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藤田浩雅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
藤田 浩雅
基本情報
国籍日本の旗日本
出身地静岡県裾野市
生年月日 (1961-10-03)1961年10月3日(64歳)
身長
体重
175 cm
82 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション捕手
プロ入り1982年 ドラフト3位
初出場1983年9月2日
最終出場1994年9月10日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1997, 2004 - 2005, 2007 - 2010)
この表について
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プロジェクト:野球選手  テンプレート

藤田 浩雅(ふじた ひろまさ、1961年10月3日 - )は、静岡県裾野市出身の元プロ野球選手捕手)・コーチ

来歴・人物

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プロ入り前

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家業の食堂は何度も傾き、食うや食わずの生活をしてきた[1]御殿場西高校では2年先輩の杉本正とバッテリーを組んでいた1年先輩の捕手が投手にコンバートされたため、1年次の1977年秋に捕手へ転向。高校卒業後は大昭和製紙への入社を希望するも断念し[1]1980年関東自動車工業へ入社。3年目の1982年には都市対抗ヤマハ発動機の補強選手で出場してベスト8入りに貢献し[2]、打撃は粗削りであったが、その強肩に広島阪急などが目をつけた[1]。特に阪急は衰えが目立つようになった中沢伸二の後継としてリストアップし[1]同年のドラフト3位で阪急ブレーブスに入団。

阪急・オリックス時代

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1983年は主に二軍河村健一郎バッテリーコーチに鍛えられて一軍出場は6試合に終わったが、秋季キャンプでは「バットを見るのが嫌になるくらい」振り込みを続け、フォームを改造[3]

1984年には衰えを隠せなくなっていた中沢伸二から正捕手の座を奪い、最終的に98試合出場でリーグトップの守備率.992・盗塁阻止率.423をマーク[3]。打撃では打率.287で83安打ながら22本塁打の好成績を残し、リードでも2桁勝利投手を4人送り出したほか、チーム防御率もリーグ唯一の3点台(3.72)を記録。「走ってこないかな」と手ぐすね引くほど強肩には自信があり、リードはエースの山田久志ら大ベテランに鍛えられた[3]。山田とのバッテリーでは、主に山田が配球を考え、カーブのサインに対しては遅いカーブ、速いカーブと投げ分けた[3]。リードの醍醐味を覚えたのが星野伸之とのバッテリーで、星野はMAX135km/hのストレートにカーブ、フォークの3種類しかなかったが、西武清原和博をして「星野と藤田のバッテリーは読みづらい」と言わしめている[3]。同年のリーグ優勝に貢献して新人王ベストナインダイヤモンドグラブ賞を受賞し、その後も正捕手としてチームを支えた。外国人投手とバッテリーを組むことが多く、抑え投手のアニマル・レスリーから(スキンシップとして)パンチを食らうことも頻繁にあった。「アイツのハングリー精神には頭が下がる」と阪急首脳陣全員が認めるガッツマンで、殴られても蹴られても耐える姿に上田利治監督も岡田栄球団社長も「1発殴られて何点とか、査定する時にはプラスのポイントをつけなければいかんな」とシーズン中から口をそろえて慰謝料を約束したが、1986年オフの契約更改では点数に入っていなかった[1]。藤田曰く「アニマルが投げる時はフォームも大きいし、意外と神経質だから神経もずい分使った。リードにも苦心しましたよ。それが認められなかったようで…」と複雑な表情を浮かべたが、当時12球団のレギュラー捕手は西武・伊東勤巨人山倉和博の3300万円を筆頭に2000万円台が当たり前であった。4年目とはいえ、藤田はレギュラー捕手としては12球団で一番薄給であった[1]。欠場したのは僅か4試合で、シーズン中には右手の3針縫う怪我をし、バットが満足に振れなくても、スローイングができなくても、チームのためにと出場を続けても、評価は低かった[1]。藤田は「他球団の捕手と比べてもあまりにも差がありすぎる。もう少し捕手の立場を理解してほしい」と訴え、「こうなったらアニマルに慰謝料でも請求しようかな」と半分冗談、半分本気で言い残して事務所を後にした。口約束とはいえ、監督、球団社長自ら慰謝料を用意するといった以上、査定担当者も見直しせざるを得なかった。2回目の交渉で前回より100万円多い1250万円を提示されようやくサインし、希望額に50万円足りなかったが、藤田は女房の苦労を分かってくれれば、それで良かった[1]

1985年には土佐キャンプ初日で強擦プレーの練習中、弓岡敬二郎からの送球を落球。上田に「なにやっとるんじゃ」と激怒され、を左足で蹴り上げられている[4]

1988年6月18日南海戦(西宮)で吉田豊彦から日本プロ野球史上5人目となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ[5]

