ほそかわ ガラシャ 細川 ガラシャ | |
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小林清親『今古誠画 浮世画類考之内 慶長五年之頃』1885年 | |
| 生誕 | 永禄6年(1563年) |
| 死没 | 慶長5年7月17日(1600年8月25日) |
| 別名 | 秀林院 |
| 活動期間 | 戦国時代→安土桃山時代 |
| 影響を与えたもの | グレゴリオ・デ・セスペデス |
| 配偶者 | 細川忠興(三斎) |
| 子供 | 忠隆、長、興秋、忠利、多羅 |
| 親 | 父:明智光秀 母:妻木煕子 |
| 親戚 | 細川藤孝(幽斎)(舅) |
| 署名 | |
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| ガラシャ | |
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| 教会 | カトリック教会(キリシタン) |
| 洗礼名 | ガラシャ |
| 受洗日 | 1587年 |
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細川 ガラシャ(伽羅奢[1]、Gracia[2])(ほそかわ ガラシャ、永禄6年〈1563年〉 -慶長5年7月17日〈1600年8月25日〉)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の娘で細川忠興の正室。実名は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教徒(キリシタン)であり、ガラシャは洗礼名。
子に、忠隆・長(ちょう:前野景定正室)・興秋・忠利・多羅(たら:稲葉一通室)の三男二女がいる。
明智玉(子)が本名である[3][4]とされることもあるが、当時の日本では現代や古代と異なり統一的な戸籍が編成されないため、本名(=戸籍名)なる概念は存在しない[5](実名=諱とは異なる)。また古代以来の実名呼称回避の習俗の中で、若い女性が実名を名乗る場面は極めて限定される[6]。特に○子型の諱は、当時の社会通念上女性が叙位・任官の時に対朝廷の名乗りとして使われるにすぎず(その場合は本姓との組み合わせになる)、出生名に使うことは無い[7]。名字(苗字、氏)+実名=本名という名前の枠組みは近代の産物に過ぎず[8]、苗字+○子式の女性名が歴史上出現するのは江戸時代後期、本名(=戸籍名)としての公的地位を得るのは明治4年(1871年)、出生名として一般化するのは明治中期以降である[9]。
本人の署名は「た[10]」の一字[11]のほか、小侍従宛の手紙では「か」と署名したとおぼしき一通や、夫宛に「からしや」と明記した一通があることから、親しい間柄の人物であれば相手がキリシタンでない夫であっても、彼女自身が洗礼名を自称として用いていたことが確認できる[12]。また細川家の家譜類には「伽羅奢様」と見え、周囲からもそのように呼ばれていた可能性がある[12]。
しかし江戸時代には洗礼名のガラシャはほとんど使われず、「明智女」「細川忠興室(妻)」と表記されることが普通だった[13]。日本においてガラシャの名が広まるのは『中央史壇』1921年10月号で西村真次が「細川ガラシヤ(Gratia)の日本名は知られてゐないので、昔からたゞ『忠興夫人』とのみ呼ばれている」としているように、1920年代以降のことである[14]。
当時のクリスチャンが名字+洗礼名で宣教師の資料に記載されていることを根拠に、クリスチャンとしては「細川ガラシャ」を称したと解する学者もいる[15]。しかし、夫の細川忠興は、織豊政権下では長岡越中守や羽柴丹後侍従などを名乗り、細川に改称するのは関が原以降(妻の死後)である[16]ため、ガラシャとの婚姻から彼女の死去までの期間は「細川」を名乗っていない[12]。したがって仮に当時の公家社会にみられた夫婦同名字に則っていたと仮定した場合「長岡ガラシャ」になる[12]。「明智ガラシヤ[17]」表記が採られることもあるが、明智光秀も天正3年(1575年)以降「惟任日向守光秀」を名乗っていた[18]。
以下ではキリスト教へ改宗する以前の期間も含め、便宜上ガラシャの呼称で統一して記述する。
のちに足利義昭や織田信長に仕えることとなる武将・明智光秀の娘として生誕[19]。生年は永禄6年(1563年)とされる[19][20][注釈 1]。生誕地は越前国(福井県)とされることが多く、候補として松平吉邦が編纂させた『城跡考』で光秀の屋敷があったとされる福井市東大味(現在明智神社が所在する)や、『遊行三十一祖京畿御修行記』に光秀が十ヶ年居住したとある称念寺(坂井市)門前が挙げられる[20]。もっとも光秀が越前を離れ室町幕府に仕えるようになった時期ははっきりしていないため、京都生まれである可能性も否定できない[20]。
母は妻木煕子とされる[19][21][注釈 2]。光秀の妻は天正4年(1576年)に病となり[注釈 3]、11月7日に死去している[注釈 4]ことから、ガラシャは嫁入り前の若い頃に母を亡くしていたと考えられる[21]。
