| 船田 中 ふなだ なか | |
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| 生年月日 | (1895-04-24)1895年4月24日 |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1979-04-12)1979年4月12日(83歳没) |
| 死没地 | (東京医科大学病院) |
| 出身校 | 東京帝国大学法科大学英法科 |
| 前職 | 内務省官僚 船田教育会理事長 作新学院学院長 |
| 所属政党 | (立憲政友会→) (翼賛政治会→) (護国同志会→) (日本協同党→) (無所属→) (自由党→) 自由民主党(大野派→船田派) |
| 称号 | 従二位 衆議院永年在職議員 |
| 配偶者 | 船田澄 |
| 子女 | 長男・船田譲(元参議院議員) |
| 親族 | 義父・元田肇(元衆議院議員) 次弟・船田享二(元衆議院議員) 三弟・藤枝泉介(元衆議院議員) 孫・船田元(衆議院議員) 孫嫁・船田恵(元参議院議員) |
| 在任期間 | 1963年12月7日 -1965年12月20日 1970年1月14日 -1972年11月13日 |
| 天皇 | 昭和天皇 |
| 内閣 | 第3次鳩山内閣 |
| 在任期間 | 1955年11月22日 -1956年12月23日 |
| 選挙区 | (栃木県第1区→) 栃木県第1区 |
| 当選回数 | 15回 |
| 在任期間 | 1930年2月20日 -1945年12月18日 1952年10月1日 -1979年4月12日 |
その他の職歴 | |
総裁:福田赳夫 (1977年11月 -1978年12月) | |
総裁:岸信介 (1959年 -1960年) | |
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船田 中(ふなだ なか、1895年〈明治28年〉4月24日 -1979年〈昭和54年〉4月12日)は、日本の政治家。位階は従二位勲一等、勲章は旭日桐花大綬章。衆議院議員(当選15回)。第51代・56代衆議院議長、自由民主党副総裁等を歴任。
政治家一家として知られた「船田三兄弟」の長兄。衆議院議員で行政管理庁長官をつとめた船田享二は長弟、衆議院議員で運輸大臣や自治大臣などを歴任した藤枝泉介は次弟にあたる。澄夫人は第24代衆議院議長元田肇の五女。参議院議員や栃木県知事をつとめた船田譲は長男で、その長男(孫)の船田元も衆議院議員、その2度目の妻(孫嫁)の畑恵も参議院議員をつめとている。
なお名の「中」は「なか」が正しい読みで、「あたる」は誤読である。
作新学院の設立者・船田兵吾の長男として栃木県宇都宮市に生まれる。船田家は先祖代々神職にかかわった。
旧制一高を経て、1918年(大正7年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業し、内務省に入省する。東京市助役、東京市長代理を経て、1930年(昭和5年)の第17回衆議院議員総選挙に立候補し、当選。以後当選15回。
戦前は立憲政友会に所属し、1931年(昭和6年)には、犬養内閣首相秘書官[1]、1937年(昭和12年)には、第1次近衛内閣の法制局長官に就任する。1940年(昭和15年)、大政翼賛会政策局内政部長をつとめ、1945年(昭和20年)には護国同志会を結成。戦後、日本協同党の結成に参加するが、公職追放を受ける。
1951年(昭和26年)に追放解除となり、翌1952年(昭和27年)、第25回衆議院議員総選挙で自由党から立候補し当選、政界復帰を果たす。1955年(昭和30年)、保守合同に伴い自由民主党に参加。同年、第3次鳩山内閣の防衛庁長官に就任。また、自民党外交調査会長、安全保障調査会長を歴任し、親台湾・大韓民国派、タカ派としての立場を取った。党内派閥では大野伴睦派(白政会、のちの睦政会)に所属するが、大野の死後に派閥は一新会(船田派)と一陽会(村上派)に分裂し、船田は一新会の領袖となった。
第51代・56代の衆議院議長(在任期間:1963年(昭和38年)12月7日 -1965年(昭和40年)12月20日、1970年(昭和45年)1月14日 -1972年(昭和47年)11月13日)。衆議院議長在職日数1780日は日本国憲法下3位である。
1973年4月の春の叙勲で、旭日桐花大綬章を受章する[2]。
1977年(昭和52年)には自民党副総裁に就任した。作新学院理事長も務め、作新学院高校OBの江川卓の後見人として江川事件に介入。自身の政治的発言力を背景に江川の巨人入りを実現させた。世界連邦運動の推進団体である世界連邦日本国会委員会第7代会長であった。
議員在職中の1979年(昭和54年)4月12日、東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した[3]。83歳没。同月14日、特旨を以て位を五級追陞され、正五位から従二位に叙され、銀杯一組が授与された[4]。追悼演説は同年5月10日、衆議院本会議で下平正一により行われた[3]。地盤は孫(船田譲の長男)の船田元が継承し、祖父没後初の選挙となる同年10月7日の第35回衆議院議員総選挙で史上最年少となる25歳で当選している。
没後、船田中の娘を称する女性から認知訴訟をかけられた[5]。
| 議会 | ||
|---|---|---|
| 先代 松田竹千代 清瀬一郎 | 第56代:1970年 - 1972年 第51代:1963年 - 1965年 | 次代 中村梅吉 山口喜久一郎 |
| 先代 西村直己 | 1960年 - 1961年 | 次代 山村新治郎 |
| 先代 八木一郎 | 1952年 - 1953年 | 次代 稲村順三 |
| 公職 | ||
| 先代 砂田重政 | 第5代:1955年 - 1956年 | 次代 小瀧彬 |
| 官職 | ||
| 先代 瀧正雄 | 第37代:1937年 - 1939年 | 次代 黒崎定三 |
| 党職 | ||
| 先代 椎名悦三郎 | 自由民主党副総裁 第6代:1977年 - 1978年 | 次代 西村英一 |
| 先代 中村梅吉 | 自由民主党政務調査会長 第6代:1959年 - 1960年 | 次代 椎名悦三郎 |
| 名誉職 | ||
| 先代 千葉三郎 | 最年長衆議院議員 1976年 - 1979年 | 次代 岸信介 |