| 第1次吉田内閣 | |
|---|---|
国務大臣任命式後の記念撮影 (1946年5月22日) | |
| 天皇 | 第124代昭和天皇 |
| 内閣総理大臣 | 第45代吉田茂 |
| 成立年月日 | 1946年(昭和21年)5月22日 |
| 終了年月日 | 1947年(昭和22年)5月24日 |
| 与党・支持基盤 | 日本自由党、(日本進歩党→)民主党 |
| 施行した選挙 | 第1回参議院議員通常選挙 第23回衆議院議員総選挙[1] |
| 衆議院解散 | 1947年(昭和22年)3月31日 新憲法解散 |
| 成立事由 | 大命降下 |
| 終了事由 | 第23回衆議院議員総選挙 |
| 前内閣 | 幣原内閣 |
| 次内閣 | 片山内閣 |
| 内閣閣僚名簿(首相官邸) | |
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第1次吉田内閣(だいいちじ よしだないかく)は、外務大臣・貴族院議員の吉田茂が第45代内閣総理大臣に任命され、1946年(昭和21年)5月22日から1947年(昭和22年)5月24日まで続いた日本の内閣。これが旧憲法下で天皇から組閣の大命を受けて発足した最後の内閣となった。
1946年(昭和21年)5月22日任命[2]。在職日数255日。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 45 | 吉田茂 | 貴族院[注釈 1] 日本自由党 (無会派) | 外務大臣、 第一復員、第二復員大臣兼任 [注釈 2] | 日本自由党総裁[注釈 3] | |
| 外務大臣 | 65 | 吉田茂 | 貴族院 日本自由党 (無会派) | 内閣総理大臣、 第一復員、第二復員大臣兼任 [注釈 2] 終戦連絡中央事務局総裁 | 留任 日本自由党総裁 | |
| 内務大臣 | 65 | 大村清一 | 内務省 | 初入閣 | ||
| 大蔵大臣 | 50 | 石橋湛山 | 民間[注釈 4] | 初入閣 | ||
| 第一復員大臣 | 2 | 吉田茂 | 貴族院 日本自由党 (無会派) | 内閣総理大臣、 外務、第二復員大臣兼任 [注釈 2] | 1946年6月15日免兼 [注釈 5] | |
| (第一復員省廃止) | 1946年6月15日付 [注釈 5] | |||||
| 第二復員大臣 | 2 | 吉田茂 | 貴族院 日本自由党 (無会派) | 内閣総理大臣、 外務、第一復員大臣兼任 [注釈 2] | 1946年6月15日免兼 [注釈 5] | |
| (第二復員省廃止) | 1946年6月15日付 [注釈 5] | |||||
| 司法大臣 | 47 | 木村篤太郎 | 司法省 | 初入閣 | ||
| 文部大臣 | 61 | 田中耕太郎 | 民間[注釈 6] | 初入閣 | ||
| 厚生大臣 | 15 | 河合良成 | 貴族院[注釈 1] 無所属 (同成会) | 初入閣 | ||
| 農林大臣 | 4 | 和田博雄 | 農林省 | 初入閣 | ||
| 商工大臣 | 27 | 星島二郎 | 衆議院 日本自由党 | 初入閣 | ||
| 運輸大臣 | 5 | 平塚常次郎 | 衆議院 日本自由党 | 初入閣 | ||
| 逓信大臣 | (逓信省未設置) | 1946年7月1日設置 | ||||
| 50 | 一松定吉 | 衆議院 (日本進歩党→) 民主党 | 転任 1946年7月1日任[注釈 7][3] | |||
| 国務大臣 | - | 幣原喜重郎 | 貴族院[注釈 1] (日本進歩党→) 民主党 男爵[注釈 8] | 復員庁総裁[注釈 9][4] | 日本進歩党総裁 [注釈 10] | |
| 国務大臣 | - | 齋藤隆夫 | 衆議院 (日本進歩党→) 民主党 | 行政調査部総裁[注釈 11] | 初入閣 | |
| 国務大臣 | - | 一松定吉 | 衆議院 (日本進歩党→) 民主党 | 初入閣 1946年7月1日まで[注釈 7][3] | ||
| 国務大臣 | - | 植原悦二郎 | 衆議院 日本自由党 | 初入閣[注釈 12] | ||
| 国務大臣 | - | 金森德次郎 | 貴族院[注釈 1] 無所属 (同成会) | 憲法改正担当 | 初入閣 1946年6月19日任[5] | |
| 国務大臣 | - | 膳桂之助 | 貴族院[注釈 1] 無所属 (研究会) | 経済安定本部総務長官、 物価庁長官[注釈 13] | 初入閣 1946年7月23日任[6] | |
| ||||||
1946年(昭和21年)5月29日任命[2]。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣書記官長 | 55 | 林讓治 | 衆議院 日本自由党 | |||
| 法制局長官 | 47 | 入江俊郎 | 貴族院[注釈 1] 無所属 (同和会) | 留任 | ||