1989年は故障もあり、若手の中嶋聡に正捕手を奪われた。ただし、中嶋が正捕手となってからも、ガイ・ホフマンドン・シュルジーが先発する時はスタメンに起用されていた。

1991年シーズン終了後に同じポジションの高田誠との交換トレードで読売ジャイアンツに移籍。藤田元司監督が3年越しのラブコールを送り、まとめた話であった[1]

巨人時代

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巨人では2番手捕手として期待されたが、大久保博元の加入により二軍生活が続き出場機会に恵まれなかった。

1994年8月13日阪神戦(東京D)では、桑田真澄とバッテリーを組みセ・リーグタイ記録の16奪三振(毎回奪三振も記録)完封試合に、最後までマスクを被って貢献し打撃でも2打点を挙げた。9月10日の広島戦(東京D)では大量ビハインドで守備で途中出場し、8回裏には井上祐二からソロ本塁打を打った。これが結果的に現役最後の出場となった。

1995年は一軍に昇格することがなかった。

1996年5月から二軍コーチ兼任となり事実上現役を引退。

引退後

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引退後も巨人一筋で、二軍バッテリーコーチ(1997年,2004年 -2005年,2008年 -2009年)・フロント(1998年 -2002年,2006年)・ブルペン捕手2003年)・育成担当コーチ(2007年)・二軍育成コーチ(2010年)を務めた。

2011年からは合宿所の寮長。

2013年4月現在の役職はファンサービス部課長。コーチ時代は親身かつ熱心な指導に定評があり、寮長時代は清武英利球団代表に「君がルールだから」と了承を得て、門限繰り上げ・夕食の義務化・自室での禁煙と規則を厳格化した[6]。違反すれば「外出禁止。1ヶ月とか甘いものではなく、3ヶ月、半年、1年だってある」とし、さらには「場合によっては手を出すこともある。新人選手の親御さんには伝えた」と鉄拳制裁も辞さない構えであった[6]

2024年現在はチームスタッフ(育成チーム)を務めている。

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1983阪急
オリックス
6870200020000010000.286.375.286.661
1984983262894583120221616931832511456.287.343.557.900
1985118396350407613011122530213525036912.217.272.349.620
19861264604195210616118178530013322036915.253.293.425.718
19871042812602261709954401936033613.235.257.365.623
1988832171941534605552501901311207.175.231.284.514
19895896907184102460030300105.200.226.267.492
1990651761571639506621712501301266.248.310.395.705
1991274743393001250010201100.209.261.279.540
1992巨人2644413810094000030051.195.250.220.470
19937880110020000000020.125.125.250.375
19947871210163000010000.286.375.8571.232
通算:12年725206718652044396927272827947611411421329265.235.282.390.673
  • 阪急(阪急ブレーブス)は、1989年にオリックス(オリックス・ブレーブス)に球団名を変更

年度別守備成績

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捕手






















1983阪急
オリックス
6930001.0003031.000
19849745342473.992714130.423
198511757348864.987916724.264
1986126694624114.9951289236.281
198710347857573.991956629.305
19887834128282.995423012.286
19895517420142.99532239.281
19906231132671.983503317.340
199123708221.9751073.300
1992巨人167090011.0001055.500
199362800011.000220.000
199472620001.0001011.000
通算6963227311325222.991535366169.316

表彰

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記録

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背番号

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  • 25 (1983年 - 1991年)
  • 38 (1992年 - 1995年)
  • 68 (1996年)
  • 86 (1997年)
  • 108 (2003年)
  • 85 (2004年 - 2005年)
  • 111 (2007年)
  • 71 (2008年 - 2010年)

関連情報

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出演

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ラジオ番組

脚注

[編集]
[脚注の使い方]
  1. ^abcdefghi日めくりプロ野球 12月【12月4日】1986年(昭61) 約束してくれたのに…アニマルの女房・藤田浩雅“殴打賃”よこせ!スポーツニッポン、リンク切れ
  2. ^'94スポニチプロ野球手帳
  3. ^abcde週刊ベースボールONLINE 藤田浩雅&熊野輝光 阪急の明るいニュースとなった2年連続新人王/プロ野球1980年代の名選手週刊ベースボール
  4. ^日刊スポーツ1985年2月5日上田監督藤田蹴っ飛ばす
  5. ^週刊ベースボール 2011年11月7日号96ページ
  6. ^ab巨人“鬼寮長”復活!規則厳格化「俺がルールだ」、スポーツニッポン

関連項目

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外部リンク

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業績
1950年代
1960年代
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
記述のない年は該当者なし
1970年代
1980年代
1990年代
2000年代
2010年代
2020年代
1972年から1985年まではダイヤモンドグラブ賞
指名選手
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