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羿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
嫦娥、月に奔る

羿(げい、拼音: イー)は、中国神話に登場する最大の英雄の一人。后羿(こうげい、拼音:Hòuyì ホウイー)、夷羿(いげい、拼音:Yíyì イーイー)とも呼ばれる。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(じょうが)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙(ほうもう)によって撲殺される、悲劇的な英雄である。

羿の伝説は、『楚辞天問篇に説かれている太陽を射落とした話(射日神話)が知られるほか、その後の時代に活躍した君主である后羿を伝える話(の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、神話学者の袁珂は前者を「大神羿」、後者を「有窮の后羿」と称し分けることもある。数多の漢詩に「后羿射日」[1]が詠まれ、中華圏英語圏での通称は后羿(Hou Yi)である。

説文解字』における漢字「羿」は風に向かって舞い上がる羽を意味し、空中の羽飾りの矢と見なせる[2][3]。一部の原典では羿を弓の発明者と記し、名前自体が弓矢と関わる[4][5]

日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており、『将門記』(石井の夜討ちの場面)[6]や『太平記』(巻22)などに弓の名手であったことや9個あった太陽の内8個を射落としたことが引用されているのがみられる。

神の時代の羿

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羿射九日

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帝夋(東方の天帝)には羲和(日御神)という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子を産んだ。この10体の太陽はそれぞれ金烏に乗せられていて(異説として日輪内の三足烏、或いは陽烏を太陽の精とする[7])普段は極めて巨大な神樹である扶桑もしくは若木の所で生息や入浴をしていた、そして交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負う[8]、この十日を一旬と呼ばれることになる。当番の太陽が天空に上ると、残る9羽の陽烏は下方の幹枝に憩う[9]。時に、天上の陽烏が地上の仙草をこっそり食べたがり、羲和が手でその目を覆い、天体が地面に近づかぬよう保った[10]

殷王朝後期・27個の蕾と9羽の鳥を付した青銅神樹(原型は世界樹の扶桑もしくは若木と推定)

ところが天子である帝堯の時代に、太陽たちが遊びたくて、一遍に現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう、天界から神射手である羿を降ろした。帝夋は羿に彤弓(朱塗りの弓)と素矰(白羽の矢)を与えた[11]。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを、元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで、1つだけ残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[12]

落日の後、太陽の残骸は東海の最果てに墜ち、縦・横・高さ四万里の山石と化し、沃焦(よくしょう)あるいは尾閭(びりょ)と呼ばれたと伝えられる[13]。この焦熱の巨岩は絶えず百川の水を吸収し蒸発させるため、海は増水しても満溢することがない。

神魔討伐

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射日の事跡以外にも、羿は人間界の各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの凶獣(鑿歯九嬰窫窳大風修蛇封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた[14]

そのうち、凶水という川で、羿は火と水の能力を持つ他は全く正体不明の怪物・九嬰を殺した[15]。九嬰は9つの幼子の姿とされる説と、九日[16](9人の太陽神)が凶暴化した姿とする説が存在する[17]。また、窫窳は元来は蛇身人面の善神であったが、崑崙の弱水で死して蘇った後、龍頭の食人悪獣・猰貐(あつゆ)へと変わり、これより羿に誅された[18]

羿、巴蛇を射る(湖南省岳陽市巴陵広場の塑像

悪神の中、青丘の沢で民の家屋を破壊する暴風の神・風伯(前述の怪鳥・大風と同一視される)の膝を射抜いた以外に、羿は民を溺死させる黄河の神・河伯(白龍に化身した姿)の目を射抜いた[19]。河伯は天帝に訴え出たが、天帝は「汝が神霊の本分を守らず獣に変化した以上、射られるのは当然」として羿の無罪を認めた[20]

洞庭という湖で、羿はを吞み込む大蛇・巴蛇修蛇と同一視される)を射殺し、その骸骨が積み重なって巴陵・巴丘となった[21]。後に羿が巴山で狩猟中、のような巨兎を捕獲したが、途中で籠から逃げ出した。実は巨兎は巴山の神・鵷扶君(えんふくん)であり、この恥辱に報復するため、「羿の弟子の手を借りて彼を殺す」と誓った[22]

さらに、桑林という森で、羿は神獣である魔猪・封豨伯封と同一視される)を討ち、その肉を蒸し料理として天帝に供物を捧げた。しかし、天帝である帝夋は喜ばれなかった。これは羿の所業に対する不満によるものと考えられる[23]