| 内閣副書記官長 | - | 木内四郎 | 大蔵省 | 事務引継 1946年6月14日免 | ||
| - | 周東英雄 | 農林省 | 1946年6月14日任[4] | |||
| ||||||
1946年(昭和21年)6月4日任命[7]。
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 外務政務次官 | 益谷秀次 | 衆議院/日本自由党 | |
| 本田英作 | 衆議院/日本自由党 | ||
| 内務政務次官 | 大野伴睦 | 衆議院/日本自由党 | 1946年6月22日免[8] |
| 世耕弘一 | 衆議院/日本自由党 | 1946年6月22日任[8] | |
| 大蔵政務次官 | 上塚司 | 衆議院/日本自由党 | |
| 司法政務次官 | 古島義英 | 衆議院/日本自由党 | |
| 文部政務次官 | 長野長廣 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 農林政務次官 | 大石倫治 | 衆議院/日本自由党 | |
| 商工政務次官 | 小林錡 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 運輸政務次官 | 松田正一 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 厚生政務次官 | 服部岩吉 | 衆議院/日本自由党 | |
| 逓信政務次官 | (逓信省未設置) | 1946年7月1日設置 | |
| 中川重春 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | 1946年7月1日任[3] | |
1946年(昭和21年)6月4日任命[7]。
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 外務参与官 | 塩月學 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 内務参与官 | 桂作藏 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 大蔵参与官 | 柴田兵一郎 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 司法参与官 | 中村又一 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 文部参与官 | 花村四郎 | 衆議院/日本自由党 | |
| 農林参与官 | 鈴木强平 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 商工参与官 | 小此木歌治 | 衆議院/日本自由党 | |
| 運輸参与官 | 辻寛一 | 衆議院/日本自由党 | |
| 厚生参与官 | 佐藤久雄 | 衆議院/日本進歩党 | |
| 逓信参与官 | (逓信省未設置) | 1946年7月1日設置 | |
| 山村新治郎 | 衆議院/日本自由党 | 1946年7月1日任[3] | |
1947年(昭和22年)1月31日任命[9]。在職日数93日(通算347日)。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 45 | 吉田茂 | 貴族院 日本自由党 (無会派) | 外務大臣兼任 | 留任 日本自由党総裁 | |
| 外務大臣 | 65 | 吉田茂 | 貴族院 日本自由党 (無会派) | 内閣総理大臣兼任 終戦連絡中央事務局総裁 | 留任 日本自由党総裁 | |
| 内務大臣 | 66 | 植原悦二郎 | 衆議院 日本自由党 | 転任[注釈 12] | ||
| 大蔵大臣 | 50 | 石橋湛山 | 民間 | 国務大臣兼任[注釈 14] | 留任 | |
| 司法大臣 | 47 | 木村篤太郎 | 司法省 | 留任 | ||
| 文部大臣 | 62 | 高橋誠一郎 | 民間[注釈 15] | 初入閣 | ||
| 厚生大臣 | 15 | 河合良成 | 貴族院 無所属 (同成会) | 留任 | ||
| 農林大臣 | 5 | 吉田茂 | 貴族院 日本自由党 (無会派) | 内閣総理大臣、 外務大臣兼任 | 1947年2月15日免兼[10] 日本自由党総裁 | |
| 6 | 木村小左衛門 | 衆議院 (日本進歩党→) 民主党 | 初入閣 1947年2月15日任[10] | |||
| 商工大臣 | 28 | 石井光次郎 | 衆議院 日本自由党 | 初入閣 | ||
| 運輸大臣 | 6 | 增田甲子七 | 内務省 | 初入閣 | ||
| 逓信大臣 | 50 | 一松定吉 | 衆議院 (日本進歩党→) 民主党 | 留任 | ||
