| 秋葉 忠利 あきば ただとし | |
|---|---|
2010年 | |
| 生年月日 | (1942-11-03)1942年11月3日(82歳) |
| 出生地 | |
| 出身校 | 東京大学(学士・修士) マサチューセッツ工科大学(博士) |
| 前職 | 大学教授 |
| 所属政党 | (日本社会党→) (社会民主党→) (無所属→) (旧立憲民主党→) (無所属→) 社会民主党 |
| 称号 | Ph.D.(マサチューセッツ工科大学) 理学修士(東京大学) 理学士(東京大学) |
| 公式サイト | 秋葉忠利 Tadatoshi akiba - tadakiba ページ! |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1999年2月23日 -2011年4月7日 |
| 選挙区 | (旧広島1区→) 比例中国ブロック(広島2区) |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1990年2月19日 -1999年1月11日 |
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秋葉 忠利(あきば ただとし、1942年〈昭和17年〉11月3日[1] - )は、日本の政治家、数学者。第33-35代広島市長(3期)、衆議院議員(3期)、社会民主党国会対策委員長(第2代)、同政策審議会長(第3代)を歴任。
日本社会党(後に社会民主党)に所属し、1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙に大原亨の後継者として出馬し、初当選。以後当選3回。1期目の当選後、筒井信隆らと共に「ニューウェーブの会」を設立し、対案を出す党に社会党を生まれ変わらせることを目指した。
1999年(平成11年)に衆議院議員を辞職し、広島市長選挙に立候補。市民の党の応援を受け、自民党が推薦する元厚生官僚(広島市助役)の大田晋や広島市議会議長経験者など新人5人と激戦の末、初当選する。1999年(平成11年)2月に市長就任、2003年(平成15年)は、再び自民推薦・公明支持の大田晋と古葉竹識の2候補らを破り再選された。2007年(平成19年)は自民推薦・公明支持の柏村武昭前参議院議員、多くの広島市議の支持を受けた大原邦夫元広島市議の2候補らを大差で破り3選を果たした。
いずれの選挙も秋葉は最後に立候補を表明したが、抜群の知名度によって再選を果たした。たとえば2度目は元広島東洋カープ監督だった古葉が立候補したが、大差で古葉を下している。また3度目は広島県選出の中川秀直元自民党幹事長が、参議院議員の柏村武昭を任期切れの直前に辞職させて擁立したのに対し、自民党系広島市議の大半が党中央に反逆し大原を応援するという自民党分裂選挙となった。柏村は秋葉、大原に次ぐ3位だった。
平和市長世界会議の議長として役目を果たすなど、活発な平和活動を展開している。2003年(平成15年)6月、金正日国防委員長に8.6平和記念式典の招待状を郵送した事が話題になった。2007年(平成19年)4月に広島平和文化センターの理事長に米国人スティーブン・リーパーを起用し、展示内容の見直しを指示、展示内容を見直す検討委員会に、中国人・韓国人らアジア出身の委員を起用し、「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設」(中国新聞)への変更を推進している。また2009年(平成21年)8月6日の演説で核のない世界の実現を呼びかけたバラク・オバマ大統領を賞賛し「核廃絶を求める多数派の人々」という意味で「オバマジョリティ(Obamajority)」なる造語(オバマとマジョリティのかばん語)を提唱した。この用語に基づき広島市はオバマジョリティ・キャンペーンを推進、その公式PRソングの一つとして「オバマジョリティ音頭」(作詞・作曲:広島県郷土民謡・踊協会)を採用した。
2007年(平成19年)の平和宣言では「米国の時代遅れで誤った政策にははっきり「ノー」と言うべき」と述べ、2008年(平成20年)の平和宣言では「人類の生存を最優先する(反核である)多数派の声に耳を傾ける米国新大統領が誕生することを期待」と当時のアメリカ大統領選挙に関連して、政治的に踏み込んだ発言をしたことが話題となった[10]。2009年(平成21年)の8月6日の平和宣言では秋葉は北朝鮮の核に言及した[11]。
就任直後、1999年胡子講暴挙事件など、広島市中心部で特攻服を着用した暴走族が集会を開いて、市民らに迷惑をかける事件が多発するなど社会問題化した。また暴走族が暴力団の下部組織化していた実態があったこともあり、秋葉市長は「すべての市民や広島を訪ねる人が安心して過せる街にするため、一歩踏み込んだ取り組みを」として、広島県の条例よりも厳しく市の中心部で暴走族の集会と特攻服の着用を禁止する広島市暴走族追放条例を制定した。
この条例は、日本国憲法が保障する「集会の自由」を制限する危険性があると指摘もあり、実際にこの条例違反で起訴された者が、最高裁まで争う広島市暴走族追放条例事件が発生している。結局、条例は合憲とする判決が言い渡されている。
2009年に世界市長会議などが核兵器全廃の目標としている2020年に夏季オリンピックを開催する構想を公表した。当初は同じ被爆地の長崎市との共催による「広島・長崎オリンピック構想」であったが、オリンピック規約で難しいとされると、広島市を主会場とするヒロシマ・オリンピック構想に移行した。
この構想に対して広島では1994年にアジア大会を開催した実績があるものの、財政難にあえぐ広島市の財政でははたして可能なのか、他にもやらなければならない事業が山積しているとの指摘もあり賛否が分かれている。そもそも五輪に反核運動を結びつけることに対し、無意味であるとの批判が被爆者団体から出されている。
しかし秋葉が市長を退任後、新市長・松井一實が五輪招致に消極的だったことなどもあり、広島での五輪誘致は撤回にかじを取ることになっていく。
2010年9月1日で閉鎖された広島市民球場(閉鎖時の名称は旧広島市民球場)のお別れイベントが2010年10月24日に広島東洋カープの選手や市民が参加して行われたが、終球式で投球した直後の秋葉市長に対し、市内在住の男が三塁側から大声をあげて駆け出してきて硬式ボールを投げつけ、秋葉市長の右太ももを直撃し2週間の怪我を負わせた。犯行動機は「旧市民球場解体の方針に腹が立っていた」というものであったが、男は警備員に取り押さえられ傷害で逮捕された[12]。
2011年1月、広島市幹部への年頭の挨拶で、4選不出馬の意向を表明した[13]。秋葉は退任に関する記者会見や取材の要請を拒否(生出演、生放送のみ応じた)し、今後も応じない方針を示したが、動画投稿サイト「YouTube」に「秋葉忠利広島市長不出馬会見」と題した映像をアップロードした[14]。
