| 福岡 孝弟 | |
|---|---|
| 生年月日 | 天保6年2月5日(1835年3月3日) |
| 出生地 | 土佐国高知城下弘小路(現在の高知県高知市) |
| 没年月日 | (1919-03-07)1919年3月7日(84歳没) |
| 称号 | 従一位 勲一等旭日桐花大綬章 子爵 |
| 在任期間 | 1881年10月21日 -1885年12月22日 |
| 在任期間 | 1881年4月7日 -1883年12月12日 |
| 在任期間 | 1883年12月12日 - 1885年12月22日 |
| 在任期間 | 1888年4月30日 - 1919年3月7日 |
| 在任期間 | 1875年4月25日 -5月19日 1880年5月14日 - 1881年4月7日 |
その他の職歴 | |
(1874年3月23日 -7月12日) | |
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福岡 孝弟[1](ふくおか たかちか、天保6年2月5日〈1835年3月3日〉-大正8年〈1919年〉3月7日)は、日本の武士(土佐藩士)、政治家。五箇条の御誓文を加筆、政体書を起草した人物である。通称は藤次、雅号は南蘋。栄典は勲一等子爵。

天保6年(1835年)、土佐藩士・福岡孝順(180石)の次男として生まれる。安政元年(1854年)、吉田東洋の門下生として後藤象二郎や岩崎弥太郎らと共に師事し、その薫陶をうけた。安政5年(1858年)、吉田の藩政復帰に伴って大監察に登用され、後藤らと若手革新勢力「新おこぜ組」を結成して藩政改革に取り組む。文久2年(1862年)の吉田暗殺によって失脚する。
文久3年(1863年)、藩主・山内豊範の側役に就任して公武合体運動に尽力する。
慶応2年暮れ、小笠原唯八と共に政情視察の命で上京。薩摩藩邸を訪ね、薩摩の長州再征不参加と、倒幕論の台頭を察知。帰国後、藩の動向を後藤象二郎と共に決定した。
慶応3年(1867年)、参政に就任。幕府を中心とする公議政体論を藩論とし、他方で坂本龍馬や海援隊、陸援隊と提携するなど、前藩主・山内容堂を中心に藩営商社・開成館を通じて殖産興業政策を推進した。大政奉還の実現に向けて薩摩藩との間に薩土盟約を締結する。同年、後藤とともに将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧告し、武力討幕派の薩摩藩や長州藩に対抗した。

明治維新では、後藤や板垣らと共に徴士参与として新政府に出仕。越前藩の由利公正とともに五箇条の御誓文を起草した[3]。
明治4年(1871年)、王政復古の功を賞されて賞典禄400石を授けられる。議事体裁取調所御用係を経て藩の少参事、権大参事。政府内では土佐閥の一人として、司法大輔に任ぜられた。司法大輔時代の明治5年11月23日(1872年12月23日)、司法卿の江藤新平と共同で、法律で妾を持つことを禁止すべきとの建白書を提出する。しかし、蓄妾は旧来の慣習であったため、建白はいつしか立ち消えとなって採用されることはなかった。その後、元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任した。明治17年(1884年)、子爵を授けられる。
大正8年(1919年)3月7日、薨去。享年85。墓は、東京都豊島区染井霊園にある。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 山県有朋 | 1883年 - 1885年 | 次代 (廃止) |
| 先代 佐々木高行 | 1872年 - 1873年 (1873年途中まで佐々木高行と共同) | 次代 (欠員→)佐々木高行 |
| 先代 江藤新平(→欠員) | 1872年 | 次代 (欠員→)宍戸璣 |
| 日本の爵位 | ||
| 先代 叙爵 | 子爵 福岡(孝弟)家初代 1884年 - 1919年 | 次代 福岡秀猪 |