| ふじむら しほ 藤村 志保 | |||||
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『婦人生活』1968年2月号(婦人生活社)より | |||||
| 本名 | 静永 操(しずなが みさお)[1] | ||||
| 生年月日 | (1939-01-03)1939年1月3日 | ||||
| 没年月日 | (2025-06-12)2025年6月12日(86歳没) | ||||
| 出生地 | |||||
| 職業 | 女優 | ||||
| 活動内容 | 1962年 -2014年 | ||||
| 配偶者 | あり(静永純一、1970年結婚) | ||||
| 事務所 | オフィスポエム | ||||
| 主な作品 | |||||
| テレビドラマ 『太閤記』 『三姉妹』 『温泉へ行こう』シリーズ 『てるてる家族』 『風林火山』 映画 『古都憂愁 姉いもうと』 『大魔神怒る』 『なみだ川』 『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』 | |||||
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藤村 志保(ふじむら しほ、本名;静永 操〈しずなが みさお〉[1]、旧姓;薄〈すすき〉、1939年〈昭和14年〉1月3日 -2025年〈令和7年〉6月12日)は、日本の女優。神奈川県川崎市出身。所属事務所はオフィス優。日本子守唄協会副会長[2]。
4歳の時、父を戦争で失い、毛糸商を営む母に育てられた[3]。1957年、フェリス女学院高等部卒業[4]。フェリス女学院時代の同級生に安井かずみ。
9歳から日本舞踊の稽古に明け暮れ、19歳で花柳流の名取「麗(うらら)」として日本舞踊を教えるなど、踊りにも精通。
1962年、市川崑の監督映画『破戒』でデビュー。芸名は、デビュー作の役名「志保」と原作者の島崎藤村に由来する[3]。以降、大映のスターとして主に時代劇で活躍。
テレビドラマにも進出し、1965年、『太閤記』のねね役を演じたのをきっかけに大河ドラマで活躍。
また『欽ちゃんのどこまでやるの!?』、『森田一義アワー 笑っていいとも!』テレフォンショッキング、『徹子の部屋』、『スタジオパークからこんにちは』などバラエティ番組やトーク番組にも多数出演し、軽妙なトークや撮影秘話などを披露。ドラマ・映画・舞台からは窺い知ることのできない素顔を見せている。
1979年、地唄舞の名手・武原はんに師事、1985年から地唄舞披露「藤村志保の会」を開始し、以来、隔年にほぼ一度のペースで主宰[5]。
1983年、女優として初めて、放送番組向上委員会委員に就任[3]。
1985年には臓器移植を取材して著書『脳死をこえて』を書き上げ第6回読売女性ヒューマン・ドキュメンタリー大賞を受賞、同著はテレビドラマ化もされている。自身も腎臓バンクに登録、衆院法務委員会で参考人として意見を述べた[3]。
『風林火山』での演技が認められ、第59回NHK放送文化賞を受賞した。
放送文化資源・資料の保存にも関心を持っており、2011年には日本脚本アーカイブズ(後の一般社団法人日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアム)に対し自身の出演作等の台本576冊を寄贈している[6]。
2014年にはNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』でナレーションを務め、演出意図から独特な語り口調が賛否両論を起こした。しかし、放送開始直前の同年1月3日に背骨を圧迫骨折する大けがを負い、医師から絶対安静と診断され、今後の収録は困難になったとの理由からナレーションを降板することが同年1月29日に発表された。ナレーションは同年2月16日放送分の第7回から元NHKアナウンサー広瀬修子に交代し、しばらく治療に専念[7]。同年8月までに全快し、同月12日に快気祝いが催されたという[8][9]。しかし以降も5、6度の圧迫骨折を患い、活動復帰はできなかった。
妹は、巣鴨で料亭「田村」を経営していたが、2014年に閉店した。
2025年6月12日、肺炎のため死去した[10]。86歳没。

| 1 - 10作 | |
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| 11 - 20作 | |
| 21 - 30作 | |
| 31 - 40作 | |
| 41 - 50作 | |
| 51 - 60作 | |
| 61 - 70作 | |
| その他(NHK新大型時代劇) | |
エランドール賞 新人賞 | |
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| 1950年代 | |
| 1960年代 | |
| 1970年代 |
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| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
毎日映画コンクール 田中絹代賞 | |
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| 1980年代 | |
| 1990年代 | |
| 2000年代 | |
| 2010年代 | |
| 2020年代 | |
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