不老不死の薬

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自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり[14]、羿と妻の嫦娥じょうがを神籍から外したため、彼らは不老不死ではなくなってしまった。羿は万仭の崖を登り崑崙山の西に住む、非業の死と永遠の命を司るの女神・西王母を訪ね、不老不死の仙薬をもらって帰ったが、嫦娥は薬を独り占めにして飲んでしまう。嫦娥は羿を置いて逃げるが、天に行くことを躊躇して広寒宮)へしばらく身をひそめることにする。そして、羿を裏切ったむくいで体は蟾蜍(ヒキガエル)になってしまい、そのまま月で過ごすことになったと言う説もある[24][25]嫦娥奔月の項も参考)。この伝説は、中秋節八月十五夜)の由来の一つである。

なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩(正月十五夜)に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある[26]

逢蒙殺羿

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その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、弟子兼家僕である逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技をすべて吸収した後、「羿を殺してしまえば僕が天下一の弓の達人だ」と考え、桃棓(桃の木の棒)で羿を打ち殺したと言われる。このように身内に裏切られることは「羿を殺すものは逢蒙(逢蒙殺羿[27])」として語り継がれるようになった[28]。桃に死した羿と、剣に死した剣士慶忌、弁舌に死した論客蘇秦は、人が自らの長所を信じたがゆえに、熟知した物事によって破滅を招く例とされる[29]

この事件が、桃の木が邪気を払う力を持つという中国の民間信仰の起源となった。(死霊)でさえも恐れる英雄・羿でさえ桃の木に敗れたことから、すべての鬼は桃を恐れるようになったとされる[30][31]

宗布神の転化

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羿の死後、民衆は彼が生前に世界の害を除いたため、冥界の宗布神(そうふしん)として奉った[32]。宗布神は万鬼を統率し監督する役割を担い、祠堂に置かれた桃の木の像として祀られ、悪鬼を退治すると信じられた[33]。その宗布は『周礼』にを受けるの禜酺(ようふ)と同一視され、旱災水災人災を祓う神様である[34]

淮南子』において、宗布神の羿は竃神炎帝社神稷神后稷と共に、天下に功績のある聖人として鬼神の列に並んでいる[35]。また、漢王朝の占卜書『易林』には、凶星の天狼星を羿が射貫くよう民衆が祈願する詩が記されており、これは魔除け神性の顕れである[36]

夏の時代の羿

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別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『春秋左氏伝』などにあるもので王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている[37]。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある[38]白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。

異常出生譚

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后羿は鉏(現在の河南省滑県[39])の地の豪族・有窮氏の出身であり、窮国の諸侯の一族であった。有偃氏であり皋陶の末裔であるという伝承や、有鬲氏の出身であるとする説などがあるが詳細は不明である[注釈 1]

生まれつき、后羿は左腕が右腕より長く、生来の射術の達人であった。子供の頃に、羿は両親に連れられ薬草採りで山に入り、の止む木の下に置き去りにされた。戻って探した両親は、森の蝉が一斉に鳴いたため羿を発見できなかった。その後、彼は山間の森羅万象に養われて成長した[40]

山中で、后羿は楚弧父もしくは楚狐父(そこほ)(『帝王世紀』では吉甫)という狩人によって保護された。楚弧父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった呉賀(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。

伝承によれば、后羿が二十歳で成人した時、天を仰ぎ嘆く「四方に放った矢は必ず我が門に届く」と。矢は地面すれすれに飛び、果たして羿の家の門に届いた。羿は矢の軌跡を辿って帰還した[41]

夏王朝の僭主

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太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。射猟に没頭する太康は、臣下に巨猪の皮で作られた的を射るよう命じ、后羿はこの試合で頭角を現した。ある時、太康が洛水の北岸に赴き、十も都へ帰還しなかったため、夏王朝は混乱に陥った[42]

后羿は、武羅などの臣と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南[43])を都として諸侯を支配下に置くこととなる。

一説には、羿は夏の民のために暗君・太康を倒し[44]、「帝夷羿」と自称して中国史上最古の王位簒奪者となった。別の記録では、羿は夏の王権を取代せず、権臣として朝政を掌握し続けたとされている。