姉妹に荒木村次の妻(のち明智秀満の妻)と津田信澄の妻が確認でき、2人の婚姻はガラシャよりも早いため、2人が姉であると考えられる[22]。兄弟は少なくとも2人が確認でき[注釈 5]、いずれもガラシャの弟であったとみられる[注釈 6][23]。
ガラシャがどこで育ったのかははっきりしないが、光秀は永禄13年(1570年)に京都を居所としていることが確認できるため[注釈 7]、このころにはガラシャを含む家族も京都に住んでいた可能性がある[24]。また元亀2年(1571年)に近江国志賀郡を与えられた光秀は坂本城を築いているため、ガラシャも坂本城へ移り住んだとみられる[22]。

天正6年(1578年)8月、光秀と同じく織田信長の家臣であった細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興と結婚[25][26]。『綿考輯録』によれば、この婚姻は父の主君・織田信長の発案によるという[25][26]。信長の構想で家臣間の婚姻を統制しており、ここに主君の命令による婚姻「主命婚」が生まれたと考えられる[25]。この婚姻については、両家を結ぶことで丹波・丹後平定や本願寺を中心とする一向宗への攻撃を支援するという信長の意図に加え[27]、織田家中で外様の立場にあった光秀の、一門衆の信澄や外様の荒木氏・細川氏と姻戚関係を結ぶことで家中での孤立を回避しようとしたという意図が指摘されている[26]。天正6年8月、明智左馬助が輿に付き従ってガラシャを送り出し、細川家では松井康之が受け取り役となって青龍寺城(勝龍寺城)で祝言を挙げたという(『綿考輯録』)[28][26]。
なお、『綿考輯録』には信長が8月11日に明智光秀に出した書状が引用されている[29][26]。光秀の軍功を激賛、幽斎の文武兼備を称え、忠興の武門の棟梁としての器を褒めた内容で、それらの実績を信長が評価したうえで進めた政略結婚であったことが知られるが、この判物の文体が拙劣で戦国期の書式と著しく異なる[30]ことから偽作の可能性が高いとされている[31][26]。ただし、これが偽文書であるとしても、同年10月には荒木村重が謀叛を起こして光秀は八上城・有岡城攻めにかかりきりとなり、藤孝・忠興父子も動員されて同時に戦場を離れたことは確認できないため、婚礼の時期については同書の記述を信じられるとされる[26]。
勝龍寺城で2年を過ごした後、天正8年(1580年)8月、夫忠興が丹後12万石を与えられたことから、丹後八幡山城、次いで宮津城に移る[32][33]。
この間、ガラシャは一男一女を産んでいる。まず、長男・忠隆(長岡休無)が生まれたのは天正8年(1580年)4月27日である[34][33]。長女・長については誕生の時期が不明であり忠隆の姉という説と妹という説がある。姉とみる説は、文禄4年(1595年)に彼女の夫・前野長重が切腹させられることから、天正7年(1579年)生まれで夫の死亡時に数え17歳と解する[35]。妹とみる説では細川文庫蔵『系図』にある天正10年(1582年)生まれと解釈し、同年正月誕生予定の忠興女房衆の出産祈祷に関する記録[注釈 8]が存在することも根拠とする[注釈 9][33]。

天正10年(1582年)6月2日、実父・明智光秀が織田信長に対し謀叛を起こした(本能寺の変)[36][37]。細川家にその報が届いたのは翌3日のこととされ、光秀は娘の嫁ぎ先である細川家の協力を期待していたが、藤孝・忠興父子がとった行動は、信長の死を悼むという名目で髻を切り落として与同を拒むというものだった[38]。
一旦光秀と距離を置いて情勢を見極めようとした行動だが、光秀の娘を妻としていた津田信澄が明智方との疑いをかけられ討たれたように、何の方策も打たなければガラシャを迎えていた細川家も明智方とみなされて討伐されるおそれがあった[39]。そこで忠興がとったのは、ガラシャを屋敷から出して別居するという手段であった。江戸時代の家譜や地誌類では「離別」したと記述される[39]。細川家がガラシャの殺害や実家の明智家へ送り返すという手段(当時、離婚となると妻は里方に帰されるのが普通であった)をとらなかった理由としては、忠興が愛情を断ち切れなかったからという見解[40]のほかに、仮に明智方が優勢となり関係改善しなければならない可能性に備えたという見解がある[41]。
山崎の戦いで敗れた光秀は討たれ、明智家の一族や重臣たちは追討によりことごとく誅殺されたため、細川家により幽閉させられたガラシャだけが生き残る結果となった[42][43]。『太閤記』などでは隠棲を強いられることになったガラシャは父光秀に恨み言を伝えたとされているが、実際には「(あのようにして)父を失った身であるとは申しながら、そのために落胆したり恥じたりすべきではない」[注釈 10]とのちに語っていることから父を恨んでいたとは考えにくく、かえって光秀を見捨てた藤孝・忠興を恨んでいたとする見解も存在する[44]。
