この項目では、静岡市清水区の地名について説明しています。"興津"のその他の用法については「興津 (曖昧さ回避) 」をご覧ください。
この記事には
参考文献 や
外部リンク の一覧が含まれていますが、
脚注 による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。
適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上 にご協力ください。(2024年2月 )
歌川広重 『東海道五十三次・興津』興津 (おきつ)は、静岡県 静岡市 清水区 の地名 。この辺りの海辺は、古くから清見潟 と呼ばれ、歌枕 として名を馳せた。
興津という地名は、一説には興津宗像神社 祭神 の1柱・興津島姫命(おきつしまひめのみこと) がこの地に住居を定めたことからといわれている[ 1] [ 2] 。このほかにも平安末期から興津氏が居住していたことに由来するとの説などもある[ 1] 。古代での呼び名は奥津(おくつ)、息津(おきつ)、沖津(おきつ)ともいわれている[ 1] 。現在、興津と呼ばれる区域は1961年 に当時の清水市 と合併した旧興津町 と重なる。絵画や和歌の題材以外にも、かつて清見ヶ関が置かれ、東海道と甲州街道(駿州往還 )が交差することから戦国時代は、清見寺(巨鼇山 求王院 清見興国禅寺)を中心に、覇者掌握砦地、近代も、台風の目、興津詣などと歴史舞台にたびたび登場する。
清見関跡碑 (清見寺内) 井上馨 の興津別邸全景 明治43年撮影古代には、奥津(おくつ)、息津(おきつ)、沖津(おきつ)などと称された[ 1] 。富士山を望む清見潟 は景勝地として知られ、古代には清見関 や息津駅が置かれた[ 3] 。ただし、この息津は現在の興津より西寄りの横砂あたりではないかと言われている[ 3] 。
江戸時代には興津宿として東海道五十三次 の17番目の宿場町 になるとともに甲州街道との交点でもあった[ 1] [ 3] 。譜代大名 や親藩大名 は幕府直轄地の府中宿 に宿泊することが多かったため、煩わしい付き合いを避けたい外様大名 は興津宿を利用したという[ 4] 。
1872年 (明治5年)に宿駅制は廃止された[ 1] 。しかし、鉄道 が開通し、西園寺公望 の坐漁荘など元勲 の別荘 が建設され、避寒地、保養地として知られるようになった[ 1] [ 3] 。
1960年 (昭和35年)に清水港 整備拡充の一環として清水埠頭が建設され、1965年 (昭和40年)に海岸の埋め立てが行われた[ 1] 。その後、1979年 (昭和54年)に静清バイパス が開通したため、直接海に出ることは困難となっている[ 1] 。
古代 680年頃-東北の蝦夷 に備えてこの地に関所 が設けられ、清見関 と呼ばれた。のち関所の鎮護として仏堂が建立され、この仏堂を以って清見寺 の始めと伝えている。 927年-延喜式 が奏進され、その中の諸国駅伝馬条 に息津の駅家 には駅馬 が十匹配されたとある。 鎌倉時代 南北朝時代 から戦国時代 まで江戸時代 1601年-宿駅伝馬制度 により興津宿駅 が制定される(東海道五十三次 の17番目の宿場町 、興津宿)。 1663年-府中に駿府代官所 が置かれ、清見寺・興津・中宿・洞・薩埵・八木間がその支配下となる。承元寺は清見寺 領。 1793年-興津・中宿・洞・八木間が韮山代官所 の支配となる。 最終的に東海道五十三次興津宿の旅籠 は、本陣 ・脇本陣 含めた38軒前後存在した(その後、脇本陣であった水口屋は一新講社で全国的に知られる様になった)。 明治維新 から第二次大戦まで1868年-明治維新により駿府藩 小島御役所が設置されその支配となる。 1872年-大区小区制 が導入される。興津は小区2区に属し、それぞれ戸長と副戸長が置かれる。 