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第二次中東戦争 (だいにじちゅうとうせんそう、ヘブライ語 :מלחמת סיני 、アラビア語 :العدوان الثلاثي )は1956年 10月29日 から同年11月6日 にかけての戦争 であり、イスラエル 、イギリス 、フランス とエジプト との間で勃発した。またその経緯から「スエズ戦争」や「スエズ動乱」などとも呼ばれる[ 1] 。
当時のガマール・アブドゥル=ナーセル (ナセル)率いるエジプトは、1956年6月の駐留イギリス軍完全撤退に続きスエズ運河 の国有化 を宣言した[ 1] 。それに対してイギリスとフランスはかねてエジプトと対立していたイスラエルとセーブル協定 と呼ばれる密約 を結び、エジプト攻撃への共同参戦を計画した。そして同年10月29日、イスラエル国防軍 がエジプトに侵攻。シナイ半島 を占領 した。次いで10月31日に「国際運河の安全保護」を口実とした英仏軍も侵攻を開始し、スエズ運河地帯を占領して同国への空爆 も開始した[ 1] 。だが、エジプト軍民の強烈な抵抗と国際世論 の激しい非難に直面し占領は失敗。国際連合 も即時停戦 を決議し、英仏軍は同年12月までに、イスラエル軍は翌年3月までに撤退する事となった[ 1] 。
スエズ運河はフランス およびエジプト政府 による資金援助で1869年 に開通した。しかし、この建設費負担の為にエジプトは財政破綻し、エジプト政府保有株はイギリス に譲渡された。エジプトはイギリスの財政管理下におかれ、後に保護国 となった。運河はイギリスにとってインド 、北アフリカ および中東 全体への戦略上重要な地点であり、その重要性は2つの世界大戦によって証明された。第一次世界大戦 時、運河は英仏によって同盟国 側の船舶通航が禁止された。第二次世界大戦 時は北アフリカ戦役 において粘り強く防衛され、連合国軍 のレンドリースを含めた物資輸送や兵力の輸送に利用され、戦局に貢献を与えた。
1952年 に軍事クーデター で政権を掌握した自由将校団 は、ムハンマド・ナギーブ 将軍 を大統領 に擁立すると、翌年に国王フアード2世 を退位させ共和制 へと移行させた。また、スエズ運河地帯に駐留していたイギリス軍 を撤退させる協定を結ばせる一方で、冷戦 構造において米 ソ 二大国のどちらにも関わらない非同盟主義 にたつなどアラブ世界 の糾合に努めた。しかし、アメリカがイスラエルへの配慮からエジプトへの武器供与に消極的だったこともあり、1955年 9月27日 に東側諸国 のチェコスロバキア と兵器協定を締結して新式の兵器を購入すると(エジプト=チェコスロバキア武器取引 (英語版 ) )、中東における軍備供給の独占を崩された西側諸国 との代理戦争 の様相を呈し、フランスは対抗措置として最新の戦闘機 をイスラエルに売却し、アメリカやイギリスなどからアスワン・ハイ・ダム 建設資金の世界銀行 の融資を撤回されるという報復を受けた[ 3] 。こうした中、1956年に大統領に就任したガマール・アブドゥル=ナセル は、7月26日 にスエズ運河の国有化 を行なった[ 4] 。
このナセルのやり方に憤慨したイギリスのアンソニー・イーデン 首相 は運河の国際管理を回復するために数ヶ月間に渡りエジプトとの交渉を続けたが、結実は成せず、フランスと協力してエジプトへの軍事行動を構想し始めた[ 5] 。
また、フランスは当時アルジェリア戦争 においてエジプトがアルジェリア民族解放戦線 に対する各種援助を提供する実質上の庇護者であると誤解し、ナセル政権を打倒することこそがアルジェリア における紛争終結に結びつくと考えた。
