガー」で第5回東京音楽祭世界大会に出場。10月19日、東京・赤坂のナイトクラブ、ニューラテンクォーターで初のディナーショーを開催。11月3日、第2回日本武道館コンサート「ヒデキ・イン・武道館」を開催。12月31日、「若き獅子たち」で第18回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。

1977年3月30日、デビュー5周年記念の第3回日本武道館コンサートを開催。7月5日 - 28日、台本・作詩は阿久悠、作曲は三木たかし、演出は浅利慶太による劇団四季わが青春の北壁』(日生劇場)に主演し、ミュージカルに初挑戦[31][32]。11月20日、NHK『ビッグショー』に出演(タイトルは「若さを誇らしく思う時に」)。

1978年2月9日、「ブーツをぬいで朝食を」が『ザ・ベストテン』(TBS系)で第1位を獲得。6月18日、「」で第7回東京音楽祭世界大会に出場し、外国審査員団賞を受賞。7月22日、東京・後楽園球場の第1回コンサート「BIG GAME'78 HIDEKI」を開催。12月、「ブルースカイ ブルー」が『ザ・ベストテン』で14週連続ランクインし年間ベストテン第9位を獲得、第7回FNS歌謡祭で最優秀歌唱賞を受賞。12月31日、第20回日本レコード大賞金賞を受賞(「ブルースカイ ブルー」)。

1979年1月4日 - 6日、大阪厚生年金会館で新春コンサートを開催。2月21日、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」発売、200万枚のセールスを記録する大ヒットとなり、4月5日、『ザ・ベストテン』で番組史上初にして唯一の満点(9999点)を記録した(翌週4月12日も記録)。その年度の賞レースでは第10回日本歌謡大賞、第8回FNS歌謡祭(以上、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」)、第5回日本テレビ音楽祭(「ホップ・ステップ・ジャンプ」)、第5回あなたが選ぶ全日本歌謡音楽祭(「勇気があれば」)でグランプリを獲得。12月31日、第21回日本レコード大賞金賞を受賞、決選投票の結果、僅差で大賞を逃す(「勇気があれば」)。

1980年 - 1984年

[編集]

1980年1月4日 - 6日、大阪厚生年金会館で新春コンサートを開催。6月5日発売の「俺たちの時代」が夏季モスクワ・オリンピックの日本人選手の応援歌に選出される(結局、日本は参加をボイコット)。6月13日、アニメ『坊っちゃん』(フジテレビ系)で声優初挑戦[33]。11月23日、東芝日曜劇場『遠くはなれて子守唄』(「日本民間放送連盟賞」受賞作品)に出演。12月31日、第22回日本レコード大賞金賞を受賞(「サンタマリアの祈り」)。

1981年4月6日、「リトルガール」でオリコン史上初となるシングル30曲ベストテン入りを達成[注 3]。次作「セクシーガール」でシングル・レコードの総売上枚数が1,000万枚を突破(史上5組目)[注 4][注 5]。4月、司会担当の情報番組『モーニングサラダ』(日本テレビ系)放送開始。8月、第8回広島平和音楽祭開催、この日のために作られた楽曲「天と地の架け橋」と「リトルガール」を歌唱した。12月31日、第23回日本レコード大賞金賞を受賞(「センチメンタルガール」)。

1982年1月4日 - 5日、大阪厚生年金会館で新春コンサートを開催。3月25日、デビュー10周年記念シングル「南十字星」発売、東宝創立50周年記念の日豪合作映画『南十字星』の主題歌となる。4月13日、デビュー10周年誕生日パーティー「ありがとう青春3650日」を赤坂プリンスホテルで開催。12月31日、第24回日本レコード大賞金賞を受賞(「聖・少女」)。

1983年、芸映を円満退社し独立[34]、1月21日、有限会社「アースコーポレーション」(現在は株式会社)を設立する[35]。2月1日、独立第1弾シングル「ギャランドゥ」発売。8月6日、大阪球場コンサート「BIG GAME '83 HIDEKI FINAL IN STADIUM CONCERT」をもって、10年続いたスタジアム・コンサートに幕を下ろす。11月20日、第10回日本武道館コンサートを開催。12月31日、第25回日本レコード大賞金賞を受賞(「ギャランドゥ」)。

1984年2月5日、体調不良を訴え東京女子医大病院へ、低髄液圧症候群と診断され入院、3月25日に退院する。4月1日、「Do You Know」で第13回東京音楽祭世界大会に出場し、初の銀賞を受賞。5月4日から28日まで、『デュエット』で7年ぶりとなるミュージカル主演(日生劇場)。8月12日、主演声優を務めるアニメ映画『黒い雨にうたれて』公開[36]。8月14日、大阪城ホールでコンサート「JUST RUN '84 HIDEKI」を開催。