| 国務大臣 | - | 幣原喜重郎 | 貴族院 (日本進歩党→) 民主党 男爵 | 復員庁総裁 | 留任 日本進歩党総裁 | |
| 国務大臣 | - | 齋藤隆夫 | 衆議院 (日本進歩党→) 民主党 | 行政調査部総裁 | 留任 | |
| 国務大臣 | - | 金森德次郎 | 貴族院 無所属 (同成会) | 憲法改正担当 | 留任 | |
| 国務大臣 | - | 石橋湛山 | 民間 | 大蔵大臣兼任[注釈 14] 経済安定本部総務長官、 物価庁長官 | 1947年3月20日免兼[11] | |
| - | 高瀨荘太郎 | 民間[注釈 16] | 経済安定本部総務長官、 物価庁長官 | 初入閣 1947年3月20日任[11] | ||
| 国務大臣 | - | 星島二郎 | 衆議院 日本自由党 | 転任 | ||
| 国務大臣 | - | 田中萬逸 | 衆議院 (日本進歩党→) 民主党 | 初入閣 1947年2月26日任[12] | ||
| ||||||
1947年(昭和22年)1月31日留任。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣書記官長 | 55 | 林讓治 | 衆議院 日本自由党 | 1947年5月3日免[注釈 17] | ||
| (内閣書記官長廃止) | 1947年5月3日付[注釈 17] | |||||
| 法制局長官 | 47 | 入江俊郎 | 貴族院[注釈 1] 無所属 (同和会) | 留任 | ||
| 内閣副書記官長 | - | 周東英雄 | 農林省 | 留任 1947年4月30日免[注釈 18] | ||
| (内閣副書記官長廃止) | 1947年5月3日付[注釈 17] | |||||
| ||||||
1947年(昭和22年)3月4日任命。
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 外務政務次官 | 本田英作 | 衆議院/日本自由党 | |
| 内務政務次官 | 林連 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | |
| 大蔵政務次官 | 北村德太郎 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | |
| 司法政務次官 | 北浦圭太郎 | 衆議院/日本自由党 | |
| 文部政務次官 | 青木孝義 | 衆議院/日本自由党 | |
| 農林政務次官 | 森幸太郎 | 衆議院/日本自由党 | |
| 商工政務次官 | 保利茂 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | 1947年4月28日免 |
| (欠員) | 1947年4月28日から | ||
| 運輸政務次官 | 逢澤寛 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | |
| 厚生政務次官 | 小笠原八十美 | 衆議院/日本自由党 | |
| 逓信政務次官 | 中川重春 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | 留任 |
1947年(昭和22年)3月4日任命。
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 外務参与官 | 原健三郎 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | |
| 内務参与官 | 水田三喜男 | 衆議院/日本自由党 | |
| 大蔵参与官 | 高橋英吉 | 衆議院/日本自由党 | |
| 司法参与官 | 吉田安 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | |
| 文部参与官 | 川崎秀二 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | |
| 農林参与官 | 本間俊一 | 衆議院/(日本進歩党→)民主党 | |
| 商工参与官 | 鈴木仙八 | 衆議院/日本自由党 | |
| 運輸参与官 | (欠員) | ||
| 厚生参与官 | 寺島隆太郎 | 衆議院/(無所属→日本進歩党→)日本進歩党 | |
| 逓信参与官 | 坪川信三 | 衆議院/(無所属→日本進歩党→)民主党 | |
1947年(昭和22年)5月3日留任。在職日数22日(通算368日)。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣総理大臣 | 45 | 吉田茂 | 衆議院 日本自由党 | 外務大臣兼任 | 留任 日本自由党総裁 | |
| 外務大臣 | 65 | 吉田茂 | 衆議院 日本自由党 | 内閣総理大臣兼任、 終戦連絡中央事務局総裁 | 留任 日本自由党総裁 | |