羲和討伐

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仲康(夏の第4代帝)の5年、日食が発生した[45]。太陽観測を司る官・羲和は職務を放棄し、天体の運行を把握できなかったため、法は混乱に陥った。胤の君主・胤侯(いんこう)は王命を受け、大軍を率いて羲和を討伐に向かった[46]。この『仲康日食』は予測不能であったが、世界最古の日食記録とされる。

宋王朝の文豪・蘇軾は、『春秋左氏伝』『史記』などの記事にもとづき、羲和討伐の一件を次のように解する。仲康の当時は、后羿が専権をふるっており、羲和が「湎淫」していたというのは、羿への反抗であった。羿は仲康の命令という名目を借りて、みずからに反抗する羲和を、胤侯に討たせたのである[47]。異説には、后羿と胤侯は同一人物であったとされる。

封狐と純狐

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当時、音楽を司る官・には伯封封豨もしくは封狐とも表記され)という子がおり、巨猪の心を持ち横暴であったと伝えられる。羿は伯封を討ち果たし、夔の祭祀を絶った。

その後の羿は、伯封の母である玄妻純狐とも表記され)を娶り[48][49]寒浞かんさくという奸臣を重用し、武羅などの忠臣をしりぞけ、政治を省みずに狩猟に熱中するようになり、暗君となった。玄妻は息子の復讐のため、寒浞と共に陰謀を巡らせ羿を裏切った。

寒浞殺羿

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最後は玄妻と寒浞によって相王(夏の第5代帝)の8年に后羿を殺されてしまった。寒浞は桃梧(とうご)という地で羿を処刑し、その遺体を烹に処した。

『春秋左氏伝』によれば、后羿は窮門へ逃げ帰ったが、家僕に裏切られ、家の農田で烹殺された。この家僕は、前述の羿の弟子・逢蒙と同一人物と見做される。

射日神話の変体

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漢籍においては、射日神話の異文が存在する。例えば『論衡』では羿の助力なく帝堯自らが9体の太陽を射落とし[50]、『路史』では同じく英雄神である女媧が10体の太陽を射落としたとされる[51]。また、中世日本の説話集『今昔物語集』にも、春秋時代の弓の名手・養由基が10個の太陽のうち9つを射落とした逸話が収録されている[52]

樹下射猟図(山東省済寧市微山県の画像石拓本

中華圏では、漢民族の神話の影響を受け、少数民族にも類似の射日神話が伝承されている。これにはリー族プーラン族チワン族ホジェン族モンゴル族ミャオ族スイ族イ族アチャン族トゥチャ族ローバ族トーロン族タイヤル族ブヌン族などが含まれる。しかし、伝説において射貫かれた天体の数には差異が見られる。例えば海南リー族神話では7つの太陽と7つの月が登場し、それぞれ6つずつ射落とされたとされ[53]台湾ブヌン族神話では2つの太陽のうち射抜かれた1つが白い月輪へと変化したと伝えられる[54]

なお、日本にも一部の射日神話の残存が見られる。岡山市の民話では天邪鬼(あまんじゃく)が7つの太陽のうち6つを射落としたとされ[55]狭山市の民話では天子が派遣した弓の名人が2つの太陽のうち1つを射抜き、落下した太陽は白い三足烏へと変化したと伝えられている[56]

脚注

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注釈

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  1. ^『路史』夷羿伝「夷羿有窮氏、窮國之侯也。偃以女偃出皋陶。或云姓鬲。非也。『世紀』云、不聞其姓失之。」

