ふじこ ふじお 藤子 不二雄 | |
|---|---|
| 本名 | 藤本 弘(藤子・F・不二雄) 安孫子 素雄(藤子不二雄Ⓐ) |
| 生誕 | 藤本:1933年12月1日 富山県高岡市 安孫子:1934年3月10日 富山県氷見市[注釈 1] |
| 死没 | 藤本:1996年9月23日(62歳没) 安孫子:2022年4月6日(88歳没) |
| 国籍 | |
| 職業 | 漫画家 |
| 活動期間 | 1951年-1988年(コンビ) 1988年-1996年(独立活動) 1996年-2022年(安孫子のみ活動) |
| ジャンル | 児童、少年、大人、 SF、ブラックユーモア |
| 代表作 | 『UTOPIA 最後の世界大戦』 『海の王子』『オバケのQ太郎』 『パーマン』(以上合作)、 『忍者ハットリくん』『怪物くん』 『プロゴルファー猿』 (以上安孫子単独作)、 『ドラえもん』『キテレツ大百科』 『エスパー魔美』 (以上藤本単独作) |
| 受賞 | 第8回小学館漫画賞 (『すすめロボケット』 『てぶくろてっちゃん』) 第23回 日本漫画家協会 優秀賞 (『ドラえもん』) 第27回小学館漫画賞 児童部門 (『ドラえもん』) 第29回 映画の日 特別功労章 第2回ゴールデングロス賞 最優秀・金賞(『ドラえもん』) ※#受賞歴を参照。 |
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藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、日本の漫画家。藤本弘(ふじもと ひろし)と安孫子素雄(あびこ もとお)との共同で使っていたペンネーム(今はコンビ解消)
1951年に本名の連名「あびこもとお・ふじもとひろし」でプロデビュー。「足塚不二雄」を経て、1953年7月にペンネームを「藤子不二雄」とし、1988年2月頃まで同名義で作品を発表した。
1987年12月に独立を発表し、1988年1月に独立パーティを開催。安孫子は「藤子不二雄Ⓐ」、藤本は1989年から「藤子・F・不二雄」のペンネームで活動を続けた(「#2つの闘病と独立」を参照)。
活動初期の1954年の時点ですでに単独作品を多く執筆しており、合作を含む全作品を「藤子不二雄」という共同ペンネームで発表するという方式をとっていた(1988年の独立まで)。
1965年に合作『オバケのQ太郎』がテレビアニメ化され大ブレイク。1966年には『パーマン』[注釈 2]、『チンタラ神ちゃん』の連載も始まり年に9本の合作が連載される状態となるが、合作はその後減少。1971年連載開始の合作『仙べえ』『(新)オバケのQ太郎』を経て、1976年の読切『オバケのQ太郎』が実質的に最後の合作となった(「#藤子不二雄の合作」「#最後の合作」を参照)。
「藤子不二雄」名義で発表された代表作は上記の他、安孫子単独作の『忍者ハットリくん』(1964年)、『怪物くん』(1965年)、『まんが道』(1970年)、『プロゴルファー猿』(1974年)、藤本単独作の『ドラえもん』(1969年)、『キテレツ大百科』(1974年)、『エスパー魔美』(1976年)など多数。
事実上コンビとしての活動期間は約36年に及び、“他人同士が組んだ漫画家”としては、2015年にゆでたまごが更新するまで日本の漫画家で最長だった(プロデビュー前の活動を含めれば40年以上)。
| 年.月 | 藤本弘 | 合作 | 安孫子素雄 |
|---|---|---|---|
| 1951.12- 1952.4 | 「あびこもとお・ふじもとひろし」 | ||
| 1952.11- | 足塚不二雄 | ||
| 1953.7- 1988.2 | 藤子不二雄 | ||
| 1988.2- | 藤子不二雄Ⓕ | 藤子不二雄Ⓐ | |
| 1989.1- | 藤子・F・不二雄 | 「藤子・F・不二雄藤子不二雄Ⓐ」 または「藤子・F・不二雄」 または「藤子不二雄Ⓐ」[注釈 5] | |

終戦前の1944年に10歳で出会った藤本と安孫子は、漫画が好きという共通点からすぐに意気投合。1946年に『マァチャンの日記帳』、1947年に『新宝島』と出会ったことで大の手塚治虫ファンになり、自らも漫画家を目指すようになる。雑誌や新聞への読者投稿でたびたび入選。やがて「1人でやるより2人でやった方が力になるだろう」と合作を決意。かつて手塚が連載していた新聞に投稿した『天使の玉ちゃん』が、1951年12月に本人たちも気づかないうちに連載され、高校3年生でプロデビューを果たす。
1952年の高校卒業時には手塚治虫と初対面。手塚の人気が700ページもの没原稿に支えられていることを知り、大きなショックを受ける。
新聞社に就職した安孫子と、家で漫画に専念する生活を選んだ藤本は、漫画の執筆を続け『西部のどこかで』で雑誌デビュー。1953年1月に初の雑誌連載『四万年漂流』を開始するも6回で打ち切られてしまう。同年7月、初の単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』を刊行(手塚の紹介で出版社から依頼があり描き下ろした)。これは後に日本で最もプレミアム価値がついた伝説の漫画単行本となる。
