樹齢約3000年の武雄神社 の御神木 神道 (しんとう、しんどう[ 4] )は、日本 の宗教 。開祖 や教祖 、教典 を持たず、また、一神教 とは対照的に森羅万象 あらゆるものに神 が宿るという思想に基づく。
日本人 が昔から農耕や漁労など自然 と交わり生活を営む中から生まれた信仰 といえ[ 5] 、神話 、八百万の神 、自然や自然現象 など多くの事柄を含むアニミズム 的、祖霊崇拝 的な民族宗教 である[ 6] 。神 と自然 は一体と認識され、神 と人間 を結ぶ具体的作法が祭祀 であり、その祭祀を行う場所が神社 であり、聖域 とされた[ 7] 。
国産み を描いた『天瓊を以て滄海を探るの図』(小林永濯 画、ボストン美術館 所蔵)神道は古代日本 に起源をたどることができるとされる宗教 である。伝統的な民俗信仰 ・自然信仰 ・祖霊信仰 を基盤に、豪族 層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した[ 8] [ 9] 。また、日本 国家の形成に影響を与えたとされている宗教である[ 10] 。世の中の宗教名の多くは日本語では「○○教」と呼称するが、神道の宗教名だけは「神道教」ではなく、単に「神道」となっている[ 注 3] 。
神道には確定した教祖、創始者がおらず[ 10] 、キリスト教 の聖書 、イスラム教 のコーラン にあたるような公式に定められた「正典 」も存在しないが[ 6] 、『古事記 』『日本書紀 』『古語拾遺 』『先代旧事本紀 』『宣命 』といった「神典 」と称される古典群が神道の聖典 とされている[ 11] 。森羅万象 に神 が宿ると考え、また偉大な祖先を神格化し、天津神・国津神 などの祖霊 をまつり、祭祀 を重視する。浄明正直 (じょうみょうせいちょく)(浄く明るく正しく直く)を徳目とする[ 12] 。他宗教と比べて現世 主義的といった特徴がみられる。
日本人の生活と深い関わりのある神道は、当初から宗教として認識されていたわけではなく、仏教 が大陸から伝来したのち、それまで日本国独自の習慣や信仰が御祖神 (みおやがみ)の御心に従う「かむながらの道(神道)」として意識されるようになった[ 13] [ 14] 。教えや内実は神社 と祭り の中に伝えられおり、『五箇条の御誓文 』や、よく知られている童歌『通りゃんせ 』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる[ 15] 。
神道の特色の一つとして、外来の他宗教に対する寛容さが挙げられる。神道は仏教 や儒教 ・道教 などとも習合し日本文化 に大きな影響を及ぼしたが、日本国独自の神観念 は変わらず、現在まで脈々と受け継がれている[ 16] 。
神道は奈良時代 (710年 – 794年)以降の長い間、仏教 信仰と混淆してきた(神仏習合 )。日本における神仏習合は、すっかりと混ざり合って一つの宗教となったのではなく、部分的に合一しながらも、なおそれぞれで独立性が維持されている[ 17] 。宮中祭祀 や伊勢神宮 の祭祀では仏教の関与が除去されていることから、神祇信仰 は仏教と異なる宗教システムとして自覚されながら並存していた[ 18] 。明治時代 には神道国教化 を実現するために、神仏分離 が行われた[ 19] 。
神道と仏教 の違いについては、神道 は地縁 ・血縁 などで結ばれた共同体 (部族 や村 など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教 はおもに人々の安心立命や魂 の救済 、国家鎮護 を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する[ 8] 。
神道は日本国内で約8万5,000の神社が登録され、約8,400万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁 )には記載があるが[ 20] 、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子 とみなす例、初詣 の参拝者も信徒数に含める例、御守り や御札 などの呪具 の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する[ 21] 。