1985年 - 1994年

[編集]

1985年1月19日、シングル50枚目を記念した第12回日本武道館コンサート「'85 HIDEKI Special in Budokan - for 50 songs -」を開催、記念シングル「一万光年の愛」が「科学万博つくば '85」のテーマ・ソングに選出されたことを発表。2月、「科学万博つくば '85」開会式で「一万光年の愛」を皇太子明仁親王(現:上皇)と文仁親王(現:秋篠宮文仁親王)の臨席上でNHK交響楽団をバックに歌唱する[37]。11月21日、バリー・マニロウとのデュエット曲「腕の中へ -In Search of Love-」を発売、『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ)での共演も実現する。

1986年5月17日、主演映画『傷だらけの勲章』が全国公開。

1987年5月21日、プロデューサーにジョージ・デュークを迎えた「New York Girl」を発売。10月4日、昭和記念公園で開催されたロック・フェス「Japan Aid 2nd」にジョージ・デュークのゲストとして出演し「New York Girl」を披露する。

1988年9月、ソウル・オリンピック前夜祭にチョー・ヨンピル韓国)、ダニー・チャン香港)、胡寅寅(フー・インイン、中国)とともに出演、日本人として初めて韓国の公式の場において日本語で歌唱する(「傷だらけのローラ」)。この模様はKBSをキー・ステーションとして衛星中継で世界各国に放映された[38]

1989年6月、主演ミュージカル『坂本龍馬』公演。大阪・新歌舞伎座で座長公演(以降、3年連続で公演)。

1990年、クイーン・エリザベス2世号(香港~日本)で船上ディナーショーを開催。

1991年4月、「走れ正直者」がアニメ『ちびまる子ちゃん』(フジテレビ系)のエンディング・テーマに起用される。5月11日、東京・厚生年金会館でデビュー20周年記念コンサート「HIDEKI SAIJO CONCERT TOUR '91 FRONTIER ROAD」を開催。初の学園祭ライブを早稲田大学で開催。

1992年4月14日 - 9月29日、『徳川無頼帳』(テレビ東京系)で時代劇ドラマに初レギュラー出演。

1993年3月、「STOP AIDS CONCERT」(横浜文化体育館)をプロデュース、自身の呼び掛けでもんたよしのり寺田恵子沢田知可子男闘呼組、海外からはディオンヌ・ワーウィックなど多数のアーティストが参加する。

1994年、主演ミュージカル『ラヴ』公演。12月31日、『第45回NHK紅白歌合戦』(NHK総合・ラジオ第1)に10年ぶりに出場し「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱する。

1995年 - 1999年

[編集]

1995年、1月17日に発生した阪神・淡路大震災の被災者のために数度、神戸市に足を運びチャリティー募金を行う。8月5日 - 6日、サザンオールスターズのコンサート「ホタル・カリフォルニア」にゲスト出演、2日間で16万人の観客と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を合唱する。

1996年7月3日 - 14日、主演ロック・ミュージカル「D・LIVERock To The Future」公演。

1997年1月21日、デビュー25周年を記念してヒストリー・ビデオ『HIDEKI SAIJO LIFE WORK 7 TREASURES』を発売。

1998年4月から2002年3月まで放送された音楽番組『青春のポップス』(NHK総合)では司会を担当、歌手としても幅広いジャンルの洋楽を歌唱した[39][40]

1999年2月7日、舞台『寺内貫太郎一家』に出演(新橋演舞場)。11月17日、ポリドールに移籍しての第1弾シングル「Bailamos 〜Tonight we dance〜」発売。

2000年 - 2009年

[編集]

2000年3月31日、東京厚生年金会館でシングル80曲記念コンサート「Bailamos 2000」を開催。シドニー・オリンピックサッカー日本代表壮行試合で「君が代」を斉唱。11月28日、第12回日本ジュエリーベストドレッサー賞を男性部門で受賞。

2001年6月30日、実姉の紹介で知り合った大阪府在住・OLの槇原美紀[41]との結婚を発表し、静岡県伊古奈比咩命神社で挙式する[42]。7月、ディズニー映画『ラマになった王様』の主題歌「ラッキー☆ムーチョ」を「ムーチョ☆ヒデキ」として歌唱。10月、デビュー30周年記念コンサートツアーを開催。