ガラシャの隠棲先となった場所は、丹後国味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)という説と丹波国三戸野(現在の京都府船井郡京丹波町水戸)という説がある[45][46]。『綿考輯録』では「丹波之内山中三戸野〈一書丹後国上戸(みと)村の名〉と云所へ、惟任家の茶屋有しに送り被遣候」とある[47]。
『太閤記』、宇土家譜「忠興公記」、『本朝武林伝』などが採用する丹後国味土野というのが現在では通説となっており[46]、京丹後市弥栄町須川には細川ガラシャ隠棲地の碑(「細川忠興夫人隠棲地」と刻む)が建立されている[48][49]。
これに対し丹波国三戸野という説は『明智軍記』に見えるものであるが[47]、明智領国のただ中で明智家の拠点である亀山城からも約20キロと近い地で隠棲というのは無理があり、明智家が滅亡して羽柴秀勝が丹波国を領した後のガラシャの処遇もはっきりしないという問題がある[46]。
隠棲先へと赴くガラシャに付き従った人物としては、一色宗右衛門や小侍従の名が知られる[50][43][44]。彼らはもともと明智家の家臣で、ガラシャの輿入れに際して付き従って細川家に仕えるようになった人々である[50][44]。ガラシャや小侍従は隠棲に際して髪を切って尼となった(仏門に入ったのではなく尼削ぎの髪型にしたものと考えられる)という[51][44]。
天正11年(1583年)、ガラシャは隠棲先で次男・興秋を出産する[52][44][注釈 11]。

天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城の築城を開始すると、諸大名もその周辺に屋敷を建設していった[53][54]。細川家ではこのころ忠興が当主となり[54]、大坂玉造に屋敷を建てた[53][54]。天正12年(1584年)[注釈 12]、ガラシャはこの屋敷に居を移すとともに忠興の正妻としての地位に復する[55][54]。『綿考輯録』では秀吉がガラシャとの復縁を勧めたのだとされる[54]。天正13年(1585年)には侍女の清原いとを使者として本願寺顕如の正室(如春尼)と鮭や鯛などの贈り物の贈答を行っており、有力者の正室との交流という大名の正室にふさわしい役目を果たしていたことが確認できる[注釈 13][56][57]。細川家領国の丹後国宮津城にいることもあり、天正14年(1586年)10月11日には宮津で三男・忠利を出産している[注釈 14][58][57]。
正室の座に返り咲いたとはいえ、ガラシャの悩みが完全に取り除かれたわけではなかった。まず、丹後や大坂、京都などに居所を移すことがあったとはいえ、ガラシャが邸宅の外に出ることは、依然夫の忠興によって制限されていたとみられる[59][57]。ルイス・フロイスは忠興はその嫉妬深い性格のために極端な幽閉と監禁を行ったと、忠興に厳しい記述をしている[59][60][注釈 15]。それだけでなく、「謀反人の娘」という風聞によりガラシャや細川家の名誉が傷つけられることを忠興が嫌ったことが原因である可能性も指摘されている[62]。ガラシャの悩みの種となったのは、忠興の子も産んでいる側室・藤の存在もあった[63][64]。当時の彼女は、「深い憂愁に閉ざされ、ほとんど現世を顧みようとしなかった」上、「夫人の態度は、夫を心配させることが少なくなかったので、二人はしばしば言い争っていた」という[注釈 16][66][67]。
ガラシャがキリスト教を知ったきっかけは、1587年10月に書かれた宣教師・プレネスティーノの書簡によれば、夫・忠興から彼の友人の高山右近が語っていたキリスト教の話を伝え聞いたからだという[67][66]。これ以前のガラシャは禅宗を信仰しており、宣教師の記録からも禅宗に関する詳しい知識を有していたことが知られるが、これは忠興の従兄・英甫永雄(建仁寺住持)に教えを受けていたことによるとされている[68]。なお宇土家譜「忠興公譜」や『綿考輯録』巻13では入信のきっかけは加々山少右衛門[注釈 17]の母のはたらきかけによるとされているが、少右衛門が細川家に仕官したのは蒲生氏郷が死去した文禄4年(1595年)の後半以降とみられることから時期が合わない[69]。これは彼女が細川家に出仕するようになったこの時期に、ガラシャがそれまで秘匿していたキリスト教の信仰を明らかにしたために、彼女の影響で入信したという誤解が生じたものと理解することができる[69]。
このようなきっかけによりキリスト教への関心を高めていったガラシャだったが、夫・忠興の監視のため、容易に教会へ出かけて宣教師の話を聞くことはできなかった[70]。ガラシャにとって好機となったのは、天正15年(1587年)正月に秀吉が諸大名に出陣を命じた九州征伐であった[70]。忠興が九州へ出陣したことにより、2月21日の彼岸の時期にガラシャは侍女6、7人に取り囲まれて姿を隠し、屋敷を抜け出して教会への訪問を行った[70]。この日は復活祭にあたり、日本人の高井コスメ修道士が説教と議論を行い、彼をして「自分は過去18年の間、これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と評させるほどガラシャは深い知識と理解力を有していた[71][72][70]。彼女はその場で洗礼を受ける事を望んだが、教会側は彼女が誰なのか分からず、スペイン人宣教師のグレゴリオ・デ・セスペデスはこれを許さなかった[70]。セスペデスは彼女が秀吉の側室かもしれないと疑ったのである[注釈 16][73][74][70]。側室が洗礼を受けたとなれば秀吉の怒りを買う可能性もあった上[73]、一夫一婦制をうたうキリスト教のもとではそれに違背する側室の受洗というのは議論の種でもあった[75]。やがてガラシャの外出に気付いた細川邸から教会に迎えがやってきて彼女を連れ帰った[74][70]。セスペデスは1人の若者にこれを尾行させ、彼女が細川家の奥方であることを知った[74][70]。
