
羿(げい、拼音:Yì イー)は、中国神話に登場する最大の英雄の一人。后羿(こうげい、拼音:Hòuyì ホウイー)、夷羿(いげい、拼音:Yíyì イーイー)とも呼ばれる。弓の名手として活躍したが、妻の嫦娥(じょうが)に裏切られ、最後は弟子の逢蒙(ほうもう)によって撲殺される、悲劇的な英雄である。
羿の伝説は、『楚辞』天問篇に説かれている太陽を射落とした話(射日神話)が知られるほか、その後の時代に活躍した君主である后羿を伝える話(夏の時代の羿の項)も存在している。名称が同じであるため、神話学者の袁珂は前者を「大神羿」、後者を「有窮の后羿」と称し分けることもある。数多の漢詩に「后羿射日」[1]が詠まれ、中華圏と英語圏での通称は后羿(Hou Yi)である。
『説文解字』における漢字「羿」は風に向かって舞い上がる羽を意味し、空中の羽飾りの矢と見なせる[2][3]。一部の原典では羿を弓の発明者と記し、名前自体が弓矢と関わる[4][5]。
日本でも古くから漢籍を通じてその話は読まれており、『将門記』(石井の夜討ちの場面)[6]や『太平記』(巻22)などに弓の名手であったことや9個あった太陽の内8個を射落としたことが引用されているのがみられる。
帝夋(東方の天帝)には羲和(日御神)という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子を産んだ。この10体の太陽はそれぞれ金烏に乗せられていて(異説として日輪内の三足烏、或いは陽烏を太陽の精とする[7])普段は極めて巨大な神樹である扶桑もしくは若木の所で生息や入浴をしていた、そして交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負う[8]、この十日を一旬と呼ばれることになる。当番の太陽が天空に上ると、残る9羽の陽烏は下方の幹枝に憩う[9]。時に、天上の陽烏が地上の仙草をこっそり食べたがり、羲和が手でその目を覆い、天体が地面に近づかぬよう保った[10]。

ところが天子である帝堯の時代に、太陽たちが遊びたくて、一遍に現れるようになった。地上は灼熱地獄のような有様となり、作物も全て枯れてしまった。このことに困惑した帝堯に対して、天帝である帝夋はその解決の助けとなるよう、天界から神射手である羿を降ろした。帝夋は羿に彤弓(朱塗りの弓)と素矰(白羽の矢)を与えた[11]。羿は、帝堯を助け、初めは威嚇によって太陽たちを、元のように交代で出てくるようにしようとしたが効果がなかった。そこで、1つだけ残して9の太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻したとされる[12]。
落日の後、太陽の残骸は東海の最果てに墜ち、縦・横・高さ四万里の山石と化し、沃焦(よくしょう)あるいは尾閭(びりょ)と呼ばれたと伝えられる[13]。この焦熱の巨岩は絶えず百川の水を吸収し蒸発させるため、海は増水しても満溢することがない。
射日の事跡以外にも、羿は人間界の各地で人々の生活をおびやかしていた数多くの凶獣(鑿歯・九嬰・窫窳・大風・修蛇・封豨)を退治し、人々にその偉業を称えられた[14]。
そのうち、凶水という川で、羿は火と水の能力を持つ他は全く正体不明の怪物・九嬰を殺した[15]。九嬰は9つの幼子の姿とされる説と、九日[16](9人の太陽神)が凶暴化した姿とする説が存在する[17]。また、窫窳は元来は蛇身人面の善神であったが、崑崙の弱水で死して蘇った後、龍頭の食人悪獣・猰貐(あつゆ)へと変わり、これより羿に誅された[18]。

悪神の中、青丘の沢で民の家屋を破壊する暴風の神・風伯(前述の怪鳥・大風と同一視される)の膝を射抜いた以外に、羿は民を溺死させる黄河の神・河伯(白龍に化身した姿)の目を射抜いた[19]。河伯は天帝に訴え出たが、天帝は「汝が神霊の本分を守らず獣に変化した以上、射られるのは当然」として羿の無罪を認めた[20]。