| 内務大臣 | 66 | 植原悦二郎 | 衆議院 日本自由党 | 留任 | ||
| 大蔵大臣 | 50 | 石橋湛山 | 衆議院 日本自由党 | 留任 | ||
| 司法大臣 | 47 | 木村篤太郎 | 司法省 | 留任 | ||
| 文部大臣 | 62 | 高橋誠一郎 | 民間 | 留任 | ||
| 厚生大臣 | 15 | 河合良成 | 衆議院 日本自由党 | 留任 1947年5月22日免[13] | ||
| - | 吉田茂 | 衆議院 日本自由党 | 臨時代理[13] (内閣総理大臣、外務大臣兼任) | 留任 1947年5月22日兼 | ||
| 農林大臣 | 6 | 木村小左衛門 | 衆議院 民主党 | 留任 | ||
| 商工大臣 | 28 | 石井光次郎 | 衆議院 日本自由党 | 留任 | ||
| 運輸大臣 | 6 | 增田甲子七 | 内務省 | 留任 | ||
| 逓信大臣 | 50 | 一松定吉 | 衆議院 民主党 | 留任 | ||
| 国務大臣 復員庁総裁 | - | 幣原喜重郎 | 衆議院 民主党 | 内閣総理大臣臨時代理 (副総理)[注釈 10][注釈 19] | 留任 | |
| 国務大臣 経済安定本部総務長官 | - | 高瀨荘太郎 | 参議院 無所属 | 国務大臣 (物価庁長官)兼任 | 留任 | |
| 国務大臣 物価庁長官 | - | 高瀨荘太郎 | 参議院 無所属 | 国務大臣 (経済安定本部総務長官)兼任 | 留任 | |
| 国務大臣 行政調査部総裁 | - | 齋藤隆夫 | 衆議院 民主党 | 留任 | ||
| 国務大臣 憲法改正担当 | - | 金森德次郎 | 民間 | 留任 | ||
| 国務大臣 | - | 星島二郎 | 衆議院 日本自由党 | 留任 | ||
| 国務大臣 | - | 田中萬逸 | 衆議院 民主党 | 留任 | ||
| ||||||
1947年(昭和22年)5月3日任命[2]。
| 職名 | 代 | 氏名 | 出身等 | 特命事項等 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 内閣官房長官 | (内閣官房長官未設置) | 1947年5月3日設置[注釈 17] | ||||
| 1 | 林讓治 | 衆議院 日本自由党 | 1947年5月3日任[注釈 17] | |||
| 法制局長官 | 47 | 入江俊郎 | 民間 | 留任 | ||
| 内閣官房次長 | (内閣官房次長未設置) | 1947年5月3日付設置[注釈 18] | ||||
| - | 周東英雄 | 農林省 | 1947年5月3日任[注釈 18] | |||
| ||||||
1947年(昭和22年)5月3日留任。
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 外務政務次官 | 本田英作 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 内務政務次官 | 林連 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 大蔵政務次官 | 北村德太郎 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 司法政務次官 | 北浦圭太郎 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 文部政務次官 | 青木孝義 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 農林政務次官 | 森幸太郎 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 商工政務次官 | (欠員) | ||
| 運輸政務次官 | 逢澤寛 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 厚生政務次官 | 小笠原八十美 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 逓信政務次官 | 中川重春 | 衆議院/民主党 | 留任 |
1947年(昭和22年)5月3日留任。
| 職名 | 氏名 | 出身等 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 外務参与官 | 原健三郎 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 内務参与官 | 水田三喜男 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 大蔵参与官 | 高橋英吉 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 司法参与官 | 吉田安 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 文部参与官 | 川崎秀二 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 農林参与官 | 本間俊一 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 商工参与官 | 鈴木仙八 | 衆議院/日本自由党 | 留任 |