それによると[15][16]、退任の理由として「次の人に受け取ってもらうべき時になった」として後進に道を譲るとしたうえで、オリンピックについては「新市長が招致を決定すればいつでも手が挙げられる状態をつくっておきたい」としつつ、「24年、28年あるいはそれより先かも知れませんが、実現すれば、21世紀最大の出来事の一つになると信じています」と、2024年以降の開催になることを容認している。また実績としてMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の開場などを挙げた。
この引退表明に対し、県内では驚きをもって受け止められた[17]。湯崎英彦広島県知事は「平和関連の活動を通じ、広島市の対外的な地位を上げてきたと思う。功績に大きな敬意を表したい」と語った。秋葉市政継続阻止のため対立候補擁立を模索していた自由民主党広島県連幹事長は「個人的な意見ながら、独自候補の擁立にこだわる必要はなくなったと思う」と、戸惑うなど波紋が広がった。一方で、オリンピック構想や広島西飛行場市営化問題など課題を置き去りにしての引退表明に対しての批判も出ている[18]。
2011年4月7日に任期満了に伴い退任した。その直後の4月11日から広島大学特任教授に就任、2011年度下半期から平和学。4月10日の統一地方選挙において実施された広島市長選挙で松井一實が当選し就任するまでは、副市長の三宅吉彦が市長職務代理者を務めた[19]。
当選した松井は市長就任初会見で、五輪招致計画の白紙撤回、旧市民球場跡地利用の再検討、オバマジョリティ・キャンペーン撤廃および折り鶴長期保存の再考、広島県庁および広島市議会との関係改善などを発言[20]、そのほか広島西飛行場市営化を断念する[21]など、いくつか秋葉市政からの脱却を図っている。それに対し秋葉は松井から広島市政功労表彰を受け取った際、松井の「(秋葉市政からの)変革は公約だった。良いところはいただきながら、問題点は修正したい」との発言に対し、「変革のない時代はありえない。市民目線が基盤にあることが大事だ」と応じた[22]。
2012年11月27日、ドイツ国連協会より「オットー・ハーン平和メダル」の授賞が発表された。核分裂を発見したノーベル賞科学者ハーンの名を冠し平和や国際協調に貢献した人物に贈られるもので、過去の受賞者には、モハメド・アリや、ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領、ベルリン国立歌劇場音楽監督で中東和平活動で知られるダニエル・バレンボイムらがいる。
他
| 当落 | 選挙 | 執行日 | 年齢 | 選挙区 | 政党 | 得票数 | 得票率 | 定数 | 得票順位 /候補者数 | 政党内比例順位 /政党当選者数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 当 | 第39回衆議院議員総選挙 | 1990年02月18日 | 47 | 旧広島県第1区 | 日本社会党 | 17万1648票 | 27.93% | 3 | 1/5 | / |
| 当 | 第40回衆議院議員総選挙 | 1993年07月18日 | 50 | 旧広島県第1区 | 日本社会党 | 10万1047票 | 16.61% | 4 | 3/8 | / |
| 比当 | 第41回衆議院議員総選挙 | 1996年10月20日 | 53 | 広島県第2区 | 社会民主党 | 4万8142票 | 24.62% | 1 | 3/5 | 1/1 |
| 当 | 1999年広島市長選挙 | 1999年 | 56 | ーー | 無所属 | ーー票 | ーー | 1 | 1/5 | / |
| 当 | 2003年広島市長選挙 | 2003年2月2日 | 60 | ーー | 無所属 | 18万3078票 | ーー | 1 | 1/5 | / |
| 当 | 2007年広島市長選挙 | 2007年4月8日 | 64 | ーー | 無所属 | 22万5982票 | ーー | 1 | 1/4 | / |
| 落 | 第48回衆議院議員総選挙 | 2017年10月22日 | 74 | 比例中国ブロック | 旧立憲民主党 | ーー票 | ーー | 11 | 4/4 | 4/2 |
| 落 | 第26回参議院議員通常選挙 | 2022年07月10日 | 79 | 参議院比例区 | 社会民主党 | 6623票 | ーー | 50 | 6/8 | 3/1 |
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 平岡敬 | 1999年 - 2011年 | 次代 松井一實 |
| 党職 | ||
| 先代 及川一夫 | 社会民主党政策審議会長 第3代 : 1998年 - 1999年 | 次代 濱田健一 |
| 先代 池端清一 | 社会民主党国会対策委員長 第2代 : 1996年 - 1998年 | 次代 前島秀行 |
| 官選 |
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| 公選 | |||||
| 第41回 (定数13) |
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| 第42回 (定数11) |
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| 第43回 (定数11) |
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| 第44回 (定数11) |
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| 第45回 (定数11) |
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| 第46回 (定数11) |
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| 第47回 (定数11) |
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| 第48回 (定数11) |
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| 第49回 (定数11) |
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| 第50回 (定数10) |
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| ↓:途中辞職、失職、在職中死去など、↑:繰り上げ当選。 | |||||||||||||