出典

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  1. ^梅堯臣『日蝕』「吾意髣髴料此鳥、定亦閃避離日宮。安逢后羿不乖暴、直與審愨彎強弓」銭謙益『放歌行贈櫟園道人遊武夷』「共工觸頭折天柱、后羿矯矢摧陽烏」查慎行『棗東書屋大雨聯句』「補天潛女媧、射日恣后羿」
  2. ^説文解字』「羿、羽之幵风」
  3. ^釈名』釈兵「矢、其旁曰羽、如鳥羽也。鳥須羽而飛、矢須羽而前也」
  4. ^墨子』「古者羿作弓、伃作甲、奚仲作車、巧垂作舟」
  5. ^呂氏春秋』「大橈作甲子、黔如作虜首、容成作厤、羲和作占日、尚儀作占月、后益作占歲、胡曹作衣、夷羿作弓、祝融作市、儀狄作酒、高元作室、虞姁作舟、伯益作井、赤冀作臼、乘雅作駕、寒哀作御、王冰作服牛、史皇作圖、巫彭作醫、巫咸作筮、此二十官者,聖人之所以治天下也」
  6. ^梶原昭路 校注 『将門記』平凡社東洋文庫> 1975年 227-228頁
  7. ^『春秋元命苞』「日有三足烏者、陽精、其僂呼也」
  8. ^袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社1993年 289-296頁
  9. ^袁珂『中國古代神話』中華書局、1960年、173-174頁。 
  10. ^『洞冥記』「三足烏數下地食此草、羲和欲馭、以手掩烏目、不聽下也。食草能不老、他鳥獸食此草則美悶不能動矣」
  11. ^山海経』広注 巻十八「帝夋賜羿彤弓素矰」郭璞云:「彤弓、朱弓。矰、矢名、以白羽羽之。外伝:『白羽之矰、望之如荼』也」
  12. ^松村武雄 編 『中国神話伝説集』社会思想社現代教養文庫> 1976年 15頁
  13. ^袁珂『中國神話通論』巴蜀書社、1993年、224-225頁。 
  14. ^ab袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 298-302頁
  15. ^淮南子』高誘注「九嬰、水火之怪、為人害、北狄之地有凶水」
  16. ^山海経』海外西経 吳任臣注「扶桑后君生十子、皆以日名、号十日。而九日為凶、号九嬰、分扶桑之國為十」
  17. ^袁珂、周明 編『中国神話資料萃編』四川省社會科學出版社、1985年、211頁。 
  18. ^袁珂『中國古代神話』中華書局、1960年、180-181頁。 
  19. ^淮南子』高誘注「河伯溺殺人、羿射其左目。風伯壞人屋室、羿射中其膝」
  20. ^楚辞』天問 王逸注「河伯化為白龍、遊於水旁、羿見射之、眇其左目。河伯上訴天帝、曰:為我殺羿。天帝曰:爾何故得見射?河伯曰:我時化為白龍出遊。天帝曰:使汝深守神靈、羿何從得犯?汝今為蟲獸、當為人所射、固其宜也。羿何罪歟?」
  21. ^巴陵山 - 『中國古今地名大辭典』データベース:睡人亭” (2013年12月31日). 2025年10月26日閲覧。
  22. ^《說郛》卷三十一「羿獵於巴山、獲一兔、大如驢、異之、置柙中。中途失去、柙掩如故。羿夜夢一人、冠服如王者、謂羿曰:我鵷扶君、為此土之神、而何辱我?我將假手於逢蒙」
  23. ^楚辞』天問「馮珧利決、封豨是射、何獻蒸肉之膏而后帝不若?」王逸云:「封稀、神獸也。言羿不修道德、而挾弓射韝、獵捕神獸、以快其情也。后帝、天帝也。若、順也。言羿獵射封豨、以其肉膏祭天帝、天帝猶不順羿之所為也」
  24. ^袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 314-320頁
  25. ^松村武雄 編 『中国神話伝説集』 社会思想社<現代教養文庫> 1976年 17頁
  26. ^『說郛』引『三餘帖』「嫦娥奔月之後、羿晝夜思惟成疾。正月十四夜忽有童子詣宮、曰:臣、夫人之使也。夫人知君懷思、無從得降、明日乃月圓之候、君宜用米粉作丸、團團如月、置室西北方,叫夫人之名、三夕可降耳。如期果降、復為夫婦如初」
  27. ^孟子』「逢蒙殺羿、羿也有過」
  28. ^袁珂 著、鈴木博 訳『中国の神話伝説』上、青土社、1993年 322-325頁
  29. ^淮南子』「王子慶忌死於劍、羿死於桃棓、子路菹於衛、蘇秦死於口。人莫不貴其所有、而賤其所短、然而皆溺其所貴、而極其所賤」
  30. ^淮南子』許慎注「棓、大杖、以桃木為之、以擊殺羿、由是以來鬼畏桃」
  31. ^袁珂『中國古代神話』中華書局、1960年、205-206頁。 
  32. ^3325汉字网. “宗布的意思” (中国語). 3325汉字网. 2025年10月2日閲覧。
  33. ^https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=211928&searchu=%E5%AF%99” (中国語). ctext.org. 2025年10月2日閲覧。
  34. ^周礼』鄭玄注「禜謂雩禜、水旱之神、酺者為人物災害之神也」