洞庭という湖で、羿は象を吞み込む大蛇・巴蛇(修蛇と同一視される)を射殺し、その骸骨が積み重なって巴陵・巴丘となった[21]。後に羿が巴山で狩猟中、驢のような巨兎を捕獲したが、途中で籠から逃げ出した。実は巨兎は巴山の神・鵷扶君(えんふくん)であり、この恥辱に報復するため、「羿の弟子の手を借りて彼を殺す」と誓った[22]。
さらに、桑林という森で、羿は神獣である魔猪・封豨(伯封と同一視される)を討ち、その肉を蒸し料理として天帝に供物を捧げた。しかし、天帝である帝夋は喜ばれなかった。これは羿の所業に対する不満によるものと考えられる[23]。
自らの子(太陽たち)を殺された帝夋は羿を疎ましく思うようになり[14]、羿と妻の
なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩(正月十五夜)に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった」という話が付け加えられることもある[26]。
その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、弟子兼家僕である逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技をすべて吸収した後、「羿を殺してしまえば僕が天下一の弓の達人だ」と考え、桃棓(桃の木の棒)で羿を打ち殺したと言われる。このように身内に裏切られることは「羿を殺すものは逢蒙(逢蒙殺羿[27])」として語り継がれるようになった[28]。桃に死した羿と、剣に死した剣士・慶忌、弁舌に死した論客・蘇秦は、人が自らの長所を信じたがゆえに、熟知した物事によって破滅を招く例とされる[29]。
この事件が、桃の木が邪気を払う力を持つという中国の民間信仰の起源となった。鬼(死霊)でさえも恐れる英雄・羿でさえ桃の木に敗れたことから、すべての鬼は桃を恐れるようになったとされる[30][31]。
羿の死後、民衆は彼が生前に世界の害を除いたため、冥界の宗布神(そうふしん)として奉った[32]。宗布神は万鬼を統率し監督する役割を担い、祠堂に置かれた桃の木の像として祀られ、悪鬼を退治すると信じられた[33]。その宗布は『周礼』に贄を受けるの禜酺(ようふ)と同一視され、旱災・水災・人災を祓う神様である[34]。
『淮南子』において、宗布神の羿は竃神の炎帝・社神の禹・稷神の后稷と共に、天下に功績のある聖人として鬼神の列に並んでいる[35]。また、漢王朝の占卜書『易林』には、凶星の天狼星を羿が射貫くよう民衆が祈願する籤詩が記されており、これは魔除け神性の顕れである[36]。
別に伝えられているのは、『路史』夷羿伝や『春秋左氏伝』などにあるもので夏王朝を一時的に滅ぼしたという伝説である。こちらの伝説ではおもに后羿(こうげい)という呼称が用いられている[37]。堯と夏それぞれの時代を背景にもつ2つの伝説にどういった関わりがあるのかは解明されていない部分がある[38]。白川静は、後者の伝説は羿を奉ずる部族が、夏王朝から領土を奪ったことを示しているとしている。
后羿は鉏(現在の河南省滑県[39])の地の豪族・有窮氏の出身であり、窮国の諸侯の一族であった。有偃氏であり皋陶の末裔であるという伝承や、有鬲氏の出身であるとする説などがあるが詳細は不明である[注釈 1]。
生まれつき、后羿は左腕が右腕より長く、生来の射術の達人であった。子供の頃に、羿は両親に連れられ薬草採りで山に入り、蝉の止む木の下に置き去りにされた。戻って探した両親は、森の蝉が一斉に鳴いたため羿を発見できなかった。その後、彼は山間の森羅万象に養われて成長した[40]。
