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| 淞滬会戦 | |
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第二次上海事変でのガスマスクを装着した日本海軍の上海特別陸戦隊。 | |
| 戦争:日中戦争 | |
| 年月日:1937年8月13日 -11月12日[1] | |
| 場所: | |
| 結果:日本軍の勝利、中国軍は上海から撤退[3] 。 | |
| 交戦勢力 | |
水陸両用作戦: | |
| 指導者・指揮官 | |
| 戦力 | |
| 人員200,000人[4] | 人員500,000人[4] |
| 損害 | |
| 戦死9,115[5] 戦傷31,257[5] 第9師団は1937年9月から12月にかけて3万人の死傷者を出したが、そのほとんどは第二次上海事変中に発生した。[6] 中国側主張 戦死傷者10万人以上[7] 1937年8月23日から11月12日までの大日本帝国陸軍:あらゆる原因による死亡者少なくとも19,164人[8][9]
| 戦死187,200[10] 戦傷83,500[10] |
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第二次上海事変(だいにじシャンハイじへん、英:Battle of Shanghai、繁:淞滬会戦、簡:淞沪会战)、あるいは上海の戦い(シャンハイのたたかい)[11][12]は、1937年(昭和12年)8月13日から始まった、国民革命軍と日本軍との軍事衝突[注釈 1]。
近衛内閣が「支那軍の暴戻(ぼうれい)を膺懲(ようちょう)し(暴支膺懲)、南京政府の反省を促す[注釈 2]」という声明とともにそれまでの不拡大方針を転換[13]、北支事変は支那事変へと拡大し日中全面戦争に発展した[14][15][16][17][18]。
1937年9月2日、北支事変が支那事変に改称されたことにより、上海事変はその一部となった[19]。

1935年冬、国民政府は、南京・上海方面の「抗戦工事」(陣地)の準備を張治中に密かに命令し、優勢なる兵力をもって奇襲し上海の日本軍を殲滅しこれを占領し、日本の増援を不可能にしようと企図した[20]。このため、上海の各要地に密かに堅固な陣地を築き、大軍の集中を援護させ、常熟・呉県で洋澄湖・淀山湖(中国語版)を利用し、主陣地帯(呉福陣地: 呉県と福山(中国語版)の間)と後方陣地帯(錫澄陣地:江陰と無錫の間)[20]、淞滬線:呉淞と竜華の間、呉県から嘉興を通って乍浦鎮の間(呉福延伸線)にトーチカ群が設置された[21]。長江沿いに対日戦のための要塞線は、「ヒンデンブルク・ライン」と称された[22][23][24][25]。
1936年、幹部参謀旅行演習を実施し、竜華・徐家匯・紅橋・北新涇・真茹(中国語版)・閘北停車場・江湾・大場江湾・大場(中国語版)の各要点における包囲攻撃陣地の構築、呉福陣地の増強、京滬鉄道の改修、後方自動車道路の建設、長江防備と交通通信の改善、民衆の組織訓練等を行った[20]。
1936年末頃から、1932年の上海停戦協定に違反して、保安隊と称する中央軍を滸浦口(碧渓街道(中国語版))-安亭-蘇州河-黄浦江-揚子江に囲まれた非武装地帯に侵入させ陣地を構築していた[26]。北支事変勃発後、中・南支の情勢が逼迫するなか、上海附近の兵力を増強し、頻繁に航空偵察を実施していた[26]。
1936年4月1日、ドイツ軍事顧問団の第五代団長ファルケンハウゼン中将は、蔣介石あての「極秘」報告書で「ヨーロッパに第二次世界大戦の火の手があがって英米の手がふさがらないうちに、対日戦争にふみきるべきである」と進言した[27][28]。中将は、中国の第一の敵は日本、第二の敵は共産党であり、日本との戦いの中で共産党を「吸収または消滅」させるのが良策であると判断していた[29][28]。中将は、それまでは中国の防衛問題に関する助言しか与えていなかったが、1936年のメモを皮切りにもっと強い主張をするようになり、その中で日本側に奇襲をかけ、日本軍を長城の北方へ押し返し中国北部から追い出すことを提案した[30]。