1954年6月に意を決して上京した2人は両国の2畳間の下宿を経て、後に伝説のアパートとなるトキワ荘の手塚治虫の部屋に入れ替わりで入居。仕事も順調に増えて多忙な生活を送るも、1955年の正月に連載を含む11本のうち5本を落とすという事件を起こしてしまう。しばらく仕事が減ったものの干されることはなく、翌年には連載を獲得して復活。初の週刊連載『海の王子』(合作)もスタートし、ほどなく連載10本を抱える売れっ子漫画家となる。
1961年、トキワ荘を出た2人は川崎市に隣同士で家を新築して転居。
1963年には鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろうらとアニメーション・スタジオ「スタジオゼロ」を設立。1964年、その雑誌部の仕事として描かれた『オバケのQ太郎』(合作)が大ヒット。テレビアニメ化されたこともあり「オバQブーム」と呼ばれる社会現象になる。これに続いて数年のうちに『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『パーマン』(この時期は藤本メインの合作)、『21エモン』(藤本)などの代表作が続々と新たに発表され、その多くがテレビアニメやテレビドラマになる。
1968年には青年漫画誌が次々と創刊したことで大人向け漫画にも進出。安孫子は『黒イせぇるすまん』を皮切りに、70年代を中心に多数のブラックユーモア短編を発表し、『ミス・ドラキュラ』(1975-1980)等の複数の長期連載を行った。藤本も『ミノタウロスの皿』をはじめとしたSF短編を数多く執筆した。
1970年代に安孫子は少年向け作品も精力的に執筆。週刊少年誌にて、後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『まんが道』シリーズ(1970-2013)を開始した他、怪奇漫画『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、ギャグ漫画『オヤジ坊太郎』(1975-1976)等を次々と連載。趣味のゴルフを生かした大作『プロゴルファー猿』シリーズ(1974-2005)はゴルフ漫画の先駆けとなった。
一方で藤本は劇画の隆盛もあってヒットから遠のく。『ウメ星デンカ』(1968-1970)の後、合作『仙べえ』(1971-1972)を経て週刊少年誌の連載から撤退し、小学館の学習雑誌に注力。1969年に連載を開始した『ドラえもん』(1969-1996)が1973年のテレビアニメ化を経てじわじわと人気を高め、1977年にはドラえもんを大量に読める児童漫画誌としてコロコロコミックが創刊。1979年の2度目のアニメ化により空前のドラえもんブームを巻き起こした。その人気は一過性のブームのみに留まらず、1980年の映画化以来、毎年[注釈 6]シリーズ作品の新作が公開されるなど、40年以上にわたって続いている。
ドラえもんに次いで1980年から1987年にかけて『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』等の藤子漫画が立て続けにテレビアニメ・映画化。藤子のアニメだけを放送する『藤子不二雄ワイド』が毎週放送され、藤子の新作漫画が毎週掲載される週刊誌形式の漫画全集『藤子不二雄ランド』(1984-1991)が毎週刊行されるなど、藤子不二雄ブームと呼ばれる現象となった。
そんな中で1986年に安孫子は倒れた妻を介護する身となり、藤本は癌手術で休養。1987年末にそれぞれ1人の漫画家として独立することを発表し、1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たなスタートを切る(最後の合作はドラえもんブーム直前の1976年に描かれた『オバケのQ太郎』の読切)。
独立後、安孫子は1990年公開の映画『少年時代』をプロデュース。数々の賞を受賞した。また、1989年にアニメ化された『笑ゥせぇるすまん』が人気となり、新作の長期連載等、せぇるすまんシリーズ(1968-2004)の漫画執筆を行った。その他、『パラソルヘンべえ』(1989-1991)や『プリンスデモキン』(1991-1999)など、20世紀は児童漫画の執筆も一貫して行った。
1988年以降から1996年にかけて、藤本作では『キテレツ大百科』『チンプイ』『21エモン』『ポコニャン!』『モジャ公』等が、安孫子作では『ビリ犬』『笑ゥせぇるすまん』『さすらいくん』『夢魔子』『パラソルヘンべえ』等が次々とアニメ化された。
藤本は1996年9月23日に死去するまで、毎年『大長編ドラえもん』の漫画連載を執筆。春休みの映画公開は、2024年現在も続いている。
