| 「築地」のその他の用法については「築地 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
| 築地 | |
|---|---|
| 町丁 | |
北緯35度39分53秒東経139度46分13秒 / 北緯35.664644度 東経139.770294度 /35.664644; 139.770294 | |
| 国 | |
| 都道府県 | |
| 特別区 | |
| 地域 | 京橋地域 |
| 人口情報(2023年(令和5年)1月1日現在[2]) | |
| 人口 | 9,261 人 |
| 世帯数 | 5,816 世帯 |
| 面積([3]) | |
| 0.836337244km² | |
| 人口密度 | 11073.28 人/km² |
| 郵便番号 | 104-0045[4] |
| 市外局番 | 03(東京MA)[5] |
| ナンバープレート | 品川 |
| テンプレートを表示 | |
築地(つきじ)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区に当たる京橋地域内である。現行の行政地名は築地一丁目から築地七丁目。住居表示実施済区域。
明治より京橋区役所や現在の中央区役所が置かれ、中央区・京橋地域の行政的中枢を担ってきた。そのため警察署、郵便局(旧集配局)など行政機関が集中している。東京湾の河口部に面している土地柄、日本海軍や中央卸売市場(築地市場)など、海に関連する施設が存在した。1869年には築地鉄砲洲(現在の湊から明石町)に外国人居留地も設けられた。地域名の京橋を冠して京橋築地とも呼ばれている。
北に新富および入船、東に明石町および隅田川対岸の勝どき、南に浜離宮庭園および港区東新橋、西に銀座が位置する。明石町・入船・新富同様、域内に「銀座」「東銀座」を名乗るマンションやビルが少なくない。
京橋地域の南部に位置する。
「築地」は元来埋立地の意味で、東京築地も埋立地である。江戸時代、1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に焼失した浅草御門南の西本願寺(現在の築地本願寺)の代替地として佃島の住人によってこの土地が造成された。その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになった。ほかの地域は武家屋敷が数多く立ち並んでいた。
1869年には築地鉄砲洲(現在の湊から明石町)に外国人居留地も設けられた。このことから在日アメリカ人子弟向けの学校であるアメリカンスクール・イン・ジャパンの校舎が1902年の開校時に設けられていた。また、中津藩藩士福澤諭吉が蘭学塾(慶應義塾)を開いた場所でもある。
江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。過去に築地にあった日本海軍関係施設は以下の通り。
1918年(大正7年)8月15日、東京市中で拡大した米騒動(1918年米騒動)の群衆約1万人が築地にも到達。逓信省や農商務省等の官庁や築地精養軒などが投石による被害を受けた[9]。
1923年(大正12年)、関東大震災が発生し、築地一帯は焼け野原となった。帝都復興計画に基づいて晴海通りや新大橋通りなどの大規模な道路の建設と区画整理が行われ、それに伴い多くの寺院が移転していった。復興が一段落した1935年には日本橋の魚河岸が築地の海軍用地に移転され、場外にも市場が形成された(築地場外市場)。
第二次世界大戦中は築地市場の出荷が停止して閑散としていたが、1950年(昭和25年)に出荷が再開されると築地はたちまち息を吹き返した。1966年(昭和41年)7月1日に住居表示が実施された[10]。
築地市場は敷地が手狭でトラックの駐車スペースなどが少なく、深夜早朝時には周辺道路にトラックの違法駐車が列をなして危険であった。施設の老朽化が進んでいたことから、卸売市場は2018年(平成30年)10月に豊洲市場(東京都江東区)へ移転。2020年(令和2年)以降跡地の再開発が計画されている。
卸売市場の豊洲移転後も、一般消費者も利用できる商店街である築地場外市場はそのまま残った。築地場外市場には中央区により生鮮食品の小売市場である築地魚河岸が設置され、食の街としての機能が維持されている。中央区は東京都心の一角であり、築地とその周辺には企業のオフィスやマンション、店舗が多い。ホテルも増えており、住民や来街者に加えて外国人を含む観光客も多く訪れおり、卸売市場の移転後も飲食店はにぎわっている[11]。
| 実施後 | 実施年月日 | 実施前(特記なければ各町名ともその一部) |
|---|---|---|
| 築地一丁目 | 1966年7月1日 | 築地一丁目、築地二丁目、築地三丁目 |
| 築地二丁目 | ||
| 築地三丁目 | ||
| 築地四丁目 | 築地四丁目(全域) | |
| 築地五丁目 | 築地五丁目(全域) | |
| 築地六丁目 | 小田原町二丁目(全域)、小田原町三丁目(全域) | |
| 築地七丁目 | 小田原町一丁目(全域) | |
| 浜離宮庭園 | 築地六丁目(全域) |
2023年(令和5年)1月1日現在(中央区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
| 丁目 | 世帯数 | 人口 |
|---|---|---|
| 築地一丁目 | 605世帯 | 888人 |
| 築地二丁目 | 772世帯 | 1,107人 |
| 築地三丁目 | 619世帯 | 945人 |
| 築地四丁目 | 502世帯 | 667人 |
| 築地五丁目 | 316世帯 | 391人 |
| 築地六丁目 | 1,088世帯 | 1,889人 |
| 築地七丁目 | 1,914世帯 | 3,374人 |
| 計 | 5,816世帯 | 9,261人 |
国勢調査による人口の推移。
| 年 | 人口 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[12] | 4,372 |
| 2000年(平成12年)[13] | 4,782 |
| 2005年(平成17年)[14] | 5,795 |
| 2010年(平成22年)[15] | 6,691 |
| 2015年(平成27年)[16] | 7,975 |
| 2020年(令和2年)[17] | 8,599 |
国勢調査による世帯数の推移。
| 年 | 世帯数 |
|---|---|
| 1995年(平成7年)[12] | 2,132 |
| 2000年(平成12年)[13] | 2,579 |
| 2005年(平成17年)[14] | 3,538 |
| 2010年(平成22年)[15] | 3,993 |
| 2015年(平成27年)[16] | 5,010 |
| 2020年(令和2年)[17] | 5,355 |
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2025年4月現在)[18]。
| 丁目 | 番地 | 小学校 | 中学校 |
|---|---|---|---|
| 築地一丁目 | 全域 | 中央区立京橋築地小学校 | 中央区立銀座中学校 |
| 築地二丁目 | 全域 | ||
| 築地三丁目 | 全域 | ||
| 築地四丁目 | 全域 | ||
| 築地五丁目 | 全域 | ||
| 築地六丁目 | 全域 | ||
| 築地七丁目 | 全域 | 中央区立明石小学校 |
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[19]。
| 丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
|---|---|---|
| 築地一丁目 | 247事業所 | 9,887人 |
| 築地二丁目 | 532事業所 | 7,850人 |
| 築地三丁目 | 278事業所 | 4,038人 |
| 築地四丁目 | 428事業所 | 5,533人 |
| 築地五丁目 | 162事業所 | 20,935人 |
| 築地六丁目 | 317事業所 | 4,803人 |
| 築地七丁目 | 161事業所 | 4,204人 |
| 計 | 2,125事業所 | 57,250人 |
経済センサスによる事業所数の推移。
| 年 | 事業者数 |
|---|---|
| 2016年(平成28年)[20] | 3,139 |
| 2021年(令和3年)[19] | 2,125 |
経済センサスによる従業員数の推移。
| 年 | 従業員数 |
|---|---|
| 2016年(平成28年)[20] | 54,091 |
| 2021年(令和3年)[19] | 57,250 |
| 新富 | ||||
| 銀座 | 明石町 | |||
| 浜離宮庭園 | 勝どき | 月島 |