京滬区の軍事責任者に就任した張治中は、1936年に「上海包囲攻撃計画」を立案し、上海周辺の日本軍への先制攻撃の準備を進めた[31]。ファルケンハウゼン中将は、北海事件の直後の9月12日、「ただちに河北省に有力なる部隊を派出し、空軍の掩護のもと所在の日本軍に先制攻撃を加え、河北省を奪還すべきである」と提案した[32][28]。蔣介石は、提案を採用しなかったが、9月18日、「戦事一触即発之勢」と判断し、軍政部長何応欽に「準備応変」を指令した[32]。10月1日、中将は、軍事委員会弁公庁副主席劉光を通じて、漢口・上海の租界地の日本軍を奇襲して開戦の主導権を握るよう提案したが、何応欽は時期尚早である旨を述べるとともに、「ファルケンハウゼンの熱心さはわかるが、外人顧問は外人顧問であり、無責任な存在にとどまる、国運を委ねるべき相手ではない」とも指摘した。蔣介石は「加仮我一年之準備時期、即国防更有基礎矣」と判断し、10月8日、外交部長張群との交渉を前にした川越茂と会談し、10月22日、第六次剿共作戦を準備すべく西北剿匪副総司令張学良と会談するため、西安に飛んだ[33]。中将は、1937年4月3日、軍事委員会弁公庁副主席劉光に書簡を送り、すみやかに防衛態勢をととのえるべきだ、とくに隴海・京漢・津浦線の確保と青島・済南の要塞化、さらに塘沽・天津・北京に「奇襲進駐」をおこなう必要がある、と強調した[34]。
盧溝橋事件後、張治中は日本による陸軍の上海派遣、揚子江にある日本軍艦の上海への結集、日本による無理な要求の提出などの事態が発生した場合、主導権を獲得するため先制攻撃を発動するよう国民政府に提案した[35]。蔣介石は、提案の主旨を承認し、先制攻撃の態勢を作っておき発動の時機については命令を待つよう返電した[36][37]。8月13日以前に、中国側は既に先制攻撃を仕掛ける決断をしていた[35]。
中国軍はドイツ製の鉄帽、ドイツ製のモーゼルM98歩兵銃、チェコ製の軽機関銃などを装備し、第36師・第87師・第88師(英語版)(en)・教導総隊などはドイツ軍事顧問団の訓練を受けて精鋭部隊と評価されていた[38]。1937年8月6日、蔣介石は国際宣伝組織を結成するためCC団の陳立夫を上海に派遣した[39]。蔣介石は同日の日記(中国語版)に「毒瓦斯をもっていく」と書いており、実際に中国軍による毒ガスの散布は日本軍によって確認されている[39]。
8月12日、ドイツ国防相ブロンベルクは、訪独して武器購入に奔走していた国民政府財務部長孔祥熙に対し「中国への武器輸出を継続するためあらゆる努力をする」と約束した[40]。8月16日、ヒトラーは「中国との条約に基づいて輸出される物資 [武器] については、中国から外国為替ないしは原料供給で支払われる限り、続行せよ」と命じ、ドイツは日中戦争勃発後も対中国武器輸出を精力的に推進した[41]。
ファルケンハウゼンは、上海戦の指導にも関与しながら、蔣介石にも適宜戦況の報告や助言を行い[42]、ファルケンハウゼンが数日間、激戦の続く上海に滞在し自ら作戦を指導したことは、駐日大使ディルクセン(ドイツ語版)も知っていた[43]。ファルケンハウゼンの指導のもとに、70名以上のドイツ人は中国軍の各部隊と同行し、作戦を指導し、ドイツ人に訓練された部隊も日本軍に大きな損害を与えた。
同盟通信の松本重治上海支社長は、「上海の戦いは日独戦争である」と月刊誌『改造』に書いたが、そのところが削られて掲載された[44]。
第一次上海事変が起こった1932年(昭和7年)ごろから、上海では中国軍、日本軍両軍の関係は険悪であった。1935年11月9日には国民革命軍第19路軍(英語版)の支援を受けた秘密結社によって中山水兵射殺事件が発生[45][要非一次資料]、1936年9月23日には上海日本人水兵狙撃事件が発生した。
1937年(昭和12年)7月7日には盧溝橋事件が発生、7月11日かねてから帝国主義的態度を強めていた近衛首相はこれを中国側の計画的行動と断じ重大な決意をもって派兵増援をするとの声明を発表、閣議で事態を北支事変とした[46][47]。現地では停戦協定がいったん成立したものの、7月17日、近衛内閣は軍強硬派の要求により条件を追加して中国側に通告し、いれられない場合は武力行使することを決定した[48]。これに対し西安事件以来抗日気運が高まっていた中国側も強硬姿勢を示し、再び緊張が高まった[46]。続いて25日に郎坊事件、26日には広安門事件が勃発するに及んで、参謀本部から全面作戦行動の許可を得た香月軍司令官は同月28日に華北において全面攻撃を開始した[48]。