皇室神道 (宮中祭祀 ) 皇居内の宮中三殿 を中心とする皇室 の神道である[ 22] 。新年の四方拝 や歳旦祭 、五穀豊穣や国家・国民の安寧を祈る新嘗祭 (天皇即位後 初の新嘗祭は大嘗祭 という)などが行われる[ 23] 。 大嘗祭が斎行された令和の大嘗宮 神社神道 神社 を中心に、氏子 ・崇敬者などによる組織によって行われる祭祀儀礼をその中心とする信仰形態である[ 24] 。民俗神道 民間神道 ともいう。民間で行われてきた信仰行事をいう。道祖神 ・田の神 ・山の神 ・竈神 など。修験道 や密教 や仏教 、あるいは道教 の思想と習合している場合も多い。いざなぎ流 なども入る[要出典 ] 。教派神道 (神道十三派)教祖 ・開祖 の宗教的体験 にもとづく。創唱宗教的色彩が濃い[要出典 ] 。古神道 (≒原始神道)江戸時代の国学 によって、儒教 や仏教 からの影響を受ける前の神道が仮構され、復古神道 ・古道 ・皇学・本教などと称された。明治時代以降に古神道だけを取り出し、新たな宗派として設立されたものも古神道と称している場合がある。近代以降の学問で研究されて国学色を排除してからは、純神道・原始神道ともいう[要出典 ] 。 国家神道 特に近代(明治維新 より第二次世界大戦 終結まで)において国家の支援のもとに行われた神道を指す名称であり[ 25] [ 注 4] 、事実上の国家宗教 となっていた[ 28] 。(国家神道#語誌 を参照) 以上のような分類をすることができるが、今日、単に「神道」といった場合には神社神道を指すことが多い[要出典 ] 。
また、何に重きを置くかによって「祭り型」「教え型」という分け方も提唱されている。
これは上記の「皇室神道 」「神社神道 」「民俗神道 」などのことである。 以上のように分けられる[ 22] 。なお、陰陽道 系の土御門神道 は上記の家元神道 のひとつではあるが、教え型とも祭り型とも決められるものではない[要出典 ] 。
春日大社 にて、おみくじ を結ぶ人々一般家庭で祀られる神棚 神社本庁 (東京都 渋谷区 代々木)神道の起源は非常に古く、日本の風土や日本人の生活習慣に基づき、自然に生じた神観念である。農耕文化の進展とともに、自然の威力に神霊 の存在を見出し、その神霊 を丁重に祭ることで自然の脅威を和ませ、農耕生活の安寧を祈るという神観念が生じたことが、神道の始まりであった[ 29] 。このためキリスト教 、仏教 のような開祖が存在せず、縄文時代 を起点に弥生時代 から古墳時代 にかけてその原型が形成されたと考えられている[ 14] 。
現在の神道・神社に直接繋がる祭祀遺跡が出土するのは、農耕文化の成立に伴って自然信仰 が生じた弥生時代 で、この時代には、荒神谷遺跡 などに代表される青銅器 祭祀、池上曽根遺跡 のような後の神社建築と共通する独立棟持柱を持つ建物、鹿などの骨を焼いて占う卜骨 や太占 、副葬品としての鏡 ・剣 ・玉 の出土など、神社祭祀や記紀の神道信仰と明らかに連続性を持つ要素が見られるようになる[ 30] 。魏志倭人伝 において、邪馬台国 の女王卑弥呼 が「鬼道 を事とし、衆を惑わすこと能ふ」との記述が見られ、この「鬼道」がシャーマニズム 的な要素が強い初期の神道であるとする説が有力である。なお、「鬼」「惑」などのようにネガティヴ的なニュアンスを持つ漢字が用いられたのは、儒教 に内包される反迷信 的な理念(子 曰く「怪力乱神を語るべからず」-『論語 』)による所が大きいと考えられる。
大和王権 が成立する古墳時代 には、最初期の神社と考えられる宗像大社 や大神神社 で、古墳副葬品と共通する副葬品が出土することから、大和王権 による国家祭祀 が行われたと推定されており、この時期に神道の直接の原型が形成された[ 31] 。飛鳥時代 には律令 の整備に伴い、神祇令 に基づいた祭祀制度の体系化が行われ、神祇官 が全国の神社に幣帛 を頒布する班幣 制度の確立や、全国の神社への社格 区分や神階 ・神位 の授与など、全国の神社を包括する国家的な律令祭祀制度が整備されたため、この時期に体系的な「神道」が成立したとするのが、多くの研究者での概ねの共通認識となっている[ 32] 。
「神道」という名称については「かんながらの道(神道)[ 33] 」と言う意味である。中国の『易経 』や『晋書 』の中にみえる[ 34] 神道は「神(あや)しき道」という意味であり、これは日本の神道観念とは性質が異なる別個のものである。
日本における「神道」という言葉の初出は『日本書紀 』の用明天皇 紀にある「天皇、仏法を信(う)けたまひ、神道を尊びたまふ」であるが[ 35] 、このように外来の宗教である仏教と対になる日本固有の信仰を指したものだった[ 36] [ 37] 。また、稲作 のような自然の理法に従う営みを指して神道とする解釈もある[ 38] 。
中世 には仏教 理論との関連から神道の教義化・内面化が模索され、最終的に仏教から独立した独自の教義・経典・祭祀を持つ吉田神道 が形成されて、神道界の主流となった。さらに近世 には日本の古典研究に神道が統合されることで国学 が成立し、倒幕運動 に影響を与えた。こうして近代 に入ると、明治政府 によって国家神道 体制が形成されたが、第二次世界大戦 終結後には国家主義 的イデオロギーの根源とされた同体制は解体され、現代においては宗教法人 として各地の神社が活動している。
明治20年代(19世紀末 )になると、西欧近代的な宗教概念が日本でも輸入され、宗教としての「神道」の語も定着し始めた。同30年代(20世紀初)には宗教学が本格的に導入され[ 39] 、学問上で「神道」の語が確立した[ 40] [要ページ番号 ] 。