山中で、后羿は楚弧父もしくは楚狐父(そこほ)(『帝王世紀』では吉甫)という狩人によって保護された。楚弧父が病死するまで育てられ、その間に弓の使い方を習熟した。その後、弓の名手であった呉賀(ごが)からも技術を学び取り、その弓の腕をつかって羿は勢力を拡大していったとされる。
伝承によれば、后羿が二十歳で成人した時、天を仰ぎ嘆く「四方に放った矢は必ず我が門に届く」と。矢は地面すれすれに飛び、果たして羿の家の門に届いた。羿は矢の軌跡を辿って帰還した[41]。
太康(夏の第3代帝)の治世、太康は政治を省みずに狩猟に熱中していた。射猟に没頭する太康は、臣下に巨猪の皮で作られた的を射るよう命じ、后羿はこの試合で頭角を現した。ある時、太康が洛水の北岸に赴き、十旬も都へ帰還しなかったため、夏王朝は混乱に陥った[42]。
后羿は、武羅などの臣と一緒に、夏に対して反乱を起こし、太康を放逐して夏王朝の領土を奪った。羿は王として立ち、窮石(現在の河南省洛陽の南[43])を都として諸侯を支配下に置くこととなる。
一説には、羿は夏の民のために暗君・太康を倒し[44]、「帝夷羿」と自称して中国史上最古の王位簒奪者となった。別の記録では、羿は夏の王権を取代せず、権臣として朝政を掌握し続けたとされている。
仲康(夏の第4代帝)の5年、日食が発生した[45]。太陽観測を司る官・羲和は職務を放棄し、天体の運行を把握できなかったため、暦法は混乱に陥った。胤の君主・胤侯(いんこう)は王命を受け、大軍を率いて羲和を討伐に向かった[46]。この『仲康日食』は予測不能であったが、世界最古の日食記録とされる。
宋王朝の文豪・蘇軾は、『春秋左氏伝』『史記』などの記事にもとづき、羲和討伐の一件を次のように解する。仲康の当時は、后羿が専権をふるっており、羲和が「湎淫」していたというのは、羿への反抗であった。羿は仲康の命令という名目を借りて、みずからに反抗する羲和を、胤侯に討たせたのである[47]。異説には、后羿と胤侯は同一人物であったとされる。
当時、音楽を司る官・夔には伯封(封豨もしくは封狐とも表記され)という子がおり、巨猪の心を持ち横暴であったと伝えられる。羿は伯封を討ち果たし、夔の祭祀を絶った。
その後の羿は、伯封の母である玄妻(純狐とも表記され)を娶り[48][49]、
最後は玄妻と寒浞によって相王(夏の第5代帝)の8年に后羿を殺されてしまった。寒浞は桃梧(とうご)という地で羿を処刑し、その遺体を烹に処した。
『春秋左氏伝』によれば、后羿は窮門へ逃げ帰ったが、家僕に裏切られ、家の農田で烹殺された。この家僕は、前述の羿の弟子・逢蒙と同一人物と見做される。
漢籍においては、射日神話の異文が存在する。例えば『論衡』では羿の助力なく帝堯自らが9体の太陽を射落とし[50]、『路史』では同じく英雄神である女媧が10体の太陽を射落としたとされる[51]。また、中世日本の説話集『今昔物語集』にも、春秋時代の弓の名手・養由基が10個の太陽のうち9つを射落とした逸話が収録されている[52]。

中華圏では、漢民族の神話の影響を受け、少数民族にも類似の射日神話が伝承されている。これにはリー族、プーラン族、チワン族、ホジェン族、モンゴル族、ミャオ族、スイ族、イ族、アチャン族、トゥチャ族、ローバ族、トーロン族、タイヤル族、ブヌン族などが含まれる。しかし、伝説において射貫かれた天体の数には差異が見られる。例えば海南のリー族神話では7つの太陽と7つの月が登場し、それぞれ6つずつ射落とされたとされ[53]、台湾のブヌン族神話では2つの太陽のうち射抜かれた1つが白い月輪へと変化したと伝えられる[54]。
なお、日本にも一部の射日神話の残存が見られる。岡山市の民話では天邪鬼(あまんじゃく)が7つの太陽のうち6つを射落としたとされ[55]、狭山市の民話では天子が派遣した弓の名人が2つの太陽のうち1つを射抜き、落下した太陽は白い三足烏へと変化したと伝えられている[56]。
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