揚子江地域は列強の帝国主義的進出が激しく、また上海に租界があったこともあって、第一次上海事変のように反日運動の激しやすい土地であった。7月28日、日本政府は、揚子江沿岸に在留していた日本人約29,230名の引き揚げを訓令し、8月9日までに上海への引き揚げをほぼ完了した[26]。さらに、上海への危険が増加したため、奥地からの引揚者及び上海居留民約3万名の内婦女子約2万名が8月13日から19日頃までに帰国し、約1万名が残留した[49]。
盧溝橋事件以降、対中戦には、日本陸軍は慎重派と積極派で割れていた。海軍も米内海相は慎重派であったが海軍の大勢は対中全面作戦の準備はすべきというもので、現地の第三艦隊司令長官長谷川清中将は積極的姿勢で陸軍5個師団の出動を要請するほどであった[48][50]。
1937年7月23日、南京に停泊中の日本海軍駆逐艦栂に対して中国軍機が低空飛行で接近したため日本側が抗議を行った[51]。
1937年7月24日夜、宮崎貞夫一等水兵が中国人に拉致された。在留邦人から報告されると上海特別陸戦隊は警備配置につき、調査を開始したが、これに対し中国保安隊は日本側に対抗するように要所ごとに土のうを積上げ、鉄条網を張り巡らすなどした[52]。上海市長兪鴻鈞が直ちに岡本季正上海総領事に連絡を取った。[要出典]日本側はこの事件に即応したが、宮崎の逃亡の可能性を疑い、7月25日の午前4時には警戒配備を終了し、中国側も防備を撤収した。27日に宮崎一等水兵は靖江にて入水自殺未遂を起こしたところを中国官憲に確保され日本側に引き渡された[52]。
早期の時局収拾を目指した日本は船津辰一郎元上海総領事を上海へ派遣した[53]。
一方で、居留民の上海への避難がほぼ完了した1937年8月8日、長谷川第三艦隊司令長官は、事態拡大に対応する一切の準備を迅速に行うよう麾下の部隊に指示している[54]。翌9日夕刻、上海海軍特別陸戦隊西部派遣中隊長の大山勇夫海軍中尉と、斎藤與蔵一等水兵が中国保安隊に射殺される事件(大山事件)が起こり情勢が緊迫。12日、日本海軍は陸軍の派兵を要請、13日、近衛内閣は内地2個師団派兵を決定した[19]。同13日、朝から散発的な小競り合いが起きていたが、夕刻から継続的な地上戦に発展した[55][53]。
防衛省防衛研究所の岩谷將によれば、日本軍が北支を総攻撃し南下してきたことにより中国側は武漢まで攻略されることを恐れ、揚子江下流域を主戦場と目し、黄浦江南岸を固め、大山事件で上海の緊張が高まったことにより、上海の包囲攻撃を決めたとする[56]。8月11日、日本は、保安隊の撤退と防備施設の撤去を要請したが、南京の軍事委員会は張治中に対し、所属の87師長王敬久と88師長孫元良の部隊を蘇州から上海包囲線へ推進するよう命じ[57]、呉松と上海に駐留する日本軍の掃討を準備し、その拠点の排除を目論んだ[58]。蔣介石は、日本軍艦が上海周辺海域に集中していることを知り、呉沿口を封鎖することを決め、中国海軍は揚子江の江陰水域を封鎖した[59]。中国側では、大本営に当たる国防最高会議を11日に設けて作戦・指揮の最高責任者を蒋介石と定め、12日には上海での事態の進展と北支での戦闘拡大・継続を受けて国民党中央常務会議の秘密会で戦時状態に入ったと認めめ、15日に全国に動員令がかけられた[60]。蒋介石がかねて語っていた最後の関頭に少なくとも北支では達したとされたわけである。日本側は12日、海軍軍令部は陸軍派兵を要請、翌13日、近衛内閣は内地2個師団派兵を決定した[19]。
張治中は、「午前2時、急 南京、蔣委員長、部長何鈞鑑:1120密。本軍は、淞滬間の日軍を掃討する目的の貫徹に従った。すなわち十一日夜に準備しておいた列車と自動車で現有の軍隊を輸送し、重点を江湾、彭整(彭浦)付近に置いて、敵に猛攻を加え、敵軍の根拠地に進攻、占領して殲滅するつもりである。(以下略)」[61]との電文を発し、部隊を上海包囲攻撃線へ進め、江湾・彭浦(中国語版)に重点的に配備した[62]。