安孫子は2000年代以降もまんが道シリーズ『愛…しりそめし頃に…』等の連載を継続して執筆。『怪物くん』は嵐の大野智主演で連続ドラマ化、3D実写映画化された。『忍者ハットリくん』は2004年にSMAPの香取慎吾主演で映画化された他、インドでアニメが放送され人気が爆発。2012年からは日本とインドで共同で新作アニメの制作を開始。2023年現在もYouTubeやテレビ放送で新作が公開される国際的人気作となっている。
2022年4月6日に安孫子が死去した後も、2人の遺した作品の数々は社会に根強く影響を与え続けている。
(以上は「年譜」の要約。詳細と注釈は「年譜」を参照のこと)
1987年末に2人は独立(コンビ解消)を発表した。1985年夏 藤本が妻に「安孫子氏と別れようと思う」と言う。[注釈 7]藤本は、以前から借りていたマンションの一室で仕事をするように。[注釈 7]ある夜、藤本が安孫子の自宅を突然訪問し、独立の意向を伝える。[注釈 8][注釈 9]安孫子「思えば、上京する時も藤本氏が誘ってくれて、どうなるかと思ったけれど、後に『あの時、言ってくれてよかった』と思ったし、独立の時も、言い出してくれてよかったと今では思っています」[注釈 10]。「今では」とあるので、意向を伝えられた時点では安孫子には独立(コンビ解消)の意思がなかったことがうかがえる。
1987年(S62) 12月23日(水) 藤子不二雄の独立の「ごあいさつ」を出版関係者に発送。挨拶状により独立の意思を表明した。その理由として「この辺で、二人三脚のヒモをほどいて、それぞれの足で歩いてみたらどうか、と話し合いました。新しい展開としてそれぞれやりたいことをやってみるのも面白いんじゃないかと」[4]と記した。藤本は自身が入退院を繰り返したことから「二人三脚でくくっていたほうの足が、かすかにヒリヒリしていた。ひもを解いてみれば、何か新しいことやれるのではないか」[4]と記した。安孫子は「いままでのように二人のペースを合わせるのは無理な年になってきた。漫画だけでなく、ぼくも文章なども書いてみたいが、藤子不二雄の名前では勝手なことやれない」[4]と記した。挨拶状にて、これまでの執筆作品の中にそれぞれが単独で描いていた作品があることと、その内訳を公式に明らかにした[4]。作品執筆分担の内情は「企業秘密をもらします」という前置きで明かされたが、これはジョーク(雑誌によってはプロフィール欄にて片方の名前や、片方の代表作名が列挙されており、かねてから読者にも執筆分担が分かる状況だった[注釈 11])。また、作画上は明らかな合作である『パーマン』(旧作)がF作品とされるなど、事実とは必ずしも一致しない。関係者や読者に向けて、独立後の権利の移行を説明する意味で分類・発表された意味合いが強い。
1988年(S63)1月25日(月) 「二人の藤子不二雄を励ます会」開催(全日空ホテル)「藤子不二雄が二人に独立する記念日」パーティが行われる。[5]
1986年に藤本が胃癌になってからの経緯を見れば、独立の大きな原因が藤本の体調(自由に休み時間をとりつつ自分のペースで仕事ができる環境が必要だった。妻の藤本正子は、後に藤子プロの社長に就任する伊藤に「藤本に原稿を描かせてあげるための体制を作って欲しい」「健康が大切なので、休み時間をきちんととれるようにしてほしい」と要望している。[6]
長谷邦夫は「重病の藤本は(中略)生前にこれまでの二人の共同作品も含めて全作品を、FとA、そして合作とに線引しておく必要を強く感じていたはずである。 彼ら二人っきりだったら、友情という絆だけで、どのようにも分割できる。しかし、二人にはすでに家族が存在する。後にトラブルを起こさないよう、明確に分離しておかなければならない」と推測している。 [7]藤子不二雄としての著作権料は関与の度合いに関係なく均等に二分割だったが、どちらかの死後、遺族によって『ドラえもん』の巨額の著作権料の分配が問題となると予想され、それを未然に防ぐためにコンビを解消したという。 [8]にあることがうかがえる。また、安孫子家も大変な状況だった。
安孫子「藤本君は生活ギャグ一本でやってきたが、自分は傾向が変わってきた。ブラックユーモアを描くようになったのが転機となった。作品も生活も自分と藤本君とは違いが出て来た。自分が過激なのを描こうとして、藤本君の『ドラえもん』を傷つけるといけないから。50まで漫画家をやるとは思わなかったし、やる事はやり尽くして来たので、あとは好きなように気楽にやろうと別れた(要約)」[注釈 12]。安孫子「自分は社交性があるため、酒やゴルフを覚えたが、藤本君はそのようなことは一切しなかった[注釈 13]。結果的に藤本君は少年のような心を持ち続けるきっかけとなり、逆に自分はこども心が薄れ、作風に差が出た」
お互いの不仲による独立ではなかったため、藤本は海外旅行へ行くたび安孫子に土産をプレゼントしており、安孫子も自宅の応接間にそれらを飾るなど、独立後も友好な関係が続いていたという[9]。映画鑑賞が共通の趣味である事から、映画の試写会で月に1度程度顔を合わせていたという[10]。