2002年4月28日から5月13日まで、舞台『新・演歌の花道』に出演(新宿コマ劇場梅田コマ劇場)。7月、プロ野球オールスターゲームのオープニング・イベントで「君が代」と「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱する。

2003年6月21日、ディナーショーのため訪れていた韓国で脳梗塞を発症、闘病・リハビリを経て復帰を果たす。9月1日~13日、『Forever '70s 〜青春〜 伝説のステージ』に出演(中日劇場、新宿コマ劇場、梅田コマ劇場)。

2004年3月6日、ミュージック・イン・ドラマ『ホシに願いを』(NHK総合)に出演[43][44]。7月2日、神奈川県川崎市の市制80周年記念マッチとして開催された川崎フロンターレ‐横浜FC戦(Jリーグ2部、川崎市等々力陸上競技場)のハーフタイムショーに出演、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」を歌唱する[45](以後、2013年まで毎年フロンターレ主催の川崎市制記念試合に出演(2006年を除く))[46]。10月、著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(リベロ)発売。

2006年9月、「西城秀樹歌手生活35周年、奇跡の復活 ヒデキカンゲキ!」連載(東京スポーツ)。9月27日、3年ぶりのシングル「めぐり逢い」発売。

2008年5月30日、『青春のポップス』で共演した早見優森口博子などと共にコンサート「思い出の青春ポップス」を開催する(中野サンプラザホール)。

2009年3月30日~9月26日、NHK総合 朝の連続テレビ小説つばさ』に出演。9月15日、大阪厚生年金会館でのコンサート「HIDEKI SAIJO CONCERT 2009」を開催、同ホールでの公演は89回目にして最後となる。

2010年 - 2018年

[編集]

2011年3月17日~28日、ミュージカル『マルグリット』に初の悪役として出演。9月30日、デビュー40周年記念コンサートを渋谷C.C.Lemonホールで開催。12月20日~30日、脳梗塞が再発していることが判明し都内の病院で入院・治療、右半身麻痺後遺症が残るも、リハビリにより杖をついて歩けるまで回復する。

2012年1月28日、静岡で行われたチャリティー・コンサートに出演。6月28日、日本スイミングクラブ協会主催の「ベストスイマー2012」を受賞。10月26日、著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(廣済堂出版)を発売。

2013年4月17日~12月4日、紀行番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』(NHK BSプレミアム)に月1回のレギュラー出演。

2014年4月5日~9月27日、情報番組『ヒデキの感激! NEXTハウス』(BSジャパン)にレギュラー出演。8月9日、第46回『思い出のメロディー』(NHK総合・ラジオ第1)に出演、同局の音楽番組への4年ぶりの出演となる。

2015年4月11日、東日本大震災復興イベント「フラワードリーム in 東京ビッグサイト 2015」で、60歳以上の著名人にバラを贈る「第8回 Happy Rose アワード」を受賞[47]。4月13日、60歳の誕生日に還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売。同日、「ヒデキ還暦!」と題した記念ライブを開催(赤坂BLITZ)、ゲストとして野口五郎が登場し祝福される[48]。同日、自身がプロデュースした体験型市民農園「西城秀樹体験型市民農園 百果百菜」開園(埼玉県入間市)[49]

2016年2月13日、自身が監修した「Y!mobile」(ソフトバンク)のテレビCMが放送開始[50]、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」のメロディーにのせた歌とダンスをプロデュースした。

2018年、川崎フロンターレ川崎市市制記念試合ハーフタイムショーにおいて、逝去による本人不在ながらも等身大パネルと過去の歌唱音源・映像で参加、場内のサポーターから熱く迎えられる。

脳梗塞発症

[編集]

2001年秋に脳梗塞を発症(この時は「二次性多血症」と発表)[51]

2003年6月21日、公演先の韓国で2度目の脳梗塞を発症する。軽度の言語障害後遺症は残ったが、闘病の末復帰し、2006年9月27日、3年ぶりに『めぐり逢い/Same old story - 男の生き様 -』が両A面で発売された。

だが8年後の2011年12月20日に、脳梗塞の再発との診断を受け、2週間程度入院する。右半身麻痺と言語障害の後遺症が残ったが、その後は快方へ向けてリハビリに励み、徐々に歩行の状態などが改善していた[52][53]

晩年・闘病・死去

[編集]