| 運輸参与官 | (欠員) | ||
| 厚生参与官 | 寺島隆太郎 | 衆議院/民主党 | 留任 |
| 逓信参与官 | 坪川信三 | 衆議院/民主党 | 留任 1947年5月23日免 |
| (欠員) | 1947年5月23日から | ||
※ 内閣発足当初(前内閣の事務引継は除く)。
| 名称 | 勢力 | 国務大臣 | 政務次官 | 参与官 | その他 |
|---|---|---|---|---|---|
| しゆう自由党 | 141 | 4 | 6 | 3 | 内閣書記官長 |
| しんほ進歩党 | 94 | 3 | 3 | 6 | 衆議院議長 |
| かんりよう官僚 | - | 3 | 0 | 0 | |
| けんきゆうかい研究会 | - | 1 | 0 | 0 | 貴族院議長 |
| とうせいかい同成会 | - | 2 | 0 | 0 | |
| とうせいかい同和会 | - | 0 | 0 | 0 | 法制局長官 |
| みんかん民間人 | - | 2 | 0 | 0 | |
| - | 235 | 15 | 9 | 9 |
昭和21年(1946年)4月10日、幣原内閣の下で行われた戦後最初の第22回衆議院議員総選挙では、どの政党も過半数の議席を得ず、戦前の保守二大政党の後継である日本自由党と日本進歩党、GHQの親社会主義的傾向の時流に乗って躍進した日本社会党の三党鼎立の状況となる(定数466、自由党141、進歩党94、社会党93、その他138)。第二党の進歩党は、戦前の旧立憲民政党時代に永く外相をつとめた幣原喜重郎首相を党総裁に迎えての与党入りを画策するが[注釈 20]、輿論は戦前以来の憲政の常道に反するとして反発、他党が非協力の態度をとり安定的な政権運営はとれないとして、内閣総辞職を決断。幣原首相は進歩党総裁の座は引き受けた上で、第一党の自由党へ首班を譲ること、進歩党も連立等の協力を惜しまないことを表明した。自由党の鳩山一郎総裁は、自進社三党による大連立を望んでいたが、社会党は、保守政党である自進両党との連立を肯定する右派と、日本共産党と共闘しての革新政権を目指す左派との間で執行部が二つに割れ、「自由党単独与党の場合に限り、好意的閣外協力」との立場をとることを決める。
ところが、鳩山総裁が選挙中、「国民諸君は民主戦線の名に隠れて共産主義の爪牙を磨く虎視眈々たる事実を忘れてはならぬ」という声明書を発したのに革新派のメディアや運動家が噛みつき、鳩山総裁の戦前の立憲政友会時代の反革新主義的ふるまい[注釈 21]もあわせて、GHQ内部でも問題視される。それでも5月3日、幣原首相は鳩山総裁を次期首相に奏請するが、承認を求められたGHQは、鳩山総裁の公職追放を発す[15]。
残された幣原首相と社会党の片山哲委員長は、次期政権の枠組みについて協議を再開したが、社会党が共産党との交渉を行った再び混乱している最中に、自由党はいそぎ後継総裁の選定を行う。鳩山総裁はまずは旧政友会の重鎮であった古島一雄を推したが、古島は高齢を理由に固辞。かわりに古島は吉田茂外相を推し、党の説得を受けた吉田は、「政党の人事は鳩山、政府の人事は吉田が行い、干渉しないこと」「金策については吉田の手を煩わせないこと」「吉田が辞意を示した時は、これを引き留めないこと」という3条件を示して、引き受けることを決定した[注釈 22][16]。
結局、吉田は鳩山の代理の形で、5月16日に大命降下。進歩党も連立に加わり、保守二大政党の連立の形で政権運営されることとなった[17]。
ゼネストを巡り社会が混乱していた1月、吉田首相は、社会党を再び政権に取り込むことを目論み、社会党の西尾末広書記長と交渉を数次にわたり行ったが、左派を説得することができず、交渉は破綻する。一方、進歩党の内部では、外様として担いでいた幣原総裁への反発が強まり、次なる党首として、自由党内で吉田総裁と折り合いがよくなかった芦田均政調会長の一本釣りを画策。三顧の礼で迎え入れられる形で芦田は脱党。3月31日、解党した進歩党と芦田系自由党、その他中道政党や小会派の議員の合同により、民主党が結党され、衆議院第一党となった[19]。
第23回衆議院議員総選挙(1947年4月23日投開票)の結果は、定数466、社会党143、自由党131、民主党124、その他68となり、三党鼎立状態は継続する。第一党を喪った吉田首相は下野を決断し、社会党の片山委員長が革新政党から初の首班に選ばれる。