| 時代 | 江戸時代中期 |
|---|---|
| 生誕 | 延宝元年(1673年) |
| 死没 | 宝永7年4月17日(1710年5月15日) |
| 別名 | 大蔵 |
| 戒名 | 清光院殿心安栄達大居士 |
| 墓所 | 群馬県伊勢崎市天増寺 |
| 官位 | 従五位下・和泉守、対馬守 |
| 幕府 | 江戸幕府若年寄 |
| 主君 | 徳川綱吉、家宣 |
| 藩 | 三河刈谷藩主、上総大多喜藩主、下野国烏山藩主 |
| 氏族 | 稲垣氏 |
| 父母 | 父・稲垣重昭 母・某氏 |
| 妻 | 木下俊長の娘 |
| 子 | 昭賢、昭辰 |
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稲垣 重富(いながき しげとみ)は、江戸時代前期の大名。三河刈谷藩3代藩主、上総大多喜藩主、下野烏山藩初代藩主。鳥羽藩稲垣家4代。通称・大蔵。

延宝元年(1673年)三河国刈谷藩第2代藩主稲垣重昭の長男として生まれる[1][2]。天和3年(1683年)11月27日、将軍・徳川綱吉に初めて拝謁[1][2]。貞享4年(1687年)12月25日、従五位下和泉守[1]。
貞享5年(1688年)2月23日、父の隠居により刈谷藩主となる[1]。元禄6年(1693年)11月12日、対馬守に改める[1]。元禄12年(1699年)7月28日若年寄に就任[1][2]。
元禄15年(1702年)9月7日、5千石を加増され刈谷藩から上総国大多喜藩に移封される[1][2]。しかし、わずか21日後の同月28日に城地が狭すぎるという理由で下野国烏山藩に移る[1][2]。宝永6年(1709年)9月25日病気により若年寄の職を退く[1]。
宝永7年(1710年)4月17日に38歳で死去し、長男の昭賢が跡を継いだ[1]。法名・清光院殿心安栄達大居士、墓所は群馬県伊勢崎市の天増寺[1]。
父母
正室
子女
稲垣家刈谷藩3代藩主 (1688年 - 1702年) | |
|---|---|
| 水野家〔宗家〕 | |
| 水野家 | |
| 深溝松平家 | |
| 久松松平家 |
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| 稲垣家 | |
| 阿部家 | |
| 本多家 | |
| 三浦家 | |
| 土井家 | |
稲垣家大多喜藩藩主 (1702年) | |
|---|---|
| 本多家 | |
| 阿部家(宗家) | |
1619年から1623年まで廃藩 | |
| 青山家 |
|
1625年から1638年まで廃藩 | |
| 阿部家(政澄流→忠吉流) | |
| 阿部家(正春流) | |
| 稲垣家 | |
| 大河内松平家 | |
稲垣家烏山藩初代藩主 (1702年 - 1710年) | |
|---|---|
| 成田家 | |
| 松下家 | |
| 堀家 | |
| 板倉家 | |
| 那須家 | |
| 永井家 | |
| 稲垣家 | |
| 大久保家 | |