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蜀郡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

蜀郡(しょく-ぐん)は、中国にかつて存在した秦代から唐代にかけて、現在の四川省成都市を中心とした地域に設置された。

概要

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紀元前285年(秦の昭襄王22年)、蜀侯綰が反乱を疑われて処刑されると、蜀郡が置かれた[1]。郡治は成都に置かれた。

前漢のとき、蜀郡は益州に属し、成都・広都臨邛青衣江原厳道綿虒旄牛湔氐道汶江広柔蚕陵の15県を管轄した。前漢末に26万8279戸、124万5929人があった[2]

赤眉の乱の混乱の中、公孫述はこの地に割拠し、建武元年(25年)には皇帝を号し、国号を「成家中国語版」とした。しかし、光武帝の命を受けた来歙らによって滅ぼされた。

後漢のとき、蜀郡は成都・郫・繁・広都・臨邛・江原・綿虒・湔氐道・汶江・広柔・蚕陵の11県を管轄した[3]

建安17年(212年)から建安19年(214年)にかけて、劉備がこの地に侵攻、劉璋から領土を奪った(入蜀)。建安25年(220年)、曹丕が後漢を廃し、を建国すると、建安26年(221年)に劉備は対抗して皇帝を称し、蜀漢を建国した。しかし、景元4年(263年)、魏の侵攻を受け滅亡した(蜀漢の滅亡)。

太康年間、西晋により蜀郡は成都国と改められた。後に蜀郡にもどされた[4]。蜀郡は成都・広都・繁・江原・臨邛・郫の6県を管轄した[5]南朝宋のとき、蜀郡は成都・郫・牛鞞・繁・永昌の5県を管轄した[4]南朝斉のとき、蜀郡は成都・郫・牛鞞・繁・永昌の5県を管轄した[6]

582年開皇2年)、により西南道行台省が置かれた。583年(開皇3年)、総管府が置かれた。605年大業元年)に総管府が廃止された。蜀郡は成都・双流・新津・晋原・清城・九隴・綿竹・郫・玄武・雒・陽安・平泉・金淵の13県を管轄した[7]

618年武徳元年)、唐により蜀郡は益州と改められ、総管府が置かれた。742年天宝元年)、益州は蜀郡と改称された。757年至徳2載)、蜀郡は成都府と改められ、蜀郡の呼称は姿を消した[8]

脚注

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  1. ^華陽国志』蜀志
  2. ^班固漢書』地理志第8上。小竹武夫訳『漢書』3(ちくま学芸文庫)、354-356頁。
  3. ^後漢書』郡国志五
  4. ^ab宋書』州郡志四
  5. ^晋書』地理志上
  6. ^南斉書』州郡志下
  7. ^隋書』地理志上
  8. ^旧唐書』地理志四
 
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