7月から8月 にかけてパリ とロンドン を訪問したイスラエルのシモン・ペレス 国防相はイギリスとフランスがエジプトへの軍事行動を本格的に考えていることを知り、9月 半ばに再びパリへ赴き、戦争に備えるための武器の調達に奔走した。フランスはイスラエルへの武器提供を積極的に支援し、ペレスはフランスのイスラエル支持の姿勢を確かめることになった[ 6] 。
英仏両国政府はエジプトに侵攻してスエズ運河地帯の確保を画策したが、第二次世界大戦以後、かつてのような侵略 目的の戦争は非難を浴びる社会となっていたことから、英仏が目をつけたのが第一次中東戦争 でエジプトと敵対していたイスラエルであった(エジプト革命の際にイスラエルはエジプトを攻撃しており、これに激怒したナセルは、イスラエルのインド洋 への出口であるアカバ湾 と紅海 をつなぐチラン海峡 を軍艦 をもって封鎖していた。これによってイスラエルは経済 に打撃を受けていた)。スエズ運河の利権を確保するために軍事行動の口実を探していた英仏と、チラン海峡における自国船舶の自由航行権を確実なものとするためにエジプト軍 をシナイ半島 から追い払いたいイスラエルは利害が一致した。
ナセル政権打倒で一致していた三国による共同軍事行動をまとめたのは、フランスであった。
10月フランスは、自国の軍用機を派遣してイスラエル側の代表をフランスまで招いた。三国の代表は10月22日 - 24日にかけてパリ郊外のセーブルで秘密会談を行った。イギリスからは外相ロイド、フランスから首相モレ、外相ピケ、イスラエルから首相ベングリオン、外相ペレス、軍参謀総長ダヤンが参加した。三国共同軍事作戦は以下のように遂行されることに決定された。『英仏の海軍艦隊が地中海のエジプト沿岸で待機しイスラエルによる侵攻を待つ。10月29日19時(イスラエル時間)イスラエルがシナイ半島へ侵攻したところで、英仏政府が兵力引き離しのためにイスラエル・エジプト両国に軍をシナイ半島から撤退するように通告する。侵攻されたエジプトは通告を拒否するので、通告から12時間経過した時点でスエズ運河の安全航行確保を名目に英仏軍が介入し、エジプト軍をスエズ運河以西へ駆逐する。スエズ運河地帯を兵力引き離しのための緩衝地帯に設定して平和維持を名目に英仏軍が運河地帯に駐留し、イスラエルはシナイ半島を占領する。』[ 7] 。
このため、イスラエルはフランスから多くの軍事援助を受け取っている。AMX-13 戦車250両を獲得したほか、援助の75mm対戦車砲を搭載したM50スーパーシャーマン 50両も整備された[ 8] 。
イスラエル軍の侵攻ルート 1956年10月29日 午後5時(当初の予定より2時間繰上)、イスラエル国防軍 ラファエル・エイタン 中佐 指揮の落下傘部隊 395人が国境を越えて、シナイ半島のスエズ運河から72km の地点のミトラ峠 に降下し、侵攻を開始した(シナイ作戦)[ 9] 。
イスラエル陸軍 は、10個旅団の兵力で3箇所からシナイ半島に侵攻し[ 10] 、アリエル・シャロン 大佐 の落下傘部隊・第202空挺旅団もイスラエル国境から砂漠を横断する補給路の確保のため陸路シナイに入っている。エジプト軍は、シナイ半島東部やガザ地区 に、歩兵2個師団・機甲1個旅団などを配置していた[ 10] が、各所で撃破されている。
第一次中東戦争のときとは違い、英仏の兵器で重武装したイスラエル軍に対してエジプト軍は防戦一方となり、撤退を繰り返した。
10月30日 午後、ロンドンでイギリス政府 により、スエズ運河から少なくとも10マイル (16km)内陸に入った地点まで兵力を撤収するよう最終通告がイスラエル、エジプト両国代表に手渡された。この時点でエジプトは運河を完全に占拠しており、イスラエル軍はそこから約50kmの地点にいたため、この通告は事実上エジプトに対する運河からの退去命令であり、英仏の目論見によるものであった[ 9] 。