日本軍は、上海陸戦隊2200、漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300、呉と佐世保から送られた特別陸戦隊1200、出雲の陸戦隊200、他320の計4千人あまり[63]、せいぜい日本軍の兵力は5千人程度だったとする資料が多い。中国側は、12日には二個師団が上海北停車場に到着、共同租界の外の四川路にあった日本海軍陸戦隊本部を囲むように布陣、すでに本来非武装地帯であった揚子江沿いの上海東部に集めて陣地を構築していた部隊などと合わせて約5万程度とみられた[60]。このため、日本領事は国際委員会を再び招集し、中国軍の撤退を要求した。しかし上海市長兪鴻鈞は、日本側が八字橋に部隊を配置して1932年の協定を破って無効にしたものとし[64]、中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に兪鴻鈞は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだとした。一方、日本は上海近辺での中国の派兵の全ての責任は中国側にあるとした。上海市長兪鴻鈞は、日本側が八字橋に部隊を配置して1932年の協定を破って無効にしたものとし[64]、中国は既に侵略をうけているとの声明を発表し、最後に兪鴻鈞は、中国軍は攻撃されない限りは攻撃しないと、中国政府として認められるのはせいぜいそれぐらいだとした。他5か国の大使らは11日に通牒していた通り日中双方の軍撤去により上海を戦闘地域から外すことを求めた[64]。午後5時50分、日本海軍の第3艦隊が軍令部に、陸軍派兵を要請する電報を打った。午後8時40分、「動員が下されても到着まで2週間かかる。なるべく戦闘正面を拡大しないように」という電報が東京から返ってきた[65]。

日本側では、まず午前十時三十分商務印書館付近の中国軍が横浜路、宝山路交差点の日本軍陣地に機銃攻撃をしてきたので応戦、次いで午後五時八字橋方面の敵が、西八字橋、陽済路橋、柳営路橋を爆破砲撃してきたので応戦した、とされている[66][67]。もっとも当時の日本側報道では、午前9時15分頃には北四川路で便衣兵の射撃を受けた(当時、上海に便衣兵が活動していたのは確かだが、これが本来のゲリラか、偶々武器を保有する一般住民が日本軍への抵抗活動として行ったものかは不明である)、9時半には正規兵と交戦に入った、10時頃陸戦隊が寶興路や虹江路に進撃を開始した等とされている[68][69]。一方で、8月14日付《申報》によれば、8月13日午前9時15分ごろ、北四川路日本小学校から繰り出した陸戦隊70名~80名が虬江路口の横浜橋より宝山路付近の保安総団陣地に掃射し、淞滬鉄路を越えようと企図し宝山路へ直進した。これに対し保安総団は射撃を行い、約15~20分間の小競り合いの末陸戦隊が退却した、という[70][71][72]。午前9時過ぎには前夜の四相会議の決定を受けて陸軍増派が閣議決定していた[64]とみられる頃である。
午前10時半頃、商務印書館付近の中国軍も日本軍陣地に対し機関銃による射撃を開始した[73]。日本の陸戦隊は当初は進撃していたものの兵力に劣るため防衛中心の戦術方針を取った[73]。中国軍の攻撃対象は租界外の四川路にある日本海軍陸戦隊本部で、また戦闘被害を隣接した共同租界・フランス租界に拡大しないよう、両軍とも戦闘地域は限定的なものであったほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった[74][要検証 –ノート]。
戦後、上海での作戦を担当した張発奎は、上海ばかりは最初の一撃は中国から仕掛けたと語っている[55]。
8月13日午後4時54分には、八字橋[注釈 3]方面の中国軍第88師第523団第1営[70]が西八字橋、済陽橋、柳営路橋を爆破、砲撃を行い、日本軍と交戦した。これが第二次上海事変の本格的戦闘の開始とされているが、このときどちらが先制攻撃をかけたかについては日中双方で見解が分かれている[76]。午後5時には大川内上海特別陸戦隊司令官が全軍の戦闘配置を命令し、戦闘が開始された[73]。
