| 第2次山縣内閣 | |
|---|---|
| 天皇 | 第122代明治天皇 |
| 内閣総理大臣 | 第9代山縣有朋 |
| 成立年月日 | 1898年(明治31年)11月8日 |
| 終了年月日 | 1900年(明治33年)10月19日 |
| 与党・支持基盤 | (藩閥・官僚内閣) |
| 成立事由 | 前内閣の総辞職 |
| 終了事由 | 首相の辞任 |
| 前内閣 | 第1次大隈内閣 |
| 次内閣 | 第4次伊藤内閣 |
| 内閣閣僚名簿(首相官邸) | |
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第2次山縣内閣(だいにじ やまがたないかく)は、元老・侯爵・元帥陸軍大将の山縣有朋が第9代内閣総理大臣に任命され、1898年(明治31年)11月8日から1900年(明治33年)10月19日まで続いた日本の内閣。
当内閣は、組閣から総辞職まで一度も閣僚の交代がなかった。これは、閣僚の交代がない連続在任期間として日本の歴代内閣で最長(711日)である[注釈 1]。
1898年(明治31年)11月8日任命[1]。在職日数711日(第1次、2次通算1,210日)。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 9 | 山縣有朋 | 旧長州藩 貴族院 無所属 元帥陸軍大将 侯爵 | |||
| 外務大臣 | 15 | 青木周蔵 | 旧長州藩 子爵 | |||
| 内務大臣 | 14 | 西郷従道 | 旧薩摩藩 元帥海軍大将 侯爵 | |||
| 大蔵大臣 | 8 | 松方正義 | 旧薩摩藩 伯爵 | |||
| 陸軍大臣 | 5 | 桂太郎 | 旧長州藩 陸軍大将 子爵 | 留任 | ||
| 海軍大臣 | 5 | 山本権兵衛 | 旧薩摩藩 海軍中将 (海兵2期) | 初入閣 | ||
| 司法大臣 | 9 | 清浦奎吾 | 旧肥後藩 貴族院 無所属 (研究会) | |||
| 文部大臣 | 14 | 樺山資紀 | 旧薩摩藩 海軍大将 伯爵 | |||
| 農商務大臣 | 16 | 曾禰荒助 | 旧長州藩 貴族院[注釈 2][2] 無所属 | |||
| 逓信大臣 | 9 | 芳川顕正 | 旧徳島藩 子爵 | |||
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| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣書記官長 | 10 | 安広伴一郎 | 旧小倉藩 貴族院[注釈 2][2] 無所属 | |||
| 法制局長官 | 8 | 平田東助 | 旧米沢藩 貴族院 無所属 (茶話会) | 内閣恩給局長 | ||
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※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
| 出身藩閥 | 国務大臣 | その他 |
|---|---|---|
| くげ旧公家 | 0 | |
| さつま旧薩摩藩 | 4 | |
| ちょうしゅう旧長州藩 | 4 | |
| とさ旧土佐藩 | 0 | |
| ひぜん旧肥前藩 | 0 | |
| ばくしん旧幕臣 | 0 | |
| をその他の旧藩 | 2 | 内閣書記官長、法制局長官 |
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前内閣の第1次大隈内閣は、それまで衆議院を二分してそれぞれ時の藩閥内閣と対立を繰り返してきた自由党(板垣退助総理)と進歩党(大隈重信党首)が合同して憲政党を結成したのを受けて、政権運営のめどがつかなくなった藩閥政府が憲政会に内閣を組織させたものであったが、ほどなく党内での対立が制御できなくなって党は分裂、1898年10月31日、内閣総辞職をするに至った。
後継には、薩長両藩の内この時点で優位に立っていた長州閥から選任することになり、伊藤博文元首相は清国へ外遊中であったことから、山縣有朋元首相が11月5日に大命降下を受ける。この時点で憲政会は、旧自由党が党内クーデター同然に憲政会を解党・再結成した同名の政党、憲政会と、旧進歩党が対抗して結成した憲政本党に分裂していたが、山縣首相は議会対策として、第2次伊藤内閣で連携した経緯のあった旧自由党(新・憲政会)と接近する。首相側近の桂陸相が議会・政党対策の窓口となり、憲政党を取り仕切っていた星享と交渉するが、桂は板垣内相・星法相の2ポストを提示したのに対して星はさらに2ポストを要求したことから交渉はまとまらず、政権はとりあえずは超然主義(オール野党)としてスタートする[4]。
その後も、憲政会との間で政策協定は続き、11月28日、閣議での了承を得たうえで、妥協条件が提示された。
30日、山縣首相は憲政党代議士と茶話会を行い、憲政党と「肝胆相照」の提携を声明した[5]。
その後、山縣内閣は憲政党の連携を経て2年近くにわたり安定的に政権運営を行うが、星らが要求した憲政党員の入閣、あるいは閣僚の憲政党への入党については、言を左右にして認めなかった。これにより、1900年春ごろから、憲政党は山縣内閣と距離を取りはじめ、長州閥の二大勢力の雄である伊藤元首相に接近する。伊藤元首相はかねてから、超然主義の決別と、政権担当能力のある国政政党の必要性を考えており、新党結成の準備を始めていたことから連携が成立、憲政党は伊藤新党に合流することを決める。
山縣首相はこの動きを受けて、伊藤新党が政権を握れば議会に基盤を持たない自身は伊藤の格下の地位に甘んじることになることを危惧し、意趣返しとして伊藤に政権を押し付けることを選択する。伊藤新党の動きが本格化した8月下旬に総辞職を表明、後継に伊藤を推薦した。かくして伊藤は組閣と新党結成を同時並行的に進め、1900年9月15日に立憲政友会を結成、10月19日に第4次伊藤内閣を発足させる。
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| 名前は内閣総理大臣、名前の後の数字は任命回数(組閣次数)、「改」は改造内閣、「改」の後の数字は改造回数(改造次数)をそれぞれ示す。 | ||||||||||
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