2018年4月14日、栃木県足利市で開催された『〜一緒に歌おう!青春の歌〜同窓会コンサート2018 in足利』(企画・運営、三貴エージェンシー)[54]に出演。結果的にこのコンサートが西城にとって公での最後の歌唱となった。それから5日後の4月19日、東京都練馬区の練馬文化センターで開催された『第23回 紅白歌合戦』(日本歌手協会主催)[55]に知人が出場するため、プライベートで観覧。最後方の席に西城が座っていることに気づいた総合司会で歌手協会理事、合田道人が駆け寄ってインタビューを敢行。紹介された際、西城は自ら立ち上がって観客にアピール。この場で11月開催の歌謡祭への出演を打診されると「はい、ぜひ」と答えたが、結局これが最後の公の姿となった[56]

この日から6日後の2018年4月25日、自宅で夕食中に突然倒れ、全身痙攣ののち心停止。救急搬送で緊急入院。救命処置により再び心臓は動き出すが、約40分間の心停止により、医師から脳死の可能性が高いことを告げられる。「持って1週間だと思ってください」との説明だったが、深い昏睡状態で3週間闘病を続け、同年5月16日23時53分、急性心不全のために神奈川県横浜市内の昭和大学藤が丘病院で死去[57]。63歳没。法名は「修音院釋秀樹(しゅうおんいんしゃくひでき)」[58]

西城の訃報を受け、「新御三家」としてライバルでもあり戦友でもあった郷ひろみと野口五郎をはじめ[59]、数多くの著名人が追悼コメントを発した。

死去から9日後の5月25日に青山葬儀所で通夜が営まれ、新御三家の二人をはじめとする歌手仲間・芸能関係者・多数のファン達が参列[60]。翌日の告別式では野口と郷が終始涙ぐみながら弔辞を読み[61]、出棺の際には代表曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」「ブルースカイ ブルー」等が流され、約1万人のファンから「ヒデキ!」コールを浴びながら斎場を後にした[62]。その後、遺体は品川区の桐ヶ谷斎場にて荼毘に付された。

死後の事実公表

[編集]

没後の11月、妻・木本美紀が『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を上梓した[63]。この中で西城は1996年頃に糖尿病の診断を受け、インスリンを投与していたこと[64]、報道では2回とされていた脳梗塞が、実際には結婚直後の2001年に発症していたほか、「隠れ脳梗塞」を含めると計8回発症していたこと、2014年の暮れ頃には、これらの疾患に加えて、脳の神経細胞が徐々に脱落する「多系統萎縮症」の診断を受けていたこと[65]、そして脳梗塞と多系統萎縮症に関する事実は妻とマネージャーの間で伏せられていたことを公表した[51]。実際に西城の病状は2014年頃から徐々に進行。転倒しやすくなり、言語の出にくさも顕著になった。2017年の暮れごろには歩行にも支障が出ていたが、改善することを信じて、急変する直前まで真面目にリハビリメニューに臨んでいた[66]

作品

[編集]
→「西城秀樹の作品・出演一覧」を参照

業績

[編集]

スタジアム・コンサート

[編集]

西城は、スタジアム・コンサートを日本人ソロアーティストとして初めて開催した[8][67](グループでの日本初は1968年のザ・タイガース[68])。1974年夏、ワンマン・コンサート『ヒデキ・イン・スタジアム“真夏の夜のコンサート”』を大阪球場で開く。これは、「ウッドストック・フェスティバル」の影響を受け、「野外イベントを誰よりも早く日本でやりたかった」と西城自身が企画し、このコンサートが実現した。観客2万5000人。コンサートは設営から解体までに3日かかり、その間の弁当代だけで300万円、1回にかかる費用は当時の金額で6000万円かかり、満員になっても儲けが出ることはなかったという[69]

大阪球場での公演は、1974年から1983年まで10年連続で行われた。

西城の球場コンサートでは、ただ歌と演奏をするだけではなく、現在では許可が下りない危険な演出も行われた。具体的には、建設用クレーンに吊るされたゴンドラの中での歌唱や[8]、ヘリコプターを使った演出など。これらの演出は自身のアイデアで実行した。クレーンとゴンドラは、二塁ベース付近に作られたステージから観客席に少しでも近づく手段として考えられたものである[67]。また、日本での初導入とされるレーザー光線や[28]、衣装に電飾を仕込む演出効果など、球場の大きな空間を利用しての派手な仕掛け、演出が売り[69]であった。

ペンライト

[編集]

アイドルのコンサートで使われるペンライトは、西城のコンサートが発祥とされる[69][70][71]。その経緯は、1974年の球場ライブで「(火は危ないから)なにか光るものを用意してきて!」と観客に呼びかけると、それ以降、観客がペンライトを用意するようになった、というもの[71][72]