ナセルは苦しい立場におかれたが、結局通告を拒否して徹底抗戦の意思を表し、エジプト軍は、スエズ運河を物理的に通航不能にさせる実力行使に出た。すなわち、艦船を運河に沈めてバリケード を築いたのである。
10月31日 の早朝、エジプト海軍のフリゲート艦 イブラヒム・アル・アウワル (旧英海軍 ハント級駆逐艦 )からの砲撃 がハイファ に向けて行われたが、フランス海軍 の駆逐艦 クレセントの迎撃や、イスラエルのウーラガン戦闘機 2機、駆逐艦エイラート とヤッフォの攻撃により、イブラヒム・アル・アウワルは被弾、発電機 等が破壊された。そのため、イブラヒム・アル・アウワルは降伏し、ハイファ港に曳航された[ 9] 。同日には英仏軍によるエジプト領内への爆撃 も開始されている。
通告の回答を保留したイスラエル軍は単独でエジプト軍との地上戦を続けた。シャロンはエジプト側の防御の硬いミトラ峠 を攻略しないよう参謀総長モーシェ・ダヤン に命じられていたが、「偵察隊」と称してモルデハイ・グル少佐 の指揮する部隊(一個大隊相当、更に一個大隊を増援[ 10] )を送り込み、この部隊はエジプトの待ち伏せに遭うことになった。38人の死者を出したものの峠は攻略され、エジプト側の死者は200人を超えた。この作戦に関してダヤンとシャロンは激しく批判され、2人の確執を生むこととなった[ 11] [ 12] 。
11月2日 までに、イスラエルは途中ソ連製戦車 T-34 など戦利品を獲得しながらスエズ運河の東15kmの地点までたどり着いた。同じく11月2日 に10,000人以上のエジプト軍人が駐屯するガザ地区にも攻撃を加えた、同日中に国連 の調停によりガザ地区のエジプト軍政官が降伏した[ 10] 。
11月1日 からは空母 イーグル (英海軍オーディシャス級 )、アルビオン 、ブルワーク (2隻とも英海軍セントー級 )、アローマンシュ (仏に売却された旧英海軍コロッサス級 )、ラファイエット (旧米海軍 インディペンデンス級 )と戦艦 ジャン・バール (仏海軍リシュリュー級 )からなる英仏機動部隊 がエジプト領内への空襲 を開始し制空権 を確保した[ 13] 。
英仏軍は11月5日 、シナイ半島への侵攻を命じた。さらにイギリス軍 は落下傘部隊を以て、スエズ運河西岸ポートサイド のエジプト軍を急襲した。6日 からは戦艦や巡洋艦 の艦砲射撃 の援護のもと上陸作戦 を開始した。
三国による侵略は、国際社会から強い非難を浴びた。
アメリカは、植民地主義的侵略に同意しなかった。7月末の危機発生以降、終始軍事行動に同意を表明せず、外交的解決を図った[ 14] 。侵略を行った三国には経済的圧力をかけ、また国連での即時停戦に関する決議を主導した[ 15] 。
10月31日国連では、拒否権 行使が無効である手続事項に関する[ 16] 国際連合安全保障理事会決議119 が採択された。この決議ににより、平和のための結集決議 に基づく特別緊急総会 が招集された。この総会では英・仏・イスラエルに対し即時停戦撤退を求める総会決議997が11月2日に採択された。この国連総会決議を無視する形で、イスラエル軍はシナイ半島での攻撃を継続し、11月5日英仏軍はポートサイド等にパラシュート部隊を投下した。翌6日には英仏軍はポートサイドに上陸した[ 17] 。
ソ連は、エジプト支援よりもハンガリー民主化 への弾圧 を優先させた。11月4日からソ連軍 はブダペスト での民主運動鎮圧を開始し、アメリカを始め西側諸国から厳しい批判を受けた。鎮圧後11月5日に英仏イスラエルに「核兵器 による威嚇」を発した[ 18] 。