  35. ^淮南子』「此聖人所以重仁襲恩。故炎帝於火、死而為竃。禹勞天下、死為社。后稷作稼穡、而死為稷。羿除天下之害、死而為宗布。此鬼神之所以立」
  36. ^『易林』「羿張烏号、彀射天狼」
  37. ^市村瓚次郎 『東洋史統』1巻冨山房1940年 50頁
  38. ^内藤虎次郎 『支那上古史』 弘文堂書籍1944年 66-67頁
  39. ^李玉潔『中国早期国家性质』(河南大學出版社、1999年10月)
  40. ^『路史』夷羿伝「左臂脩而善射、五嵗得法于山中」引『括地象』「羿五嵗、父母與之入山、處之木下、以待蟬鳴。還欲取之、而羣蝉俱鳴、遂捐而去。羿為山間所飬」
  41. ^『路史』夷羿伝 引『括地象』「年二十、習于弓矢、仰天嘆曰:我將射四方、矢至吾門止。因捍即射、矢靡地截草、徑至羿之門。乃隨矢去」
  42. ^『路史』夷羿伝「太康之立、滔滛亡度、娛以自縱、民興胥亂。迷畋有洛之表、十旬不反」
  43. ^錢穆『史记地名考』(商務印書館、2001年7月)
  44. ^春秋左氏伝』「有夏之方衰也、后羿自遷於窮石、因夏民以待夏政」
  45. ^竹書紀年』「帝仲康五年秋、九月庚戌朔、日有食之。命胤侯帥師征羲和」
  46. ^『尚書』「惟仲康肇位四海。胤侯命掌六師。羲和廢厥職、酒荒于厥邑。胤后承王命徂征」
  47. ^新田元規 (2015). “蘇軾の「吉服即位非礼」説とその周辺 ―― 『尚書』顧命篇の解釈と即位儀礼をめぐって”. 人間社会文化研究 (徳島大学総合科学部) 23: 1-29. 
  48. ^春秋左氏伝昭公二十八年「昔有仍氏生女、黰黒而甚美、光可以鑑。名曰玄妻。楽正后夔取之、生伯封。実有豕心、貪惏無饜、忿纇無期、謂之封豕。有窮后羿滅之、夔是以不祀」
  49. ^楚辞』天問「浞娶純狐、眩妻爰謀、何羿之射革、而交呑揆之」
  50. ^論衡』「儒者傳書言:堯之時、十日並出、萬物焦枯。堯上射十日、九日去、一日常出」
  51. ^『路史』注引『尹子·盤古篇』「女媧補天、射十日」
  52. ^『今昔物語集』巻第十 第十六話「養由天現十日時射落九日語」
  53. ^萬梓豪、曾梓維 (2005). “中外射日英雄神話淺論”. 神話與文學論文選輯 2004-2005 (嶺南大學): 54-61. http://commons.ln.edu.hk/chin_proj_2/4. 
  54. ^李福清『神話與鬼話∶台灣原住民神話故事比較研究』社會科學文獻出版社、2001年、119-156頁。 
  55. ^土井卓治 (1980). “郷土研究の思い出”. 岡山民俗 (岡山民俗学会) (36): 6-7. 
  56. ^射留魔地名伝説”. www.city.sayama.saitama.jp. 2025年11月8日閲覧。

関連項目

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  • 嫦娥
  • 玄妻
  • 相 (夏)
  • 少康 (夏)
  • グミヤー
  • 貔貅
  • 天狗 (中国) - 月と太陽を食べて日食と月食を起こす、9つの太陽を撃ち落とした羿の飼ってた猟犬。嫦娥の残した薬を舐めて巨大化・狂暴化し嫦娥を追いかけて天に上った。日食と月食を止めさせるため地上では爆竹や銅鑼や太鼓を打ち鳴らすこととしている。
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  • 西方七宝金門皓霊皇老七炁天君(白帝)
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六司
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  • 南斗第三天梁延寿保命真君
  • 南斗第四天同益筭保生真君
  • 南斗第五天枢度厄文昌錬魂真君
  • 南斗第六天機上生監簿大理真君
七元
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  • 北斗第三天璣宮真人禄存真星君
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  • 北斗第五玉衡宮丹元廉貞綱星君
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  • 北斗第七瑶光宮天衝破軍關星君
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  • 広潤王(西海竜王)
  • 広沢王(北海竜王)
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  • 中岳嵩山中天崇聖大帝
  • 西岳華山金天順聖大帝
  • 南岳衡山司天昭聖大帝
  • 北岳恒山安天玄聖大帝
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