これ以降ガラシャは侍女を教会に派遣してキリスト教の説教を受けさせ、清原いとは受洗してマリアの洗礼名を授かった[76]。侍女で洗礼を受けた者は16名に及んだという[77][76]。ガラシャはキリスト教の理解のための書物を教会に送ってもらうことを願い、『コンテムツス・ムンジ』を受け取って屋敷で侍女たちとともに読み進めた[77][78][79][76]。さらに彼女は番人も教会へ行かせてキリスト教へ入信させることに成功している[80][76]。
天正15年(1587年)6月19日、豊臣秀吉はバテレン追放令を発する[81][82][83]。ガラシャはこれを知ると、宣教師たちが大坂から退去して西国に向かう前に洗礼を授かることを望んだ[84][85]。オルガンティーノはこれを許し、彼女自身が教会を訪れるのが困難で、しかも宣教師が屋敷に行くのも難しいことから、本来の司祭の手による洗礼ではなく、代理人にこれを行わせる「代洗」という方法をとることとした[85]。侍女の清原マリアが教会へ行って洗礼の授け方などを教わり、屋敷でガラシャに洗礼を授けた[86][87][85]。6月末から7月のころのこととみられる[85]。
「ガラシャ(Gratia)」の洗礼名は、ラテン語で恩寵・神の恵みを意味するグラツィアに由来する[88][89]。この洗礼名は必ずしも多いものではないが、彼女や侍女たちは洗礼名を呼称として用いたためにその重複を避けた結果、マリアなど既に侍女の洗礼名に与えられていた主要な名前が候補から外れたという見方がある[88][89]。ガラシャの名が選ばれた理由としては、本名の玉(珠)が、ガラシャの「賜物」という意味に通じるという説があるが[88]、宣教師が彼女の本名を知っていたかについての疑問も示されている[90]。それ以外には、秀吉の側近である忠興の正室という重要人物が改宗した事実がイエズス会士たちにとって神からの贈り物のように感じられたという説や[90]、当時のキリシタンによって唱えられていた「アヴェ・マリアの祈り」において、「がらさみち〱玉ふまりあ(恵みに満ちた方マリア)[注釈 18]」と言われることから、マリアにちなんだ洗礼名としてガラシャ自ら選択したという説などがある[91][89]。
やがて忠興が九州から帰還するが、彼はバテレン追放令の影響もあり、キリスト教への強い敵意を示すようになった[92][93][94]。忠興はキリシタンの乳母の過失を咎め、彼女の鼻と耳を削いだ上で追い出したという[92][95][94]。天正16年(1588年)に忠興はガラシャの入信を知ったとする見解もあるが[92]、実際には上述のような忠興の苛烈な処断を前に、ガラシャも周囲の者も洗礼の事実を隠すほかなかったとみられる[94]。
このころ、ガラシャは忠興と離婚して西国へ旅立つことを希望し、オルガンティーノに手紙で相談している[注釈 19][96][93][97]。ガラシャの苦悩の原因は、忠興が屋敷内に5人の側室を置いていることであると述べられており、それに加えて上述のようなキリスト教への敵意や使用人への仕打ちも彼女を苦しめたとみられる[97]。キリスト教では原則として離婚は認められないことから、オルガンティーノは「一つの十字架から逃れる者は、いつも他のより大きい十字架を見出す」という『コンテムツス・ムンジ』の一節を引用し、現在直面している苦難から逃れたとしても新たな苦難に直面することとなるから、現在の苦難への忍耐の重要性を説き、ガラシャを説得した[96][97]。
自身が信者となった後のガラシャは、自分の子どもにも洗礼を受けさせている。天正15年(1587年)の後半、次男・興秋が重い病となり、回復が見込めない状態となったので、ガラシャは洗礼を受けないまま亡くなることで霊魂が失われるのをおそれ、密かに受洗させたところ、病は回復に向かったという[注釈 20][98][99]。
天正16年(1588年)にガラシャは次女・多羅(たら)を出産している[92]。1595年10月20日にフロイスはガラシャが2人の子どもに洗礼を授けたと記録しており、忠隆・忠利は受洗が確認できず長の受洗はもっと後のことであるから、興秋以外に受洗したもう1人の子どもは多羅であると推測されている[99]。