ペンライトが使用された具体例として、3回目の大阪球場ライブを伝える1976年11月の『月刊平凡』の記事に「ヒデキの登場に、赤、黄、グリーンのペンライトを持ったファンが応える」[73]という記述や、1976年11月の武道館リサイタルをレポートした『mimi』1977年1月号の記事に「全方向から見られるように、八角形にしつらえたステージ。秀樹のステージでおなじみとなったペンライトのゆれる中で..」という記述が見られる[74]

スタジアム・コンサートおよび野外ライヴへの評価

[編集]

社会学者の宮入恭平は、スタジアムコンサートやペンライト、日本武道館でのコンサート、野外ライヴを例に挙げて、西城はライブ文化に影響を与えたが、正当な評価を受けていたとは言い切れない。その理由の一つは、70年代当時のアイドルに対する一般的な認識が「テレビで活躍する芸能人」であったからと考察している。また、西城は自らのコンサートにロックの要素を取り入れたが、あくまでもアイドルとして評価されていたわけであって、ライブ文化と親和性が高いロック・アーティストとして評価されていたわけではなかった[75]と評している。

家族・親族

[編集]

2001年6月30日、長らく独身であったが、大阪府在住の会社員の槇原美紀[41][76]と結婚[注 6]。2002年6月3日に長女、2003年9月1日に長男、2005年1月7日に次男が誕生している。

脚注

[編集]
[脚注の使い方]

注釈

[編集]
  1. ^現:ソニー・ミュージックレーベルズ
  2. ^西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1970〜1979」⇒「10.傷だらけのローラ」の項を参照。
  3. ^西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「37.リトルガール」の項を参照。
  4. ^西城秀樹オフィシャルサイトの「Music」⇒「1980〜1989」⇒「38.セクシーガール」の項を参照。
  5. ^オリコンの集計では1982年の「南十字星」により同記録を達成する。
  6. ^同じく新御三家の野口も同年2月に三井ゆりと結婚している。