アマチュア時代に合作形式になって以降、収入はすべて同一の口座に貯蓄し、必要な金銭は2人で均等に引き出していた。昔からの慣習のため、それが当たり前だったという。1966年の藤子スタジオ設立後も、原稿料等の収入はすべて会社に納入され、それにより会社が経営され、藤本と安孫子の2人にはそれぞれ同額の給与が支払われていた。独立前の1980年代の高額納税者公示制度を参照すると、2人がほぼ同額を納税していることが確認できる。1988年の独立より前に、金銭的なトラブルが藤本と安孫子、または親族間において発生したという関係者の証言は確認されていない。藤本の妻は書籍にて、大病を患った藤本が退院後、安心して仕事ができる環境を整えることが独立の一因であることを示唆している。
ペンネームの分離はそれぞれ別のペンネームで活動を続けた(「#ペンネーム」を参照)。
漫画制作会社の分離
この節は大言壮語的な記述になっています。Wikipedia:大言壮語をしないを参考に修正して下さい。(2024年6月) |
10歳で運命の出会い。2人で神様・手塚治虫を崇め続けた結果、高校3年で本人たちも知らない間にプロデビューを果たす。
| 月/日 | 藤本弘 | 安孫子素雄 |
|---|---|---|
| 2 |
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| 2/26 |
|
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| 3 |
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| 3/9 |
|
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| 4 |
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| 5 |
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| 6 |
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| 7 |
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| 8 |
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| 9 |
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| 11 |
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| 月/日 | 藤本弘 | 手塚不二雄[注釈 26] | 安孫子素雄 | |
|---|---|---|---|---|
| 1 |
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| 1/1 |
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| 1/7 |
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| 2 |
| |||
| 4 |
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| 5 |
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| 6 |
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| ||
| 7 |
| |||
| 7/27 |
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| ||
| 9 |
| |||
| 10 |
| |||
あこがれの手塚治虫と初対面を果たし大きなショックを受ける。昼は高岡市と富山市に分かれ、夜と日曜日のみ共に執筆する「まわり道」時代。雑誌デビューを果たし、19歳で伝説の単行本を世に送り出す。
| 月/日 | 藤本弘 | 手塚不二雄[注釈 43] | 安孫子素雄 | |
|---|---|---|---|---|
| 4/2 |
| |||
| 5/28 |
| |||
上京。2畳間で2人で暮らす両国下宿時代の4か月を経て、あこがれのトキワ荘へ入居。わずか2か月後に「大量原稿遅延・落とし事件」を起こすも、干されることなく1年で復活。順調に仕事を増やし、母たちを東京に呼び寄せる。合計3部屋を借りる、連載10本の売れっ子漫画家に。