双方とも大型砲は持たず、せいぜい歩兵の持つ小型砲、速射砲、陣地破壊用の迫撃砲、擲弾砲で、小銃・手榴弾による肉弾戦が多く、約5千ほどの少数の日本海軍陸戦隊が不利であったが、陸戦隊に中国軍にない戦車・装甲車があったこと、第三艦隊航空部隊の空からの支援により陣地を持ちこたえていたという[77]。
この日、英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。


13日午後9時頃から国民党軍が帝国海軍上海特別陸戦隊への総攻撃を開始し戦闘に突入した。当時、上海居留民保護のため上海に駐留していた陸戦隊の数は多めに見ても5千人であったのに対し、国民党軍はすでに無錫、蘇州などですでに20万人以上が待機していた[78]。同日夜には日本海軍が渡洋爆撃命令を発令している[79]。
8月14日、中国は抗日自衛を宣言[80]、張治中は、蒋介石に午後5時より(全面)攻撃を開始する旨、通知した[55]。
8月13日夜から中国軍爆撃機による威嚇飛行が行われていたが、8月14日9時50分頃に日本軍が高射砲攻撃を開始、中国軍機はいったん引き揚げたものの10時20分ごろ戻ってきてついに爆撃を開始した。日本艦艇をねらったとされる国民党軍機による空襲も行われた。この爆撃によって投下された爆弾の幾つかが周辺のフランス租界・国際共同租界を誤爆、パレス・ホテルとキャセイ・ホテル前の路上に着弾し、729人が即死し、861人が負傷した[81]、数分後には婦女子の避難所となっていた大世界娯楽センター(英語版)の前に爆弾が落ち1,012人が死亡し、1,007人が負傷した[81]。民間人3000人以上の死傷者が出た事に対し[81]、国民党政府は遺憾の意を表明した。一方で、日本側の高射砲による対空砲火の榴散弾の弾丸や砲弾の破片の落下による租界住民の被害も起こっており、さらに日中いずれによるか不明の百貨店誤爆事件も生じ、租界への誤爆や被害はその後も発生、やがて日本軍による上海南駅の爆撃破壊とそれによる多数の民間人の死傷事件が発生した。
一方、前日の渡洋爆撃命令を受けて、日本海軍も台湾の航空基地より爆撃機を飛ばして、杭州や広徳を爆撃している。九州から南京への渡洋爆撃も予定されていたが、九州の天候が悪かったため延期された[79]。
近衛内閣は、13日米内海相の要請で上海居留民保護のためとして陸軍3個師団の派兵を決め[50]、国民党軍が上海で日本側に対する砲撃、日本の軍艦に対する爆撃まで行ったことから14日夜から緊急閣議を開き、それまで日本側が取ってきた事態の不拡大政策を見直し、8月15日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した[13]。石射猪太郎は、14日の日記に、陸戦隊は日本人保護の使命を吹き飛ばして今や本腰に喧嘩だと書いている[82]。
8月15日、日本海軍は、前日に延期された九州から南京への航空機による渡洋爆撃を開始する[77]。中国軍を侮って戦闘機の護衛なしに出撃したある攻撃隊は、米国製をそろえた中国空軍に9機中8機を撃墜されたが、このようなことは日本では報じられず、渡洋攻撃の成功ばかりが報じられた[77]。同日、第3師団と第11師団に動員命令が下り、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる[77][48]。
第87師、第88師の2個師であった中国軍は、15日になると、第15師、第118師が加わり、17日には第36師も参戦し、7万あまりとなった。日本側は、横須賀と呉の特別陸戦隊1400名が18日朝に、佐世保の特別陸戦隊2個大隊1000名が19日夜に上海に到着し、合わせて約6300名となった[83]。
8月19日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は10倍ほどの精鋭を相手に、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蔣介石は後日、「緒戦の1週目、全力で上海の敵軍を消滅することができなかった」と悔やんだ[84]。