ガラシャの受洗直後のころは、忠興はキリスト教に厳しい姿勢を見せ、ガラシャも離婚を考える程だったが、やがて忠興はキリスト教に理解を示すようになり、夫婦仲も改善していった[100]。忠興の変化の要因の一つには、文禄3年(1594年)に弟・興元が高山右近のすすめでキリスト教に改宗したことが考えられる[100]。またもう一つには、信仰を告白したガラシャ自身が忠興に福音を説いたことがあるとされる[100]。ガラシャが信仰告白後に忠興へ送った自身の息災を伝える消息には、「からしや」の署名をしているものも残されており、良好な夫婦関係をうかがわせる[100]。
文禄4年(1595年)7月、秀次事件に連座して長女・長の夫である前野景定とその父・長康が切腹させられた[101][102]。長は実家細川家に戻ることとなるが、忠興自身も秀次から金子100枚を受領していたため、徳川家康から融通してもらった資金で金子の返納をすることでなんとか秀吉の赦免を勝ち取ることができた[103][102]。このとき、石田三成・増田長盛・長束正家らは忠興に切腹を促す文書を送ろうとしており、忠興は切腹を言い渡されれば一戦交えて伏見を「黒土」にして死ぬと息巻いていた上、状況次第でガラシャを殺害して屋敷に火を放つことを家臣に指示していたとされる[注釈 21][104][102]。忠興はガラシャに対し、自身に危険が迫った場合に、彼女も後を追って自殺することを命じていたといい、ガラシャが侍女を遣わして宣教師オルガンティーノにその命令には従うべきかを尋ねたところ、彼から「デウスのもとではそれは大罪」であり、「許されぬ行為」であるという回答を得た[102]。このときは事なきを得たが、大名夫人として死を選ぶべきか、キリシタンとしてキリスト教の教義に従うべきか、という葛藤はガラシャの中にすでに存在していたことがうかがえる[102]。なお、実家に帰った長は慶長2年(1597年)、熱心な母の感化を受けたものとみられるが、夢見がきっかけとなってキリスト教へ改宗している[注釈 22][99]。
天正15年(1587年)にバテレン追放令が出された後も、依然秀吉の黙認のもとで宣教師によるキリスト教布教が行われていたが、慶長元年(1597年)には二十六聖人殉教という事件が起こる[105]。このときのガラシャは宣教師が処刑されるという情報が入れば刑場へ駆けつけて殉教する覚悟を決めていたとされるが[注釈 23]、ガラシャが指導を受けていたオルガンティーノらイエズス会の外国人宣教師には追及の手が及ばなかったため、結局殉教に至るような事態に発展することはなかった[105]。

慶長5年(1600年)、徳川家康による上杉征伐が開始されると、これに加わるため忠興は6月27日に丹後国を出陣した[106][107]。この隙を突いて、石田三成ら西軍諸将は大名の家族を人質として確保する作戦を開始し、その最初の標的と目されたのが、忠興夫人であるガラシャであった[108][107]。忠興は屋敷を離れる際は「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常で、この時も同じように命じていた[注釈 24][109][110][111]。
ガラシャが最期を迎えるまでの経過については、侍女としてそれに居合わせた霜(しも)[注釈 25]が、正保5年(1648年)にガラシャの孫である細川光尚の求めにより著述した『霜女覚書』が重要な資料となる[114][115]。『霜女覚書』で語られるガラシャの最期は以下のようなものである。7月12日、西軍により人質要求がなされることが察知されたことから、ガラシャが家臣たちで協議するように命じたところ、人質として出せる人物はいないという結論に達した[116][115][111]。最初に西軍から使者として派遣されてきたのは以前から関わりのある比丘尼であったが、細川方は人質を出すことを拒絶[116][115][111]。西軍は、姻戚関係にある宇喜多秀家[注釈 26]の屋敷に身柄を移すのであれば体面を保てるだろうとしてこれを妥協案として提案したが、これも拒絶された[116][117][115][111]。そのため7月16日に正式な人質要求の使者が訪れ、応じなければ実力行使も辞さないことを通告したが、細川方の態度は変わらなかった[116][118][115][111]。
7月17日[注釈 27]夜、石田方の軍勢が屋敷を取り囲んだ[111]。『霜女覚書』によれば、細川方の算段では稲富祐直が表門で敵を足止めしている間にガラシャが最期を迎えるはずだったが、祐直が裏切ったので、小笠原昌斎(少斎)は長刀を持ってガラシャの居室へ走り「唯今か御さいこにて候」と申し上げ、ガラシャはともに最期を迎えると申し合わせた忠隆夫人(千代)を探したが姿が見えないため、「御力なく御はてなされ」少斎の長刀で介錯されたという[116][119][111]。霜はガラシャに殉ずることを願ったが、ガラシャは忠興・忠隆への書置きと忠利への形見を託し、最期の様子を伝えるよう「をく」という女房と霜の2人に命じたため、最期を見届けて屋敷を後にしたという[116][120][111]。ガラシャとともに命を落とした人々には、小笠原少斎、河北石見(河北無世)、石見の甥六右衛門、その子一人、他2-3人がいたとしている[116][121]。