出典

[編集]
  1. ^abcd西城秀樹(サイジョウヒデキ)の情報まとめ”. OKMusic. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2019年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年7月12日閲覧。
  2. ^《西城秀樹さん七回忌》長男・木本慎之介が歌手デビューに向けて本格始動 朝倉未来の芸能事務所に所属、公式YouTubeもスタート”. ポストセブン. 2024年5月17日閲覧。
  3. ^歌手・西城秀樹さん死去 63歳 傷だらけのローラ、ヤングマンなど大ヒット”. スポニチ (2018年5月17日). 2018年5月17日閲覧。
  4. ^広島駅ちかくで生まれた西城秀樹さん、急性心不全で死去」『鉄道チャンネルニュース』エキスプレス、2018年5月17日。2018年5月23日閲覧。
  5. ^まついなつき「《Young Bloods 気になる奴らの青春時代をプレイバックする彼らの若き日々》 ポップス重鎮 西城秀樹」『宝島』1991年5月24日号、宝島社、183-185頁。 
  6. ^2月2日〜2月6日の邦流は、西城秀樹さん”. くにまるワイド ごぜんさま〜|文化放送 (2009年2月1日). 2021年6月8日閲覧。
  7. ^「常識を打ち破ったヒデキ どんなに疲れていてもベストをつくさなくっちゃ...!」『近代映画』1973年12月号、近代映画社、70-73頁。 
  8. ^abc「日本のエンターテイメントを切り拓いた西城秀樹」#40年男、47-51頁(【間もなく発売!昭和40年男 2016年12月号】岩崎宏美と西城秀樹にインタビュー!”. 昭和40年男 (2016年11月9日). 2021年6月8日閲覧。バックナンバー 昭和40年男Vol.40 【特集】俺たちの歌謡曲。70's”. 株式会社クレタ・パブリッシング. 2021年6月8日閲覧。)
  9. ^【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】 (10)「プロ歌手に」と勧誘 16歳の夏休みに東京へ”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年2月24日). 2018年2月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年2月27日閲覧。
  10. ^絶唱型、異彩放ったヒデキ…晩年は脳梗塞で闘病」『読売新聞読売新聞社、2018年5月17日。オリジナルの2018年5月18日時点におけるアーカイブ。2018年5月18日閲覧。
  11. ^ab久保田泰平・木下拓海. “音楽偉人伝 第1回西城秀樹(前編)”. 音楽ナタリー. 2024年7月11日閲覧。
  12. ^ab「乞食たちのバンド」#いま、光の中で、125-130頁。
  13. ^abcd「情熱の男 西城秀樹自叙伝(前編) 『夜行列車は期待と不安でいっぱいだった 歌がおれの青春だ ヒデキはたった一人広島をたった』」『月刊平凡』1974年2月号、平凡出版、70-72頁。 
  14. ^お下がりだったデビュー曲のショックを、長い年月を経て自分のロックとして完成させた西城秀樹”. TAP the POP (2021年3月24日). 2022年11月4日閲覧。
  15. ^ab「がんばれ!春のフレッシュ・ヤング!」『月刊平凡』1972年5月号、平凡出版、81頁。 
  16. ^「ありがとう、姐さん」#いま、光の中で、130-135頁。
  17. ^<西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!> (11)父の猛反対”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年3月9日). 2016年3月31日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  18. ^89歳で死去 西城秀樹“育ての親”芸映・青木伸樹会長の功績”. 日刊ゲンダイ DIGITAL (2016年10月17日). 2021年6月8日閲覧。
  19. ^西城秀樹 - 人物情報・関連映画”. キネマ旬報WEB. 2024年2月19日閲覧。
  20. ^ab【西城秀樹 ヒデキ!カンレキ!!】 (13)デビューの日まで”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年4月6日). 2016年5月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月20日閲覧。
  21. ^【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(12)三角部屋 希望に燃え、寒さも平気”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年3月23日). 2016年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月27日閲覧。
  22. ^濱口英樹・山本貴政「西城秀樹デビュー いまだかつてないアイドル誕生 スポットを浴びたワイルドな17歳!」『昭和40年男』2020年12月号、クレタパブリッシング、90-93頁。 
  23. ^ab「オリコンデータで見るヒットチャートの殿堂攻防史『走れコータロー』から『スニーカーぶる〜す』まで、首位曲の変遷」#sv、56-57頁
  24. ^「ヤング・アイドルが独占することしの『紅白歌合戦』(NHK)完全予想 ゴローは連続 ひろみ、ヒデキはの初出場は確実!」『週刊セブンティーン』1973年10月16日号、集英社、38-41頁。 
  25. ^「西城秀樹74年の総決算 『大阪球場 広島リサイタル オレは燃えた』」『月刊平凡』1975年1月号、平凡出版、50-51頁。 
  26. ^「西城秀樹 誕生日にヒデキがキミとする3つの約束 4月13日に20歳をむかえる西城秀樹のある計画 約束1 専属のロックバンドを作る! 約束2 世界の舞台で『西城秀樹ショー』」『週刊セブンティーン』1975年4月22日号、集英社、54–57頁。 
  27. ^「ST芸能記者座談会 4人のアイドル10大ニュース' 75年総決算! アイドル(秘)全行動をご報告しま〜す」『週刊セブンティーン』1975年12月23日号、集英社、32-37頁。 
  28. ^ab鈴木英之「洋楽はアイドルが教えてくれた──70年代アイドルのライヴ・アルバムを聴く」(通算第13回) 西城秀樹-アルテス電子版、アルテスパブリッシング
  29. ^西城秀樹の記録映画『ブロウアップ ヒデキ』、東名阪Zeppで大音量上映!”. OKMusic. OKWAVE (2018年6月13日). 2018年6月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月29日閲覧。
  30. ^「HIDEKI 1975 RECITAL 11月3日・東京・日本武道館」『週刊セブンティーン』1975年12月2日号、集英社、99-103頁。 
  31. ^阿久悠オフィシャル・ウェブサイト あんでぱんだん
  32. ^朝丘雪路さんと西城秀樹さん、ともに舞台でも活躍」日刊スポーツ(2018年6月9日)
  33. ^坊っちゃん”. トムス・エンタテインメント 公式サイト. トムス・エンタテインメント. 2024年5月12日閲覧。
  34. ^西城秀樹さん事務所独立時の裏話 正真正銘の円満退社だった”. NEWSポストセブン (2018年5月29日). 2024年2月20日閲覧。
  35. ^BIOGRAPHY”. 西城秀樹オフィシャルサイト. 2024年2月20日閲覧。
  36. ^西城さん、原爆への思い 絶頂期に出演したアニメ映画:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2021年6月23日閲覧。
  37. ^科学博テーマ曲熱唱 つくば、西城さん悼む声 -ウェイバックマシン(2018年6月3日アーカイブ分)
  38. ^西城秀樹公式サイトBiography