8月23日、上海派遣軍の2個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で上陸に成功した。支援艦隊の中には、第六駆逐隊司令官として伏見宮博義王中佐も加わっていた[85]。9月上旬までには上海陸戦隊本部前面から中国軍を駆逐する。同時期に中国側は第二次国共合作を成立させ、日本側は華北で攻勢に出るなど、全面戦争の様相を呈した。しかし、中国軍の優勢な火力とドイツ軍事顧問団によるトーチカ構築と作戦によって、上海派遣軍は大苦戦し、橋頭保を築くのが精いっぱいで、上海市街地まで20キロかなたの揚子江岸にしばられた。中国軍の陣地は堅固で、中国兵は頑強だった。依然として、特別陸戦隊は数倍の敵と対峙しており、居留民の安全が確保されたわけはなかった。8月26日、南京駐在英国大使ヒュー・ナッチブル=ヒューゲッセン(英語版)が銃撃を受けて重症を負い、同行の大使館職員が日本海軍機の機銃掃射によるものであると主張したが、日本海軍が自軍による機銃掃射を否定したため、イギリスの対日感情が悪化した。8月30日には海軍から、31日には松井軍司令官から、陸軍部隊の増派が要請された[86]。石原莞爾参謀本部第1部長が不拡大を名目に派兵をしぶっていたが、9月9日、台湾守備隊、第9師団、第13師団、第101師団に動員命令が下された。9月末までで第11師団は戦死者1560名、戦傷者3980名、第3師団は戦死者1080名、戦傷者3589名であった。9月27日、石原部長の辞職が決定した[87]。10月9日、3個師団を第10軍として杭州湾から上陸させることを決定した[84]。


10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始[要出典]、2日後には各所で突破に成功した。10月26日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場鎮を攻略し、翌27日、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた[88]。大場鎮を落として、上海はほぼ日本軍の制圧下になったが、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており、第3師団と第9師団は強力なトーチカのため、進めなかった[89]。
11月5日、上海南方60キロの杭州湾に面した金山衛に日本の第10軍が上陸した。上陸しても、中国軍の攻撃はほとんどなかった。11月6日、「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが上海の街に上げられると、蘇州河で戦っている中国軍は、第10軍によって退路が絶たれるかも知れず、大きく動揺した。11月9日、中国軍は一斉に退却し始めた。後方にあった呉福線や錫澄線の陣地は全くの無駄になった[84]。
日本軍の損害は、上陸から11月8日までで戦死9115名、負傷31257名に達した[90][91]。続く南京への追撃戦で戦死傷者18,761(第9師団のみ)、南京戦で6,177、合計65,310の損害となった[91]。
増援を得て戦局転換後、中国軍は6日夜から突出戦線から撤退を始め、前線の浦東ついで南市、龍華を放棄、西方に向かい、9日蘇州湾南岸の部隊も退却、8日夜以降入れ替わるよう日本軍が進み、9日には激しい市街戦の後に太原を占領、大上海市から逃げ遅れた中国兵を南市フランス租界との境界に追い詰めるに至った[92]。日本軍は既に9日に虹橋飛行場も占拠、南市付近に残った敵も砲爆撃を受けて10日四散した[93]。
中国軍(国民革命軍)では督戦隊が戦場から退却する中国兵に銃撃を加えた[注釈 4]。このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きた。特に10月13日午後楊行鎮(中国語版)方面呉淞クリーク(中国語版)南方に陣を構えていた第十九師(湖南軍)の第一線部隊と督戦隊は数度の激しい同士討ちを行った。これは戦場に到着した第十九師の部隊が直ちに日本軍との第一線を割り当てられ、そこにおいて日本軍の攻撃を受けて後退した際に後方にあった督戦隊と衝突したものである。[要出典]日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は必死に督戦隊を攻撃し、督戦隊も全力で応戦したため、数千名に及ぶ死傷者を出している[95]。10月21日中国の軍法執行総監部は督戦隊の後方にさらに死刑の権限を持った督察官を派遣して前線将兵の取締りを行うとの発表を行っている[96]。[要検証 –ノート]