ガラシャの最期については『北野社家日記』同日条も、その日の夜に大坂で奉行衆が忠興の妻を人質に出すよう要求したが拒絶され、小笠原少斎が彼女を介錯して切腹して屋敷に火を放ち、稲留(富)・川北などという者2・3人も切腹したと伝えている[111]。小笠原少斎による介錯と屋敷への放火は外国の宣教師の記録にも見える。それによればガラシャは祈りを捧げたのち、ともに死ぬことを願う侍女たちを屋敷から退避させ、跪いてイエズスとマリアの御名を繰返し唱えると、家来によって首を落とされ、家来たちは火薬を撒いた上で火を放って切腹し、屋敷は灰燼に帰したという[注釈 28][122][110][111]。
『綿考輯録』ではガラシャの胸を少斎が長刀で突いたと記述しており[123][120]、ガラシャとともに亡くなった家臣として小笠原少斎、河北無世、金津助次郎の3人の名を挙げている[113]。またガラシャの「ちりぬへき 時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という辞世の句も伝えている[124][111]。同書が伝える遺言では甥の三宅重利のことを頼む内容や、忠興側室の藤を正室としないようにという内容が含まれている[125]。
『霜女覚書』でガラシャを死に急がせる原因となったとされている稲富祐直の裏切りであるが、実際には西軍との交渉あるいは説得を試みていた可能性がある[119][126]。というのも、霜ら侍女が屋敷を離れる段階では敵方は退却していたとされており、西軍はこの時点では屋敷に踏み込んで身柄を強制的に確保することまでは考えていなかったようにも見えるからである[126]。
ガラシャの絶命の方法として、上述のように小笠原少斎に介錯されたとするものや長刀で胸を突かれたとするもののほかに、太田牛一による蓬左文庫本『関ヶ原御合戦双紙』のように自らの胸を刺して死んだと伝えるものがある[127][128]。自殺はキリスト教で禁じられている行為であることから、徳富蘇峰『近世日本国民史』などでは自殺をあえてせず、小笠原少斎に介錯させたと説明されている[129][130]。しかし、他人に命じて自らを殺させる行為も本質的には自殺と変わらず、家臣に殺人を犯させる点でも禁忌に触れるのではないかと考えられる[128]。この点について、死を覚悟したガラシャはオルガンティーノに書簡で質疑を行っており、「その疑問に対する回答に大いに満足して心が落ち着いた[注釈 29]」上で命を落としている[131]。オルガンティーノの回答内容を伝える史料は残されていないが、彼に近いヴァリニャーノは死が回避できない状況であるならば名誉を守るための自殺はやむを得ないという定見を持っており、ガラシャの置かれた状況をよく知るオルガンティーノは日本社会への適応として彼女が死を選ぶことはキリスト教の教えに反さないという回答をしていた可能性がある[132][133]。
公家の山科言経の日記『言経卿記』には大坂で忠興の妻が自害したことに加え、彼女が12歳の息子と6歳の娘を殺害したことが記述されている[注釈 30][134][121]。河村文庫本『関ヶ原御合戦双紙』にも、10歳の息子と8歳の娘を刺し殺したことが見える[134][135]。この説について『忠興公譜』は「一説、男子一人・女子一人おわしけるを、差し殺したまいけると世間に流布せり。その時おさなき御子はおわしまさず。大なる偽りなり」、『綿考輯録』も「大に非なり」と否定している[136]。細川家の系図(『熊本藩世系』)では忠興の12人の子のうち玉子所生は長男・忠隆(天正8年生)、次男・興秋(天正11年生)、長女・長(天正7年生、前野長重室)、三男・忠利(天正14年生)、三女・多羅(天正16年生、稲葉一通室)の5人とされており、当時13歳だった多羅に、さらに同母の弟妹がいたとは認められていない[134]。『言経卿記』はあくまで伝聞を記述したものであり[121]、『関ヶ原御合戦双紙』は、ガラシャ死亡日を7月15日と記述したり、「南無阿弥陀仏」と唱えて自害したなどと記述する間違いも含んでいるという指摘もある[137]。
『綿考輯録』では石田方はガラシャの死の壮絶さに驚き、諸大名の内室を人質にとる作戦は中止され、それ以上人質を取り入れることはなくなったという[138]。しかしこの記述は正確ではなく、人質を確保するための交渉は継続されていることが確認でき、対象者やその取り置く場所についての妥協が生じるといった影響が生じたにとどまると考えられる[139]。

屋敷を脱出した侍女たちは、宣教師オルガンティーノのもとへ駆け込んでガラシャの死を伝えた[140][111]。オルガンティーノはキリシタンの女性たちに屋敷の焼け跡で彼女の遺骨を拾わせ、他の司祭や修道士とともに彼女の葬儀・埋葬を執り行った[141][110][111]。
ガラシャが大坂で命を落としたという報せは、7月27日に忠興のもとに届いたという[注釈 31][142][143]。西軍への敵愾心を新たにした忠興は岐阜城攻めに参加した後、関ヶ原の戦いで大いに戦功を挙げた[143]。戦後忠興はこの功績によって豊前一国と豊後速見郡・国東郡の30万石に加増を受けた[143]。忠興は、合戦や国替が落ち着いた後の慶長6年(1601年)に、「仏僧たちの力は夫人の魂に何らの効果も与えることができまい」と考え、オルガンティーノに教会葬を依頼し、「貴人たち」1000人以上が参列したミサで忠興や側近は涙を流したという[144]。