もともと、神道にはイエス・キリスト や釈迦 のようなカリスマ 的創唱者が存在しなかった[ 12] 。政権による土着の民俗信仰 との支配的な祭政一致 が行われた神道が教義を言語で統一的に定着させなかったのは、古代より「神ながら言挙げ せぬ国[ 41] 」だったからであるとも言われている[要出典 ] 。そのため、外来諸教と融合しやすい性格を有することになったともいう[要出典 ] 。神道のような土着の民俗信仰と宗派宗教 の併存例は世界各地でみられるものであるが、その多様性は特異なものである[要出典 ] 。ただ、実際には、仏教公伝 の当初から、廃仏派の物部氏 と崇仏派の蘇我氏 の間でひと悶着もあった。
このように神道には明確な教義がないものの、古事記や日本書紀などのいわゆる「神典 」には、神道の基本的な観念をうかがうことのできる記述があり[ 42] 、常世 、黄泉 などの他界観や、荒魂・和魂 、祖霊 などの霊魂観、むすひ 、惟神 (かんながら)、浄明正直などの倫理観、禊 祓 により罪 穢れ を払う清浄観などが、神道の基本的な観念と考えられる[ 42] 。
中世には、このような神道古典に見られる基本観念を体系的に追求し、神道の教学化を図る動きが見られた[ 42] 。その最初期の動きは、両部神道 や山王神道 など、仏教の僧侶たちが仏教の教理に基づいた神道解釈を試みた仏家神道であった[ 43] 。それらの仏家神道説に影響を受けつつ、それに対抗する形で、神宮 神官らにより社家の立場からの神道説である伊勢神道 が形成された[ 44] 。伊勢神道 の教説は、それまでの神道祭祀における観念を、外来宗教の語彙も活用しつつ論理化したものと捉えられ[ 45] 、これまで神道祭祀において重んじられてきた祓 や禊 などの身体的清浄を心の問題として解釈し[ 46] 、「正直」「清浄」を神道の徳目とした[ 47] 。中世後期には、それまでの中世神道の展開を集大成し、仏教から独立した教義・経典・儀礼を持つ神道説である吉田神道 が形成された[ 48] 。吉田神道の教説は、この世の中の現象の全てに神が内在するという汎神論であった[ 49] 。
近世に入ると、儒教 の隆盛に伴い、理当心地神道 、吉川神道 などの儒家神道 が盛んになり、神仏習合 が強く批判され、儒教 の徳目と神道の一致が説かれた[ 50] 。儒家神道を集大成したのが垂加神道 で、垂加神道説 では神と人が「天人唯一之道」という合一状態にあるとし、神道とは人が神に従って生きることであり、人は神に一心不乱の祈祷を行うことで冥加を得なければならないが、それには人が「正直」でなければならず、その「正直」の実現には「敬(つつしみ)」が第一だとする教説が説かれた[ 51] 。近世中期には国学が出現し、本居宣長 は神道を儒教 や仏教 の教理によせて解釈することを強く批判した。近世後期には、平田篤胤 がキリスト教の最後の審判 の観念の影響を受けた幽明審判思想 を唱えたり、その門人らが天之御中主神 を創造神 とする単一神教 的な観念を展開するなど、近代に連なる教理の展開を遂げた[要出典 ] 。また、幕末には後期水戸学 による神道説も唱えられ、国学 と儒教 を結びつけることで国体論 を説き、尊皇論 を唱え、幕末の志士 たちの思想に影響を与えた[ 52] 。
近代には神道事務局祭神論争 という熾烈な教理闘争もあったが、結局は、政府も神道に共通する教義体系の創造の不可能性と、近代国家 が復古神道 的な教説によって直接に民衆を統制することの不可能性を認識したため、大日本帝国憲法 によって信教の自由 が認められた[ 53] 。もっとも、それには欧米列強 に対して日本が近代国家であることを明らかにしなければならないという事情もあった[ 54] 。このような経緯から、近代には神社非宗教論 が説かれ、神社神道の神職らが宗教的な教義を説くことは政府により禁じられたが、他方で在野の神道家らによる神道教理が説かれるようになり、国家 から公認を受けた教派神道 13派が独自の神道の教えを説いて活動し、勢力を広げた[ 55] 。
大洗磯前神社 の神磯の鳥居厳島神社 神道では、気象、地理地形などの自然現象に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める[ 38] 。いわゆる「八百万の神々 」である[ 38] 。アイヌ の信仰にも共通点があり、アイヌ語 の「カムイ 」と「神(かみ) 」という語の関係も深いと考えられている[ 56] 。元来、神の姿は、浮遊する霊力で、物に寄り付いたり去っていったりする「魂」と想起されており、非人格的なものであるとされた[ 57] (そのような性質から、神の分霊 を無限に行うことができる)が、仏教 の影響で神像などが製作されるようになり、次第に神は可視的なものと考えられるようになった[ 58] 。神は、自然を感じ取り、そのもののままでは厳しい自然 の中で、人間として文化的な生活を営むのにふさわしい環境と状態を、自然との調和に配慮しながらバランスを取り調節していき、人民生活を見回って、生活するための知恵や知識のヒントを与えたり、少し手伝ってあげたり、体や物を借りたときや何かやってもらったときなどには少しお礼をしたり、それが、日本の「神(かみ)」が行っていた仕事のひとつであり、日本人にとって「神」は、とても身近な存在であった[要出典 ] 。