三十六区(洞村、薩埵村、承元寺村) 三十八区(中宿町、興津宿、清見寺町、濁沢村、八木間村、谷津村、横山村) 1879年-地方三新法 が施行される。大区小区制が廃止され庵原郡 全部を一郡役所の所管とし、清見寺本堂が仮の役所となる。 1884年-庵原郡役所を新築し(現在はマックスバリュ が位置する)、清見寺本堂から移る。 1889年-東海道線 国府津~静岡間の開通と同時に興津駅 開業。 1889年-町村制 施行により興津宿外八か町村を合併し、興津町 と定める。 1890年-庵原郡役所が江尻に移転する。 興津町役場跡碑(興津宿公園内) 第二次世界大戦 後1947年-地方自治法 施行により興津町が地方公共団体 となる。 1961年-袖師町 、庵原村 、小島村 、両河内村 と共に清水市 と合併する。同年、一碧楼水口屋 (東海道五十三次 興津宿旅籠 脇本陣 水口屋)について書かれた小説『東海道の宿:水口屋ものがたり』[ 5] が米国ベストセラーになる。 1962年-興津埠頭の整備工事が着手され、清見潟の埋め立てが始まる。 1975年-興津地区内の静清バイパス が供用開始。 1979年-駿河製紙の跡地に県営興津団地ができ入居が開始される。 1985年-一碧楼水口屋(東海道五十三次 興津宿旅籠 脇本陣 水口屋)400年の歴史に幕を下ろす。 2004年-坐漁荘 が復元され、興津坐漁荘の名で一般公開される。 2012年-寄贈100周年を記念してアメリカ政府からポトマック河畔の桜の穂木が寄贈され、日本国内で育成された苗木が「里帰り桜」として興津清見潟公園に植栽される(全米桜祭り の元となった外交の桜)。 興津の名の由来である宗像三女神 を祀る。"輪くぐりさん"の名で親しまれている。古くから陸地があり、鎮守の杜 が広がる、船乗りの目印であった(祭神の奥津宮、多霧姫から濃霧がかかる森であったとされる)。オキツシマヒメ (タキリビメ )ノミコトの鎮守の森 から"女体の森"と呼ばれる。海に近いことから参道は、黒松の古木が多数ある。なお、宗像大社 の御神紋は、楢 木である。海の神、道の神。ご利益は、航海安全、大漁、商売繁盛、縁結び、夫婦円満、子宝、技芸上達、金運・財運向上、道開き等。仏教に置き換えると琵琶 を弾く弁財天 であり、坐漁荘 に住んだ西園寺家 も藤原家北家閑院流の琵琶 の家である。 東日本で一番早くアユ 漁を解禁する(5月20日頃)。旧清水市の水源。清水区の水道水。 最後の元老・西園寺公望 の別邸(終いの住処)で、現地にあるのは復元されたもの。オリジナルは博物館明治村 に移築されている。数寄屋造に海を望む芝庭と暖炉がある。なお刺客を逃れるべく隠し扉や鶯張りの廊下がある。政界の台風の目、興津詣で知られた。 清見ヶ関に天台宗 (天台宗総本山比叡山延暦寺系)の寺院として置かれ、鎌倉時代からは、臨済宗 の十刹 。正式名称は、巨鼇山 求王院 清見興国禅寺。きよみでらとも。名前の由来から、古くから海沿いに切り立った山があり、それを清見潟 に寄りかかる蓬萊山 を背負う霊亀 に見立てたと推測できる。「東海名區清見潟 」の由来はここから来たのだとわかる。また、富士山信仰 に三保松原 と共に度々、描かれる。足利尊氏 により臨済宗の官寺、天下十刹 に指定、再興され、再び戦国時代に荒れていた所を庵原氏 と興津氏 を親に持つ太原雪斎 により今川義元 の後援を得て妙心寺派 として再興される。清見寺の鐘楼の音は"東海の覇者の音"として、豊臣秀吉 が陣中に持ち出し戦わずして勝利を収めた話で有名になった(また、鐘楼の音は、謡曲『三井寺 』に登場する)。徳川家康は、今川義元の人質として清見寺の太原雪斎 の元に預けられていた(松平竹千代の手習の間がある)過去から保護され、東海道にある為に、外交の仏閣として重要視される。五百羅漢 、戦乱の世を戒める為に徳川家により作られた血天井 (源頼朝 亡き後の鎌倉幕府 の北条氏 に追われ清見関 で絶命した梶原景時 のものと伝わる)、世界遺産に登録された朝鮮通信使 の遺跡、徳川家康により作庭された日本庭園がある。