忠興はこの領国でキリスト教を受容する政策を打ち出した[145]。これは一つには九州の地はキリスト教が盛んで、その統治を円滑に進めるためであったと考えられるが、もう一つには悲劇的な最期を迎えた妻ガラシャに報いるためであったとされる[145]。忠興は国許で一周忌のミサを行うこととし、中津の教会でそれは執り行われたと考えられるが、参列者以外にも多くの見物人を集めたというミサを終えた後、忠興は教会関係者に「予は確かにキリシタンではない。しかし予は多くのことからキリシタン宗門に傾いている」と述べたという[144]。翌慶長7年(1602年)に忠興は本拠地を小倉に移すが、小倉の教会には生前のガラシャと面会し手紙のやりとりもあった宣教師・セスペデスが招かれた[145]。同年の三回忌では長崎から司祭2名や楽器などが送られた記録があり、イエズス会関係史料からはその後も1604年と1607年の実施が確認できる[144]。
しかし慶長15年(1610年)ごろから忠興はキリスト教に冷淡な態度をとり、圧力を強めるようになった[146]。『綿考輯録』では小倉の教会がガラシャの絵を描いた際、火煙の中で焼かれる半身像を描いたため、忠興が激怒しガラシャを弔う宗門を浄土宗に改め極楽寺に位牌を納めさせたとされている[146]。忠興が慶長15年のガラシャの法要を「ぜん寺」で行うと決めたことに対し、忠利が「心さし」を申したいと述べた文書が残されており、前年までミサで行われていたガラシャの年忌法要をこの年から忠興は仏式に改めようとしたとみられる[144]。ガラシャと交流のあった宣教師・セスペデスが慶長16年(1611年)に死去すると、「伴天連グレゴリオ・デ・セスペデスが生きている間は我慢もしよう。彼への愛があるから、すべてを破壊せずにいる」と述べていた忠興はいよいよ本格的に禁教の立場を明確にしていくこととなった[146]。慶長18年(1617年)には江戸幕府によって禁教令が発せられ、全国的な禁教政策が推し進められることとなる[146]。
大坂の崇禅寺にはガラシャの五輪塔の墓石があり、忠興が自身の信奉する浄土宗のこの寺院へ埋葬したものと推測される[147]。位牌は熊本の泰勝寺に納められており、ここには三男・忠利によって藤孝とその妻、忠興、ガラシャの4基の同じ大きさの五輪塔が祀られている[147]。泰勝寺の五輪塔に刻まれた法諡は秀林院殿華屋宗玉大姉[148]。他に、京都大徳寺塔頭・高桐院は忠興の叔父・玉甫紹琮が創建し、忠興が師・千利休から譲られた石灯籠を、彼の遺命により忠興・ガラシャ夫妻の墓石としたとされる[149]。明治時代に細川藤孝らを祭神として熊本市水前寺公園に創建された出水神社は、のちにガラシャも祭神として合祀している[150]。
前述『霜女覚書』で最期を迎えんとしたガラシャが姿を探したが見つからなかったという忠隆夫人・千代は、『綿考輯録』によれば実家の前田利家邸に退避していたという[111]。これが原因で忠興は忠隆に千代との離縁を命じ、忠隆は一旦は承知したもののやはり別れがたくなり、これに激怒した忠興によって慶長5年(1600年)11月後半から12月ごろに忠隆は廃嫡されてしまった[151][注釈 32]。
次男・興秋は、養父である忠興の弟・興元が慶長6年(1601年)12月に細川家の家臣として扱われることに憤り出奔事件を起こしたことがきっかけとなり不安定な立場となってしまった[151]。慶長9年(1604年)に忠興が病で伏せった際には三男・忠利が家康の御内書により家督に指名される事態となり、翌年興秋は人質として江戸に向かう途中で逐電し京都の建仁寺十如院に逃亡してしまう[151]。興秋は大坂の陣で豊臣方に参戦し、捕縛されて切腹という運命をたどることとなった[151]。

| 年 | ガラシャの略歴 | 忠興の動向 | 実子の事績 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1563年 | 越前にて出生 | 京都にて出生 | 細川京兆家の晴元死去 | |
| 1578年 | 忠興と勝龍寺城にて結婚 | 玉と勝龍寺城にて結婚 | ||
| 1579年 | 明智光秀、丹波平定 | |||
| 1580年 | 丹後・宮津城へ転居 | 父・藤孝が丹後半国を拝領 | 長男・忠隆誕生 | |
| 1581年 | 京都御馬揃えに参加 | |||
| 1582年 | 味土野に幽閉 | 父より長岡家督を継承 | 長女・長誕生 | 本能寺の変 |
| 1583年 | 幽閉状態 | 賤ヶ岳の戦いに参加 | 次男・興秋誕生 | |
| 1584年 | 大坂に転居 | 小牧・長久手の戦いに参加 | ||
| 1585年 | 紀州征伐に参加 | 秀吉が関白就任 | ||
| 1586年 | 三男・忠利誕生 | 天正地震 | ||
| 1587年 | 大坂の教会を初訪問。受洗しガラシャと名乗る (離婚を考えるが思い留まる) | 九州征伐に参加 | 次男・興秋が受洗 | バテレン追放令発布 |