  39. ^「なんで、もう会えないんだろう」 西城秀樹の訃報に“80年代アイドル”西田ひかる、森口博子、早見優が思い明かす”. ねとらぼ (2018年5月19日). 2024年2月18日閲覧。
  40. ^西城秀樹が司会を務めた音楽番組『青春のポップス』をCSの歌謡ポップスチャンネルで2023年4月よりレギュラー放送スタート!”. PR TIMES (2023年3月30日). 2024年2月18日閲覧。
  41. ^ab「西城秀樹さん」が明かしていた家族への感謝 献身「18歳年下妻」は実姉の紹介(全文)”. デイリー新潮. 新潮社 (2018年5月31日). 2025年1月4日閲覧。
  42. ^西城秀劇さん美紀さんの幸福を 心よりお祈り申し上げます。”. 白濱神社. 2025年1月4日閲覧。
  43. ^ミュージックinドラマ「ホシに願いを」|NHKクロニクル”. NHKアーカイブス. 2024年2月18日閲覧。
  44. ^大杉漣さん 西城秀樹さんを しのんで ミュージックinドラマ「ホシに願いを」 NHK
  45. ^川崎フロンターレ公式サイト 2004年5月22日付お知らせ、「「川崎市制80周年記念マッチ」7月2日(金)vs横浜FC イベント開催のお知らせ多くの芸能事務所から「冗談でしょ?」って言われるような費用しか用意できなかったのに...
  46. ^【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(20)ヤングマン 競技場で精いっぱい歌う”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年7月13日). 2018年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  47. ^フラワードリーム in 東京ビッグサイト2015 公式サイト
  48. ^還暦ヒデキ感激…盟友・五郎登場に涙”. デイリースポーツ (2015年4月14日). 2024年2月18日閲覧。
  49. ^西城秀樹プロデュース 体験型市民農園「百果百菜」
  50. ^2月13日より西城秀樹監修「Y!mobile」CMが放送スタート!
  51. ^ab西城秀樹さんの妻が明かした出会いと別れと「最初の脳梗塞」”. NEWポストセブン (2018年11月16日). 2018年11月16日閲覧。
  52. ^Jcastニュース「西城秀樹が脳梗塞再発 年内の仕事はキャンセル」(2011年12月21日 12:35配信)(2013年1月28日閲覧)
  53. ^スポニチAnnex「西城秀樹 脳梗塞で2週間の入院予定」(2011年12月22日6:00配信)(2013年1月28日閲覧)
  54. ^※当日券あり 2018年4月14日(土) 足利市民会館 ※ネットからの受付は終了致しました。当日券の販売がございます。会場の当日券受付にお越し下さい。”. 同窓会コンサート-Club DSK-. 2021年8月7日閲覧。
  55. ^日本歌手協会”. www.nkk.or.jp. 2021年8月7日閲覧。
  56. ^西城秀樹「63歳突然死」までの傷だらけの「15年闘病」(1)心肺停止状態で救急搬送」『Asasgei+plus』2018年5月26日。2018年6月26日閲覧。
  57. ^西城秀樹さんの妻が明かした出会いと別れと「最初の脳梗塞」”. NEWSポストセブン (2018年11月16日). 2021年8月1日閲覧。
  58. ^歌手、西城秀樹さんの通夜に列 法名は「修音院釋秀樹」 郷ひろみさん「心に穴」”. 産経新聞 (2018年5月25日). 2024年2月18日閲覧。
  59. ^新御三家 ヒデキと突然の別れ…野口五郎「言葉見つからない」郷ひろみ「寂しい」」『Sponichi ANNEX』(スポーツニッポン新聞社)2018年5月18日。2018年5月18日閲覧。
  60. ^西城秀樹さん通夜に4000人 戒名にも「秀樹」」『Sponichi ANNEX』(スポーツニッポン新聞社)2018年5月25日。2018年5月25日閲覧。
  61. ^西城秀樹さん告別式 郷ひろみ、野口五郎が弔辞」『ORICON NEWS』2018年5月26日。2018年5月26日閲覧。
  62. ^西城秀樹さん出棺、1万人が「ヒデキ!」コール」『Nikkansports』(日刊スポーツ新聞社)2018年5月26日。2018年5月26日閲覧。
  63. ^西城秀樹さんの妻が執筆した闘病記、オリコン初登場7位にランクイン”. RBB TODAY (2018年11月23日). 2024年2月18日閲覧。
  64. ^実はヘビースモーカー、20年前からインシュリン注射… 「西城秀樹さん」が抱えていた不摂生のリスク”. デイリー新潮. 2021年7月29日閲覧。
  65. ^西城秀樹さん“病に負けない心” 脳梗塞と多系統萎縮症に挑み続けた日々【第3回】 (1/2)”. 介護ポストセブン (2020年1月29日). 2021年7月28日閲覧。
  66. ^「西城秀樹さん」が明かしていた家族への感謝 献身「18歳年下妻」は実姉の紹介”. デイリー新潮. 2021年8月13日閲覧。
  67. ^ab【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(17)球場コンサート 空中芸に父カンカン”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年6月1日). 2018年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  68. ^日本初のスタジアム・ライブをしたアーティスト – 日本記録(公式)”. 日本記録認定協会. 2024年2月19日閲覧。
  69. ^abc「ただいまギネスブック申請考慮中 大阪球場コンサート連続10年 西城秀樹」『週刊平凡』1983年7月28日号、平凡出版、30-31頁。 
  70. ^太田覚・生駒奈保美「《元祖 タコのキン肉本舗》 西城秀樹&山本リンダ"活火山化"の秘密」『Asahi journal』1991年6月21日号、朝日新聞社、55-57頁。 
  71. ^ab【ヒデキ!カンレキ!! 西城秀樹 感謝の歴史】(23)ペンライト 始まりは74年の懐中電灯”. 東京新聞 TOKYO Web (2016年8月24日). 2018年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年5月22日閲覧。
  72. ^「ケミカルライト(サイリウム)」の歴史は、こんなに壮大だった! 老舗・ルミカに聞く開発秘話”. Jタウンネット. ジェイ・キャスト (2016年10月31日). 2024年2月18日閲覧。
  73. ^「BIG3 HOT NEWS / 西城秀樹 郷ひろみ 野口五郎 第3回 "西城秀樹・情熱のファンキー・カーニバル"(8月14日大阪球場)完全ルポ」『月刊平凡』1976年11月号、平凡出版、86-87頁。 
  74. ^「〔mimi NEWS CENTER〕BIG3のビッグイベント 武道館リサイタル 西城秀樹」『mimi』1977年1月号、講談社、90頁。 
  75. ^#宮入、109-110頁
  76. ^ab西城秀樹さんの妻が『徹子の部屋』に出演。壮絶な闘病生活を明かす”. テレ朝POST. テレビ朝日 (2018年12月3日). 2024年8月16日閲覧。
  77. ^Cano, Rachelle (2015年7月2日). “Music, Magic, and Masa: From Anime to J-Pop in the Blink of an Eye - Part 1” (英語). Discover Nikkei. Nikkei. 2018年6月15日閲覧。
  78. ^西城さん長男“イケメン登竜門”書類審査通過 芸能界入りへ”. 日刊ゲンダイDIGITAL. 日刊現代 (2021年1月28日). 2024年2月18日閲覧。
  79. ^西城秀樹さん長男が木梨憲武ステージにサプライズ登場「お父さんそっくり。まもなくデビュー」”. 日刊スポーツ. 日刊スポーツ新聞社 (2023年11月12日). 2023年11月13日閲覧。

