| 時代 | 平安時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 延喜20年6月2日(920年7月24日) |
| 死没 | 安和2年10月15日(969年11月27日) |
| 別名 | 小一条左大臣 |
| 官位 | 正二位、左大臣 |
| 主君 | 村上天皇→冷泉天皇 |
| 氏族 | 藤原北家小一条流 |
| 父母 | 父:藤原忠平、母:源昭子(源能有の娘) |
| 兄弟 | 実頼、貴子、寛子、師輔、師保、師氏、師尹、藤原諸房室 養兄弟:忠君 |
| 妻 | 正室:藤原定方の九女 |
| 子 | 定時、済時、定昭、芳子 |
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藤原 師尹(ふじわら の もろただ、延喜20年〈920年〉 -安和2年〈969年〉)は、平安時代中期の公卿。摂政関白太政大臣・藤原忠平の五男。官位は正二位・左大臣。小一条流の祖。
朱雀朝の承平2年(932年)元服して従五位下に叙爵し、承平5年(935年)侍従に任官する。承平7年(937年)従五位上・左兵衛佐に任ぜられると、天慶4年(941年)正五位下と昇進する。天慶5年(942年)従四位下・右中弁に叙任され一時文官を兼帯するが、天慶7年(944年)蔵人頭兼左近衛中将に補任されて弁官を離れ、朱雀朝末の天慶9年(946年)参議に任ぜられ公卿に列した。
天慶9年(946年)村上天皇の大嘗会に伴う叙位にて従四位上に昇叙されると、天暦2年(948年)兄の師氏を含む上﨟の参議5人(ほかに源兼明・伴保平・源庶明・源等)を越えて従三位・権中納言、天暦5年(951年)中納言、天暦10年(956年)正三位と順調に昇進する。議政官として左中将・左兵衛督・左衛門督と武官を兼ねた。また、天暦4年(950年)兄の右大臣・藤原師輔の外孫にあたる憲平親王(のち冷泉天皇)が生後まもなく春宮に立つと、その春宮大夫を兼ねている。一方で、師尹は娘の芳子を村上天皇の後宮に入内させ、天徳2年(958年)芳子は女御宣下を受ける。芳子は容貌優れて天皇の寵愛が深く昌平親王と永平親王の両皇子を産むが、いずれも病弱であったため春宮にはなれなかった。
その後も、天暦11年(957年)右近衛大将、天徳4年(960年)権大納言、康保3年(966年)大納言と昇進を重ねる。
康保4年(967年)村上天皇の崩御に伴って冷泉天皇が即位すると、関白太政大臣に長兄の藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣には師尹が就く。師尹は実頼と謀って、高明の聟にあたる年長の為平親王を外して守平親王を春宮に立て、師尹はその東宮傅となる。安和2年(969年)3月に為平親王を奉じて謀叛を謀っているとの密告があり左大臣・源高明が失脚した(安和の変)。師尹は高明に替わって左大臣に昇るが、約半年後の10月15日に発音障害を伴う病により薨御した[1]。享年50。最終官位は左大臣正二位。没後、正一位が贈位された。
安和の変は高明の失脚を謀った師尹の企みであったとされ、左大臣昇任後一年もたたずに没したことについて、世間では高明の恨みによるものと噂された[2]。
他人への対応について親疎や好悪により非常に区別を付け、いかにも癖のある取り扱いをした[3]。また「極メテ腹悪キ人」[4]との記述が今昔物語集に見られる[5]。故実に反する事があった際には天皇に対してでも反論をし退出も厭わないなど強硬な態度をとり[6]、また業務を怠った国司への加階を定める際に一人「科のある者に処罰もせずに賞を与えるとはどういうことか」と主張する[7]など、異母兄・実頼と似た生真面目で頑固な面も見られる。
日記に『小一条記』があるが現在は散逸し、『西宮記』等に引用されている逸文が確認できるのみである。
『公卿補任』による。
| 官職 | ||
|---|---|---|
| 先代 源高明 | 左大臣 969 | 次代 藤原在衡 |
| 先代 源高明 | 右大臣 968 - 969 | 次代 藤原在衡 |
| 先代 源高明 | 陸奥出羽按察使 963 - 968 | 次代 藤原師氏 |
| 先代 源高明 | 左近衛大将 969 | 次代 藤原伊尹 |
| 先代 藤原顕忠 | 右近衛大将 957 - 969 | 次代 藤原伊尹 |
| 先代 源高明 | 左衛門督 953 - 957 | 次代 藤原師氏 |
| 先代 源庶明 | 左兵衛督 947 - 953 | 次代 源庶明 |