アメリカ・国連・ソ連により圧力を受け、エジプト、イスラエルが停戦に応じ、上陸当日の11月6日に英仏は停戦受諾に追い込まれた。11月7日午前2時(カイロ時間)停戦が発効した[ 19] 。
イスラエル軍の撤退後、休戦ラインのエジプト側にはPKO として第一次国際連合緊急軍 (UNEF)が展開された[ 20] 。これは当時のカナダ のレスター・B・ピアソン 外相の提案であり、ピアソンは翌年にノーベル平和賞 を受賞した。
スエズ運河を建設したフェルディナン・ド・レセップス の銅像 。1899年 にポートサイド港に建てられたが、停戦後の12月22日に爆破・撤去された[ 21] 。 結局英仏はスエズ運河を失い、イギリスのアンソニー・イーデン 首相 は敗戦の責任をとらされる形で辞職した。アメリカはナセルをこれ以上追い詰めて、ソ連が介入してくることを恐れたが、一方で英仏軍の撤退によってアメリカが欧州 に対して圧倒的優位であることを世界に誇示できた。
イスラエルは率先して戦いを仕掛けたとして国際社会、主にアメリカから非難された。ジョン・フォスター・ダレス 国務長官 は経済制裁 を示唆し、イスラエルは上級特使としてハイム・ヘルツォーグ とゴルダ・メイア をアメリカに派遣した。首相 兼国防相のベン=グリオン は右派 政党の批判を抑えながら撤退を完了した[ 22] 。
11月24日侵略を行った三国に「即時無条件撤退」を求める国連総会決議が採択された。英仏はこれを受け入れ、12月21日無条件撤退を完了した。イスラエルは撤退と交換にチラン海峡 の自由航行の確保等を目論み、無条件撤退に応じなかった。このようなイスラエルの非妥協的な姿勢は国際社会から激しく批判された。国連やアメリカとの厳しい交渉の末、チラン海峡の自由航行を事実上確保したイスラエルが、シナイ半島からの撤退を完了したのは1957年3月7日であった[ 23] [ 24] 。
エジプトは国有化宣言を実行できた上に、イスラエルと英仏に対して正面から戦ったことでアラブから喝采を浴び、中東での発言力を確固たるものとした。ナセルは翌1957年1月に国内の英仏銀行の国有化を宣言し、エジプト国内の欧州勢力を一掃して4月にはスエズ運河の通航を再開した。
他方で、英仏は惨憺たる結果で、イギリスは戦費として5億ポンド 近く出費したが戦果は得られず、それどころかポンドが大幅に値下がりし、一時スターリング圏が崩壊寸前まで至った。それが原因でアメリカに対して経済的立場が弱くなり、以降は追従せざるを得なくなった。フランスもこの戦争で得たものはなかったが、米ソ以外の新しい勢力として、ド・ゴール主義 を根幹とする新しい外交政策を創り出した。
スエズ運河が封鎖を受けたことで西側諸国の船舶には不足が生じた。これを補うためアメリカの国防予備船隊 から、223隻の貨物船 と29隻のタンカー が現役復帰し民需輸送に従事した[ 25] 。
戦艦:ジャン・バール 航空母艦:アローマンシュ/F4U-7コルセア艦上戦闘機×16機、TBM-3Wアベンジャー艦上早期警戒機×8機 航空母艦:ラファイエット/F4U-7コルセア艦上戦闘機×20機、TBM-3Wアベンジャー艦上早期警戒機×25機 巡洋艦・フリゲート・駆逐艦 潜水艦:クレオール 第10降下猟兵師団(10e DP) 第2植民地歩兵連隊(2e RPC) 第11パラシュート連隊 第1外人落下傘連隊(1er REP) コマンドー・ジョーバート コマンドドモンフォール コマンドーデペンフェンテニョ コマンドーヒューバート 第2外国騎兵連隊2個戦車隊(AMX-13軽戦車装備) 2個戦車連隊(M47パットン戦車装備) あるサッパー会社。
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