| 福島 譲二 ふくしま じょうじ | |
|---|---|
| 生年月日 | (1927-03-31)1927年3月31日 |
| 出生地 | 東京市本郷 |
| 没年月日 | (2000-02-25)2000年2月25日(72歳没) |
| 死没地 | 熊本県阿蘇郡南小国町 |
| 出身校 | 東京大学法学部 |
| 前職 | 国家公務員(大蔵省) |
| 所属政党 | (無所属→) 自由民主党(田中派[1]→無派閥) |
| 称号 | 従三位 勲一等瑞宝章 |
| 当選回数 | 3回 |
| 在任期間 | 1991年2月11日 -2000年2月25日 |
| 内閣 | 第1次海部内閣 |
| 在任期間 | 1989年8月10日 -1990年2月28日 |
| 選挙区 | 旧熊本2区 |
| 当選回数 | 6回 |
| 在任期間 | 1976年12月10日 -1991年1月 |
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福島 譲二(ふくしま じょうじ、1927年3月31日 -2000年2月25日)は、日本の政治家。位階は従三位。
自由民主党衆議院議員(6期)、熊本県知事を務めた。熊本県出身。
府立一中、五高を経て、東京大学法学部政治学科卒業後、1948年9月大蔵省に入省する[2]。主税局国税第一課に配属[3]。上司である主税局国税査察部長兼主税局国税第一課長に脇阪実がいた。東京国税局調査査察部、関東信越国税局調査査察部、札幌国税局調査査察部、札幌国税局総務部総務課を経て、1952年3月から横手税務署長。
熊本国税局総務部総務課長、国税庁間税部酒税課長補佐、主計局主計官補佐(外務、通産係主査)、主計局主計官補佐(農林係主査)の後[4]、1963年三重県総務部長、1965年日本専売公社企画課長、1967年 主計局主計官(防衛担当)、1968年佐藤栄作首相秘書官(事務担当)、1971年6月 主計局総務課長を歴任。1972年6月大臣官房参事官兼大臣官房審議官で退官[4]。
1976年、第34回衆議院議員総選挙に旧熊本2区から無所属で立候補し初当選した。以降、自民党に入党し連続当選は6回にのぼり、1989年、第1次海部内閣の労働大臣として初入閣した。
1991年、細川護煕知事の退任を受けて実施された熊本県知事選挙に立候補(告示日の1月7日付で衆議院議員を退職[5]。)し、初当選、1997年に世界男子ハンドボール選手権、1999年に国民体育大会(くまもと未来国体)を開催した。
しかし3期目途中の2000年2月25日、黒川温泉で入浴中に急死した。72歳没。死没日付をもって従三位勲一等に叙され、瑞宝章を追贈された[6]。
佐高信が自著で福島知事が細川前知事の尻ぬぐいばかりやらされているため、熊本では「トイレットペーパー知事」と呼ばれていることを講演で訪れた際に知った、と記している[7]。
| 議会 | ||
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| 先代 高鳥修 | 1986年 | 次代 石橋一弥 |
| 先代 竹内黎一 | 1987年 - 1989年 | 次代 佐藤文生 |
| 先代 中山利生 | 次代 左藤恵 | |
| 公職 | ||
| 先代 細川護熙 | 公選第12-14代:1991年 - 2000年 | 次代 潮谷義子 |
| 先代 堀内光雄 | 第53代:1989年 - 1990年 | 次代 塚原俊平 |
| 再編前 |
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|---|---|---|---|---|---|
| 厚生労働大臣 | |||||
2001年の省庁再編により厚生大臣と労働大臣は統合された。 | |||||