1962年に藤本、1966年に安孫子が結婚。週刊少年誌の新連載が次々と増え、1964年には「週刊漫画誌3誌同時連載」を達成。『オバQ』がアニメ化され大ヒット。オバQブームが起こり、社会的に知られる漫画家となる。『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『パーマン』(この時期は藤本メインの合作)、『21エモン』(藤本)などの代表作が続々と発表され、その多くがテレビアニメやテレビドラマになる。
1960年代中頃から、劇画が隆盛し、少年誌に掲載される漫画の対象年齢も高くなった。
1968年(S43)には青年向け漫画誌『ビッグコミック』が創刊され、安孫子は読切『黒イせぇるすまん』を発表した。
安孫子はそれまでも風刺色の強い漫画をしばしば発表していたが、本作を機に大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。
後にブラックユーモア短編と呼ばれる『マグリットの石』(1970)らの短編群の他、『毛沢東伝』(1971)、『愛ぬすびと』[注釈 69](1973)、『ミス・ドラキュラ』(1975-1980)等、多数の大人向け漫画が描かれた。
1969年(S44)に藤本も『ビッグコミック』に『ミノタウロスの皿』(1969)を発表。
1970年代には多数の大人向け漫画を青年漫画雑誌、SF専門誌などで発表した。
これらの短編は、少年向けのものとあわせてSF短編[注釈 70]と呼ばれるようになった。
安孫子によると、青年漫画を描くようになった1973年頃、「少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」というドラえもんファンの子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意したという[56]。
安孫子は1970年代、少年雑誌においても週刊連載を精力的に執筆する。後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『まんが道』(少年チャンピオン連載は1970-1972)を開始した他、怪奇漫画『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、『ブラック商会変奇郎』(1976-1977)、ギャグ漫画『オヤジ坊太郎』(1975-1976)等を次々と連載した。
その中で趣味のゴルフを生かした大作『プロゴルファー猿』も生まれた。
一方、藤本は週刊少年誌で苦闘。劇画隆盛の中、藤本単独作の『ウメ星デンカ』(週刊少年サンデー連載は1969のみ)や『モジャ公』(1969-1970)の人気が伸び悩んでいたためだ。
少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」と拒否している。
『週刊少年サンデー』では『ウメ星デンカ』が終了。その後、合作『仙べえ』(1971-1972)を挟んで、次作は安孫子単独作の『プロゴルファー猿』(週刊少年サンデー連載は1974-1978)が連載となる。
週刊少年誌という舞台を失った藤本は小学館の学習雑誌に注力[注釈 71]するが、学習雑誌での『ウメ星デンカ』(学習雑誌連載は1968-1970)の後継作『ドラえもん』(1969-1996)は、1973年にせっかく実現した初アニメ化(日本テレビ版)が制作サイドの問題で半年で打ち切りとなっていた。
1974年(S49)夏、単行本(てんとう虫コミックス)が発売されたことで『ドラえもん』(藤本単独作)の人気は徐々に高まっていく。
そんな中、1976年(S51)4月、『オバケのQ太郎』の読切作品(最後の合作[注釈 72])が『月刊少年ジャンプ』5月号に掲載される。
『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、1977年(S52)には藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が創刊。
『週刊少年キング』では藤子不二雄の自伝的漫画『まんが道』(キング連載は1977-1982。安孫子単独作)も開始した。
1979年(S54)には『ドラえもん』がテレビ朝日の製作により同系列で再アニメ化。全国放映され、不動の人気を決定づけた。
1980年(S55)には映画化され、現在まで続くシリーズ作品となる。
この30年後に安孫子は、『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て「このままだと、藤本氏のマネジャーかアシスタントをやるしかないのでは」と内心悩んでいたというジョークであまりの過熱ぶりを振り返っている[57]。
『ドラえもん』に続いて1980年〜1987年にかけて『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』が立て続けにテレビアニメ・映画化され、各メディアを席巻した。
1985年(S60)にはこれらの藤子アニメを複数まとめて放送する番組枠『藤子不二雄ワイド』がレギュラー編成されるほどだった。
