篠原 勝之(しのはら かつゆき、本名同じ[1]、1942年〈昭和17年〉4月15日[1][2] - )は、日本の芸術家、タレント。自らを「ゲージツ家」と称している[3][4]。
愛称はクマさんで、「KUMA」[2][5]名義でも活動する。
タモリやビートたけし、明石家さんまなど、人気芸人とも共演し、独特の話術で茶の間の人気者となるが、その後、テレビ番組から姿を消す[4]。
血液型B型[2]。趣味は剣道。KUMA's FACTORY(クマズファクトリー[6][7]。1986年設立[8])所属。
北海道室蘭市出身[9][10](札幌市生まれ[4])。生後すぐにジフテリアにかかり、嗅覚と左耳の聴覚を失った[4][11]。深沢七郎の『ラブミー農場』に住んでいたことがあり、嵐山光三郎の『桃仙人 小説深沢七郎』(メタローグ)にも「彫刻家のクマちゃん」として登場する。
室蘭市立朝陽小学校[9]、室蘭市立蘭東中学校[12]、北海道室蘭栄高等学校卒業。武蔵野美術大学中退[13]。奈良市在住。
1973年から1979年まで、唐十郎が主宰する状況劇場のポスターや舞台美術を担当し、芸能界と関係を持つ[4]。嵐山光三郎、赤瀬川原平、南伸坊、糸井重里、村松友視、椎名誠らと親しくなり、彼らの本を「面白エッセイ」として次々に刊行していた情報センター出版局から、1981年に『人生はデーヤモンド』を刊行。独特の文体とキャラクターで人気を博す。
また1982年から嵐山が司会をしていた『笑っていいとも!増刊号』に出演したことで注目され、以降はタモリ・ビートたけし・明石家さんまのお笑いBIG3の番組を中心に、テレビタレントとしても活動するようになる[4]。
溶接オブジェを得意とし「鉄のゲージツ家」の異名を持つ。溶接の他にもガラスや銅版画での作品を発表している。日頃から自分の作品を「芸術」ではなく「ゲージツ」と称している[4]。
文筆でも活躍し、2009年には『走れUMI』で第45回小学館児童出版文化賞を、2015年には『骨風』で第43回泉鏡花文学賞を受賞[4][14]。『骨風』は、山崎哲の作構成で舞台化され、山崎の演出により2016年12月に初演された。この舞台には篠原も出演し、自分自身などを演じた。
スキンヘッドに着流し姿がトレードマーク[4]。前妻との間に一男一女をもうけている[11]。
1960年代後半から70年代にかけて、東京都新宿区でプロ級の喧嘩師と称されていた時代があったことを、篠原の若いころを知る数々の著名人が証言している。
幼児期は、実の父親からほぼ虐待に近いくらいの体罰をうけて育ったことを著作で明かしている。拳で殴られる、ビンタをされるなどは日常茶飯事であったという。
ビートたけしとの出会いは西荻窪の定食屋。さんま定食を食べているたけしの箸づかいに感嘆し、教養がある人だと思ったという[15]。
赤塚不二夫と呑み友達であったことが、赤塚死去の特番において公表された。赤塚とは1982年に丸美屋食品のふりかけ「ハッピーポッケ」のCMで共演している。ツイッターでは、赤塚のことを「赤塚不二夫兄貴」や「盟友」とも記す。赤塚が創作したキャラクター「ウナギイヌ」については「一番好き」「ウナギとイヌというハイブリッドが斬新」と記している。
前田日明とも深く交流があり、前田の結婚式には「ウナギイヌ」をオリジナル家紋として礼服に入れて参列した。ウナギイヌを使用する際には、念のため著作権の問題をクリアしたらしい。
ゾマホン・ルフィンによるベナン共和国の発展活動に、たけし・所ジョージ・田中義剛らが資金・物品・技術の提供で協力していることに関し、「ゼニのないオレができることは、ゲージツするタマシイで子どもと遊ぶことだ」として、ゾマホンが設立した「たけし小学校」に赤土のレンガでできた「ドラゴン」というオブジェを創作。子どもたちが創作を手伝った。
山梨県にアトリエを建て、創作活動の拠点としていたが[4]、2021年に奈良に移住[4]。オブジェの素材は鉄から土へと移った[16]。2022年3月には東京・恵比寿のシス画廊で個展『空っぽ展』を開催。作品には、番号がふってあるだけで、タイトルも銘もなく、「皆はなんにでも意味を求めるが、たいてい意味なんかない。生きることにも意味はない。といって早く死ぬこともない。ただ生きてるから生きてるんだ」などと説明した[4]。
2010年以降、全国ネットの番組へはレギュラー出演していない。
第43回泉鏡花文学賞 | |
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