足利尊氏 、今川義元 、武田信玄 、徳川家康 と名だたる武将により保護を受けた。現在は、JR東海道本線が境内を横切る珍しい風景が見える。 東海道五十三次 興津宿 旅籠 脇本陣 「水口屋 〈みなぐちや〉(一碧楼水口屋)」-水口屋ギャラリー 。江戸時代、武田信玄 の家臣から商人になり東海道五十三次の興津宿の旅籠 として脇本陣 を営む。幕末の旅籠の組合である一新講社で名が知られる。明治時代以降は、宮家や政財界の大物が宿泊に訪れる高級老舗旅館として知られ、東海道の名宿・一碧楼水口屋と称された。スタットラー著、水口屋物語で海外でも知られた。現在は水口屋旅館20代目当主望月半十郎氏の意向により鈴与グループ 7代目当主鈴木与平氏に寄贈され、博物館として保護されている。東海道五十三次 興津宿 旅籠 「岡屋」〈東海道興津宿割烹旅館 岡屋〉(岡屋旅館)-東海道五十三次 の宿場町の、数少ない江戸時代から続く旅籠 (東海道五十三次の最後の旅籠)(一碧楼水口屋の意志を受け継ぐ宿)。名物の興津鯛 が食べられる割烹旅館。芝庭に数寄屋造の会席料理店としても営業を行なっている。耀海寺 -夏心堂があり、お茶壺道中の武士が、容姿(美容)の神様として祀られている。横山城 (駿河国) 主・興津氏の氏寺であり、開祖の興津宿東本陣市川家の菩提寺である。興津波切不動明王 (興津波切不動尊)-大地震による津波の際に御堂から御光が射し、波が割れ興津を守ったと伝わる。また、地元の漁師が大嵐に遭遇し思わず不動尊を念じたところ、不動堂より一条の光明が発せられ光の当たっているところは波が穏やかで、漁師は無事に帰ることができたという。このため、人々を海難から守る「波切不動尊」と崇拝されるようになった。不動の滝が流れる。付近に、茨原神社(庵原神社、石原神社)がある。 理源寺 -"日朝さん"、"意眼さん"と呼ばれる盲目の東海道の旅人の祠があり、目の神様、千里眼 の神様として信仰される。稲荷堂 がある。大銀杏が境内にある。黒はんぺん 、飛竜頭 ("ひりゅうず"、"ひりょうず")と呼ばれ由比から興津川 辺りの当地域で、独特のゴツゴツとした鰯のつみれに根菜類を混ぜて褐色にしっかりと揚げたものである。同地域の内陸型の倉沢鯵 も名産である。桜 -当時の東京市長 からの要請によりワシントンD.C.ポトマック 湖畔へ寄贈され全米桜祭り の元となった日米友好"平和外交の桜"は、興津柑橘試験場(旧農商務省農事試験場園芸部)にて、品種は荒川堤 、代木は伊丹市 より集め作成され、横浜港から送られた。返礼のハナミズキ は静岡市 の花である。また、この桜を顕彰して、毎年2月上旬に"興津宿寒桜まつりが開催されている。静岡茶 (駿河清見)-鎌倉時代 は抹茶の産地であった。 東海道由比宿との間には薩埵峠 や間の宿 の倉沢が位置する[ 6] 。
薩埵峠 - 東部から眺めると寝観音(観音菩薩 ・菩提薩埵 )に見える事から名付けられた。また、網にかかった地蔵菩薩 を安置したことから名付けられた。東海道の要害であった為、薩埵峠の戦い が繰り広げられた。富士山と駿河湾に近代の灯りが美しい絶景スポットである。 倉沢は間の宿であり本陣や脇本陣のほか数軒の茶屋があった[ 6] 。西倉沢のはずれには藤屋(望嶽亭)があり多くの文人墨客が訪れたことでも知られる[ 6] 。藤屋には幕末に駿府会談 へ向かう山岡鉄舟 を匿い、隠し階段から小舟で清水次郎長 の元へ逃した話と共に当時の拳銃が展示されている。 東海道 由比宿 -興津宿 -江尻宿 甲州往還(駿州往還・身延道) 興津宿 -宍原宿 『興津地区年表』 清水市合併20周年記念実行委員会 1981年6月 『興津三十年誌』 興津地区誌編集委員会 1992年3月 『東海道薩埵峠―東と西の出会う道』 建設省静岡国道工事事務所 1994年2月 ウィキメディア・コモンズには、
興津 に関連するカテゴリがあります。