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]
ウィキポータル 音楽
シングル
西城秀樹のシングル
70年代
72年
73年
74年
75年
76年
77年
78年
79年
80年代
80年
81年
82年
83年
84年
85年
86年
87年
88年
89年
90年代
90年
91年
92年
93年
94年
95年
96年
97年
98年
99年
00年代
00年
01年
02年
03年
06年
09年
20年代
22年

88.終わらない夜(未発表曲)

アルバム
西城秀樹のアルバム
オリジナル
70年代
80年代
90年代
ベスト
70年代
80年代
90年代
00年代
10年代
ライブ
70年代
80年代
90年代
カバー
トリビュート
カテゴリカテゴリ
映像作品
出演
映画作品
テレビドラマ
レギュラー番組
アニメ
その他
関連人物
関連項目
カテゴリカテゴリ
1991年からはショータイム形式に変更
1991年からはショータイム形式に変更
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代

開催終了。日本雑誌協会キャンペーンキャラクター選出は2013年度まで継続(以後、西暦はキャンペーンキャラクター担当年度)。

2009年,2010年代
10代
20代
30代
40代
50代
60代
以上
男性
特別
*は複数回の受賞。男性は1992年から、60代以上は97年から、10代は99年から対象
メディア展開
アニメ
ドラマ
ゲーム
スピンオフ
その他
登場人物
音楽
OP
ED
関連項目
人物
作品
会社
放送枠
関連番組
FNSの日
その他
カテゴリカテゴリ
全般
国立図書館
学術データベース
芸術家
https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=西城秀樹&oldid=106942263」から取得
カテゴリ:
隠しカテゴリ:

[8]ページ先頭

©2009-2025 Movatter.jp