| 1588年 | 次女・多羅誕生 | |||
| 1590年 | 小田原征伐に参加 | |||
| 1591年 | 秀次が関白就任、秀吉は太閤に | |||
| 1592年 | 晋州城攻防戦に参加 | 文禄の役 | ||
| 1593年 | 晋州城攻防戦に参加 | 文禄の役 | ||
| 1595年 | 忠興に信仰を告白 | 屋敷内に小聖堂を造る | 次女・多羅が受洗 | 秀次事件 |
| 1596年 | 長女・長が受洗 | 慶長大地震・サン=フェリペ号事件 | ||
| 1597年 | 慶長の役開始・二十六聖人の殉教 | |||
| 1598年 | 秀吉死去・慶長の役終了 | |||
| 1599年 | 三成屋敷を襲撃 | |||
| 1600年 | 大坂・細川屋敷にて死去 | 関ケ原の戦いに参加。長男・忠隆を廃嫡 | 三男・忠利が後継ぎとなる | |
| (1601年) | ガラシャの葬儀を教会葬で行う |

江戸時代の日本におけるガラシャは、宇土家譜「忠興公譜」や『綿考輯録』といった江戸時代中期以前に細川家で編纂された記録を除いては、キリシタンであった事実や「ガラシャ」という洗礼名もほとんど言及されなかった[169]。江戸時代において取り上げられたのはむしろ黒澤弘忠『本朝列女伝』に見えるような西軍の人質となることを拒み命を絶った、模範的な大名夫人という姿であり、『武徳大成記』などが採用した子ども2人を殺害したという説も広まりを見せ、明治11年(1878年)の『女子修身訓』もその説に依拠している[135]。
他方、日本に滞在していた宣教師によるガラシャに関する報告はヨーロッパに送られ、それをもとにした布教の歴史書などでガラシャは取り上げられ、ヨーロッパ独自のガラシャの人物像が形成されていくこととなった[170]。フランスのイエズス会士フランソワ・ソリエ(英語版)による1627年の『日本教会史』においては宣教師が報告したガラシャの死の経緯に依拠して記述がされていた[171][170]。しかし、オランダ出身のイエズス会士コルネリウス・アザル(英語版)による1667年の『全世界に普及した教会史』では棄教を迫る忠興の暴力によってガラシャは死去し、これを悔いた忠興が宣教師に追悼のミサを依頼するという筋書きになっており、彼女の美貌への言及もある[170]。さらにフランス出身のイエズス会士ジャン・クラッセ(英語版)による1689年の『日本教会史』はソリエ『日本教会史』を参考にしており話の流れは同書に近いが、ガラシャに棄教を迫った忠興もその美貌ゆえに離縁できなかったという記述などが加えられている[170]。
ガラシャの生涯に関する逸話は、カトリック関係者の著述だけでなく、やがて創作物においても題材とされることによって大衆にそのイメージが広まりを見せる[172]。当時のイエズス会が教育や布教のため盛んに音楽劇を上演していた背景のもと、オーストリアで制作されたのが「気丈な貴婦人――グラーチア、丹後の王国の女王」[173]という音楽劇であった[174][175][172]。この戯曲は神聖ローマ皇后エレオノーレ・マグダレーネの聖名祝日(7月26日)の祝いとして、1698年7月31日にウィーンのイエズス会教育施設において、音楽つきの劇の形で初演された[176][172]。台本はウィーンのイエズス会ギムナジウムの責任者ヨハン・バプティスト・アドルフ(ドイツ語版)が書き、音楽はヨハン・ベルンハルト・シュタウト(英語版)が作曲した[174][172]。アドルフは、この戯曲の要約文書[177]において、物語の主人公は「丹後王国の女王グラツィア」[178]であると述べている。さらに、彼が執筆に際して直接の典拠としたのは、アザル『全世界に普及した教会史』の独訳本[179]の第1部第13章、「日本の教会史―丹後の女王の改宗とキリスト信仰」[180]であったことをも明記している。このストーリーは、グラーチア(=ガラシャ)は夫である野蛮な君主の悪逆非道に耐えながらも信仰を貫き、最後は命を落として暴君を改心させたという、キリスト教信者に向けた教訓的な筋書きで、彼女の死が殉教として描かれている[174][175][172]。
1830年にその影響を受けた「丹後の王妃グラティア」を収めるヨハン・ペーター・ジーベルトによる『女性たちの輝き』がウィーンで出版され、同書はフランスでも出版され反響を呼んだという[174][172]。
ヨーロッパで形成されたガラシャの人物像は明治維新後に日本へ逆輸入されることとなった[181]。その契機はクラッセ『日本教会史』が日本語に翻訳されて明治11年(1878年)から13年(1880年)にかけて『日本西教史』上下巻として刊行されたことである[182][181]。
このようにして美貌のキリシタンというイメージが日本に導入され展開する一方、ヨーロッパにおいてみられた殉教者という人物像や日本における子ども2人を殺害したエピソードが抜け落ちていき、現在の日本における彼女のイメージが形成されていったと考えられる[183]。
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