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秋月種美

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
秋月 種美
時代江戸時代中期
生誕享保3年5月15日1718年6月13日
死没天明7年9月25日1787年11月4日
別名兵部(通称
戒名竜光院殿長州大守英厳宗俊大居士
墓所東京都港区南麻布の光林寺
官位従五位下佐渡守長門守
幕府江戸幕府
主君徳川吉宗家重家治
日向高鍋藩
氏族秋月氏
父母父:秋月種弘、母:柴垣氏
兄弟寿昌院(相良長在正室)、ツル、子イ、左近、種美、リヨ(小田知直室)、ヤヘ(秋月種蔭室)、ベン(小坂左次馬室)、ムメ(中村道重室)
正室:黒田長貞の娘・春姫
キセ(秋月種武室)、縫殿(早世)、種茂、フミ(山田重遠室)、イク(早世)、トミ(内田正矩室)、ナカ(手塚吉従室)、上杉鷹山相良晃長、セイ(小田久知室)、大久保忠快、亀三郎(早世)、政次郎(早世)、エツ(柴垣定信室)、トマ(早世)、種懐、トヨ(泥谷直之室)、中条信義、フチ(榊原政栄養女)、斉藤利国
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秋月 種美(あきづき たねみつ[1] / たねみ)は、江戸時代中期の大名日向国高鍋藩6代藩主。次男に出羽国米沢藩主となった上杉鷹山がいる[1]

生涯

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享保3年(1718年)、5代藩主・秋月種弘の長男として誕生した。庶長子ではあったが世子となり、享保17年(1732年)9月28日、8代将軍徳川吉宗御目見する。同年12月16日、従五位下・佐渡守に叙任する。享保19年(1734年)12月7日、種弘の隠居により跡を継いだ。

宝暦3年(1753年)に父が死去するまでは実権はなかった。父の死後に親政を行なうが、種美の治績は文武を奨励し、藩士子弟の遊学を許して広く人材を求め、藩の軍備を充実させると同時に、民政においても代官には人格ある学者を起用するなど、人事制度に大きな治績を残している。種美は「国家の至宝は人材に有り」と述べているが、その好学と人材重視の姿勢は長男の種茂(7代藩主)、次男の鷹山にも受け継がれ、二人がともに名君として大成する土台となった。

宝暦10年(1760年)7月8日、種茂に家督を譲って江戸藩邸に隠居する。

天明7年(1787年)9月25日、死去。享年70。死因は悪性腫瘍だったとされ、鷹山の看病を受けたという[2]

系譜

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父母

正室

子女

脚注

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  1. ^ab小野 2006, p. 113.
  2. ^小野 2006, p. 182.
  3. ^上杉重定の養子。
  4. ^相良頼央の養子。
  5. ^中条信復の養子。

参考文献

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  • 小野榮『米沢藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2006年2月。 
  • 高鍋町史編さん委員会 編1987年。 
秋月氏高鍋藩6代藩主 (1734年 - 1760年)
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