前年の1984年(S59)には、新作漫画が毎週掲載されるという異例の漫画全集『藤子不二雄ランド』(中央公論社)が創刊され、藤子不二雄は自身専用の週刊連載媒体を持つ漫画家となった。
1980年代の人気の過熱ぶりは藤子不二雄ブーム[注釈 73]と呼ばれる。
我孫子は妻が倒れ看護する身となり、藤本は52歳で胃癌になり癌手術をする。1987年末に2人は独立(コンビ解消)を発表した。
多くの連載を抱えながら妻を看護する身となった安孫子を心配し、「大丈夫? 少し休んだら。仕事はおれがカバーするから」と藤本。突然そう言われた安孫子は泣きそうになったという[61]。だが、ほどなく藤本に胃癌が見つかったため、安孫子は妻を見舞いつつ、大量の仕事をこなして藤本をカバーする日々を送ることになる。
1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たにスタート。
1996年9月までの9年弱の間に、2者2様の活動が行われた。映画での共演など、コンビ時代と変わらぬ関係も続いた。
ⒶランドとF大全集が刊行。F大全集には合作『オバケのQ太郎』が含まれるなど、入手困難だった数作品の購入が容易になった。
『藤子不二雄Ⓐデジタルセレクション』刊行。これによりF大全集とあわせて2人の作品の多くが体系的に読めるようになった。ただし、これらのシリーズに含まれない未収録作品が100冊分以上存在する。
受賞、受章など。
藤本弘と安孫子素雄の2人の合作による主な漫画作品。それぞれが単独で執筆した作品は#作品一覧を参照。
※上の「ピックアップ」で紹介した作品も含む。
藤子不二雄の主な作品。
| 藤本弘 | 合作 | 安孫子素雄 |
|---|---|---|
| 藤子・F・不二雄 | 藤子不二雄Ⓐ |
|---|---|
以下は、別作品同士の共通点や類似点。中には藤本作品と安孫子作品の両方にまたがる共通点もある。コンビ時代は単独作でもすべて「自作」「合作」なので、アイデアや同一のネタも共有し、各自で自由に使用していた。単独作の中にも、相棒の影響下のもとに描かれているものがあることがわかる。
| 藤本弘アニメ (カテゴリ) | 原作漫画がもとは合作 だった作品のアニメ (カテゴリ) | 安孫子素雄アニメ (カテゴリ) | |
|---|---|---|---|
| 最新作[注釈 91] | ドラえもん(1979-放送中の第2作) | 映画Pa-Pa-Pa_ザ★ムービー パーマン タコDEポン!アシHAポン!(2004)[注釈 92] | NINJAハットリくんリターンズ(2012-新作公開中) |
| 最新作の前の 別の新作タイトル | モジャ公(1995-1997) | オバケのQ太郎(1985-1987の第3作)[注釈 93] | 笑ゥせぇるすまんNEW(2017) |
テレビドラマや映画で実写映像となった主な藤子作品。その他の作品はCategory:藤子不二雄原作の実写作品を参照。
| 藤本弘 | 安孫子素雄 |
|---|---|
|
| 藤子・F・不二雄 | 藤子不二雄Ⓐ |
|---|---|
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|
藤子作品に付随して作られた主な音楽。その他の作品はCategory:藤子不二雄の映像作品の音楽を参照。
| 藤本弘 | 合作 | 安孫子素雄 |
|---|---|---|
|
|
|
| 藤子・F・不二雄 | 藤子不二雄Ⓐ |
|---|---|
|
|
藤子作品を題材に作られた主なコンピュータゲーム。その他の作品はCategory:藤子不二雄のコンピュータゲームを参照。
| 藤本弘 | 合作 | 安孫子素雄 |
|---|---|---|
|
|
|
| 藤子・F・不二雄 | 原作漫画がもとは合作 だった作品のゲーム | 藤子不二雄Ⓐ |
|---|---|---|
|
|
|
2023年現在入手困難な作品、または未単行本化作品。
他多数。
藤子不二雄のサインや、作品の最後のコマ等に記されていることがある「Mo」に似たマークはアルファベットではなく「富士山」と「湖」で、「富士+湖」→「フジコ」を表している。独立後、藤本は「M」の左下に「o」を描くようになった。独立後、安孫子はMoマークを使用しなくなった(主にⒶをマークとして使うようになった)。安孫子は「これは藤子不二雄のマークなので、ぼくひとりのものではないから」と2005年にコメントしている[80]。
藤子不二雄本人によるメディア出演。
藤子不二雄(または藤子不二雄をモデルとした人物)が登場する作品。
藤子スタジオ(1988年以降は藤子プロも含む)にて作画に関わったスタッフまたは友人。
※在籍順。
ドラえもんの関連書籍の執筆者[注釈 96]。
| 漫画作品 |
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| 関連項目 |
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