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蠣崎季広

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(2020年9月)
 
蠣崎 季広
時代戦国時代 -安土桃山時代
生誕永正4年(1507年
死没文禄4年4月20日1595年5月29日
改名卯鶴丸(幼名)、季広
別名彦太郎
官位若狭守
氏族蠣崎氏
父母蠣崎義広
兄弟季広高広厚谷季政室、明石季衡
河野季通娘・伝妙院
南条広継正室、舜広明石元広
松前慶広吉広守広下国師季正室、
小平季遠室、安東茂季室、ほか
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蠣崎 季広(かきざき すえひろ、旧字体:蠣崎 季廣永正4年〈1507年〉 -文禄4年旧暦4月20日1595年新暦5月29日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名蠣崎氏4代当主[1][2]

生涯

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永正4年(1507年)、3代当主・蠣崎義広の子として誕生。

永正15年(1518年)、祖父で2代当主の蠣崎光広が死去。

天文8年(1539年)、嫡男の蠣崎舜広が誕生。

天文9年(1540年)、次男の明石元広が誕生。

天文14年(1545年)、父・義広の死去に伴い家督を継ぐ。

天文15年(1546年)、主君の安東尋季の命令で、羽後国檜山郡深浦郷の森山館主の森山季定の平定に参加した。

天文17年(1548年、季広の従兄弟である蠣崎基広が不満を持ち謀反を起こすが、家臣の長門広益に鎮圧させる。三男の松前慶広が誕生。

天文18年(1549年)(もしくは天文20年(1551年))、父の時代からのアイヌと対決姿勢を転換し、アイヌの首長である東地のチコモタイン及び西地のハシタイン和睦し、道南地方の支配権を確立した。家臣団の編成やアイヌとの交易権の独占により蠣崎氏の強化を図った。なお、この和睦については前年に蝦夷地入りし、和睦に立ち会った安東舜季の主導によるものという説がある[3]。しかし、この頃の蠣崎氏はまだ安東氏の支配下にすぎなかった。そのため、季広は安東氏の要請に応えて度々兵役の負担を強いられている。一方で季広は13人の娘達を安東氏のみならず奥州の諸大名と娶わせて姻戚関係を作り、系譜上安東氏と対等の関係に立とうとしたとも見られている。

弘治3年(1557年)、五男の蠣崎正広が誕生。

永禄3年(1560年)、三男の松前慶広を陸奥国浪岡具運に出仕させる。

永禄4年(1561年)、長男の蠣崎舜広が長女(南条広継の正室)に毒殺される。十男の蠣崎仲広が誕生。

永禄5年(1562年)、次男の明石元広が舜広と同様に長女に毒殺される。長女を舜広・元広殺害の罪で誅殺する。その夫の南条広継も自害させる。

永禄7年(1565年)、十一男の蠣崎守広が誕生。

永禄10年(1567年)、主君の安東愛季に従い、南部領鹿角郡侵攻作戦に参加する。

天正6年(1578年)、津軽為信浪岡氏を滅ぼす。季広は浪岡顕村からの援軍要請に応じ出陣したが間に合わなかった。

天正9年(1581年)、主君の安東愛季の要請を受け、津軽奪還作戦に十男の蠣崎仲広を送るが、仲広は戦死する。

天正11年(1583年)、三男・慶広に家督を譲って隠居する。松前藩史『新羅之記録』によると慶広が豊臣秀吉の直臣となったことを喜び、「自分はこれまで檜山屋形(安東氏)に仕えてきたが、おまえは天下の将軍(原文ママ)の臣となった」と言い、息子を伏し拝んだと記載されている。名実ともに独立大名になったのは豊臣政権下だが、その下地は季広が築いたといえる。

文禄4年(1595年)に死去。享年89。墓所は松前藩松前家墓所にあるが、始祖の信広から4世季広までは一つの墓に合祀されている[2]

系譜

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家臣

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脚注

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  1. ^福島憲成「8高等教育機関合同公開講座「函館学」(PDF)」『キャンパス・コンソーシアム函館』。
  2. ^ab松前藩主松前家墓所(PDF)」『松前町』。
  3. ^海保嶺夫『エゾの歴史』講談社、1996年。ISBN 4062580691 
丸に割菱紋蠣崎氏4代当主(1545年 - 1583年)
宗家

季繁(花沢館主) - 信広(勝山館主[注釈 1]) - 光広 - 義広 - 季広 - 慶広(松前藩祖) - 盛広[注釈 2] - 公広 - 氏広 - 高広 - 矩広 - 邦広 - 資広 - 道広 - 章広 - 良広 - 昌広 - 崇広 - 徳広 - 修広 - 勝広 - 正広 - 之広 - 孝広 -

分家・支流

崇行院松前家

隆広 - 靖広 - 宣広 - 慶広 - 賀広 -

松川松前家

安広 - 広国 - 為広 - 広雄 - 広高 - 脩広 - 広義 - 広文 - 広憲 - 広胖 - 広致 - 広道 - 賢吾 -

泰広系

泰広 - 嘉広 - 勝広 - 端広 - 誉広 - 忠広 - 幸広 -

正広系
守広系

守広 - 友広 - 広隆 - 広明 - 広武 - 広栄 - 広重 - 広房 - 広常 - 右狩 - 守道 - 広鄰 -

  1. ^蠣崎氏の「始祖」とされ[1]、信広を初代として世数が記述される[2]
  2. ^盛広の代数(世数)の扱いについては文献により異なる。松前氏(蠣崎氏)当主としては第6代に数えられ[3][2]、盛広を含めると幕末の松前修広で第19代となる[3][2]。しかし、松前修広を第18世とするものもある[4]。また、盛広は松前藩初代藩主・慶広の子であるが、盛広は藩主には就かず、2代藩主には盛広の嫡男の公広が就いたとされ[5]、『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは藩主と認めていないが、『松前家記』などでは藩主として数えている[6]。代数(世数)の扱いについては、国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説から松前氏(蠣崎氏)当主には含め[3]、『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などと同じく藩主には含めず松前修広で松前藩主14代[4]として表示している。詳細は蠣崎氏を参照。
  1. ^松前藩主松前家墓所(PDF)」『松前町』。
  2. ^abc福島憲成「8高等教育機関合同公開講座「函館学」(PDF)」『キャンパス・コンソーシアム函館』。
  3. ^abc北海道・松前郡松前町の文化財」『文化遺産オンライン』。
  4. ^ab松前修広」『コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus』。
  5. ^新藤 透「「新羅之記録」書誌解題稿」『情報メディア研究』第3巻第1号、情報メディア学会、2004年、1-10頁。 
  6. ^福島町の文化財」『福島町』。
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