上海に住むフランス人のカトリック教会ロベール・ジャキノ(英語版)神父は上海南市の30万人余の中国人住民のため大規模な避難区域を計画し、これを日中双方に提示し了承された。南市難民区はフランス人3名、イギリス人1名、スウェーデン人1名から成る南市避難民救助国際委員会が設置され、区域内に武器を携帯する者が在住しないことを宣誓し、日本側は区域内の非戦闘性が持続する限り攻撃しないことを約束した[97]。この件は上海市長の受諾をもって1937年11月9日正午から正式に認められた[98]。[要検証 –ノート]
1937年8月31日の『ニューヨーク・タイムズ』では一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが…」と上海特派員によって報じた[99]。1937年10月7日の『シドニー・モーニング・ヘラルド』は「(居留民を)保護するための日本軍は増援を含めて4千だけであった。…ドイツの訓練を受けた部隊から徴用された2~3万の中国軍と向かい合って攻勢を開くだろうとは信じ難い」とする[100]。
また、『ニューヨーク・ヘラルドトリビューン(英語版)』は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じた[101]。

写真雑誌ライフ1937年10月4日号は、日本軍が1937年8月28日に爆撃した上海南駅でハースト社カメラマンの王小亭が撮影した「上海南駅の赤ん坊」を掲載し、欧米の反日世論を高めるのに大きな影響を与えた。これが演出写真かどうかについて論争がある。
第一次大戦後の中国に対する欧米列強の対応は、中国の主権を尊重する九カ国条約(ワシントン会議)の体制となり、日本も同条約にそって欧米や中国には協調外交を行っていたものの、次第に軍事力で中国での日本の権益を守る方向へと向かう。1937年の7月の日中戦争後は、日本が九カ国条約と不戦条約に反した行動をとっているとして次第に各国や国際会議は日本の軍事行動に反発する[102]
9月28日には、国際連盟の日中紛争諮問委員会で日本軍による中国の都市空襲に対する非難決議を満場一致で採択(その後の総会でも同じく決議される)。そしてABCD包囲網も開始。10月5日の国際連盟の諮問委員会の報告に沿って国際連盟総会は6日「中国への『道義的支援』を表明し、連盟加盟国は中国の抵抗力を弱体化させ、現下の紛争における中国の困難を助長しかねないいかなる行動も慎み、それぞれが中国支援拡大の可能性を検討すべきである」との委員会勧告を決議した[103](コミンテルン指令1937年および太平洋問題調査会も参照)。同日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、シカゴで(日本を名指さぬが)侵略国を激しく批判する隔離演説を行い、翌日、米国国務省も日本が九カ国条約と不戦条約に反した軍事行動をとっていることを批判した[104]。
11月には、九カ国条約の国際会議であるブリュッセル会議が開催され、やはり日本への非難決議はなされた。ただし、当時は、イギリス・フランスの政府も本格的に日本と事を構える気はなく、(スペイン内戦の対応からも見られるように)ファシズムの台頭に強硬策をとれぬ状況であった。フランクリン・ルーズベルト大統領の隔離演説も、強硬すぎるとして、却ってアメリカの世論や国際社会の反発を招いたため、その後は、欧米各国の日本批判はややトーンダウンした[104]。
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作戦機:200機
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