また、神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂 の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている[ 57] 。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る 」性格も持っている[ 38] 。このように神は自然神から人格神へ、精霊的な神から理性的神へ、恐ろしい神から貴い神へ、進化発展があったととらえることができる[ 59] 。
神道の神の種類は、大別すると自然神 と文化神 の二つに分類ができる[ 58] 。前者には、太陽神 や月神 、風神 、雷神 、山神 、海神 などの天体や地形、気象を神格した神のほか、蛇などの動物神も含まれる[ 58] 。また、文化神は、屋敷神 、氏神 、産土神 などの社会集団を守る神や、疫病神 、田の神 、漁労神 、軍神 、竈神 など、人間生活における特定の場面や職能を守護する神に分けられる[ 58] ほか、生前業績があった人物を、没後神社を建てて神として祀る風習なども認められる(人神 )[ 38] 。神道には、人間も死後神になるという考え方があり、神話に描かれる一族の先祖(祖霊崇拝 )や社会的に突出した人物、地域社会に貢献した人物、国民や国のために働いた人物、国家に反逆し戦乱を起こした人物、不遇な晩年を過ごし死後怨霊 として祟りをなした人物(御霊信仰 )なども「神」として神社に祭られ、多くの人々の崇敬を集めることがある[ 38] 。
1881年の神道事務局祭神論争 では、明治天皇 の裁決によって伊勢派 が勝利し、天照大神 が最高の神格を得たが[ 60] 、敗北した出雲派 的なものがいまだに強く残っていたり、氏神 信仰などの地域性の強いものも多い[ 38] 。
なお、戦前は学校の教科書などに、「神」についての認識の仕方の説明が載っていた。尋常小学校の歴史や修身 の教科書などには、少年少女向けの歴史物語として、神話の説明が記載されている。神話の世界はとても人間的な世界で、そこには「神」と「人」を隔てる断絶は存在しない。神もまた、人間のように仕事をし、生活をしている[要出典 ] 。昭和8年の『少年國史物語』では、「神代の物語」の項目に、「どこの國でも大昔の事ははつきりとは分らないものだが」と前置きをして、神代 の事から始まる日本の歴史について「神代といふのは、我が國の大昔に相當の身分であつた方たちを後の世の人が尊敬して、すべて神として崇めてゐるところから、その方たちの時代を指してさう呼んでゐるのである」と説明されている[ 61] [ 62] 。
神人 はおおむね神社に使える神職 者という意味で、13世紀ごろには役割によって衣(制服)の色が決まっていた。
平安時代 以前より出雲 において日本神話 との関わりが議論されていたとされ、『出雲風土記 』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃くみることができる[要出典 ] 。
鎌倉時代 には伊勢神宮 の神官 による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰 の形を取るに至った[ 38] 。そして、そうした伊勢派 の努力はやっと江戸末期 のお伊勢参り の確立によって知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。一方で、本居宣長 が江戸期に『古事記 』の詳細な注釈を行い(古事記伝 )、国学 の主流を形成していった[ 63] 。これら神道や国学 の目覚めが欧米列強 に植民地化 されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新 を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教 から強く影響を受け、近世では儒教 の日本への流入が大きい。伊勢派の果たしたことはそれに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう[要出典 ] 。
神道史の本格的な研究は宮地直一 によって体系化された[要出典 ] 。彼は神代史(神話)と歴史を区別した講義を國學院大學 の前身である皇典講究所 開催の神職講習会で行い、『神祇史』(皇典講究所國學院大學出版部)として1910年(明治43年)に出版している[ 64] 。
神道の成立期については諸説出されている。おもな説として次の四説があげられている。その第一説は、7世紀後半・8世紀、律令 祭祀制。天武・持統天皇朝説 。この説は大方の了承を得られる妥当な学説と考える。第二説は、8・9世紀、平安時代 初期説。提唱者は高取正男 。第三説は、11・12世紀、院政 期成立説。提唱者は井上寛司 。第四説は、15世紀、吉田神道 成立期説。提唱者は黒田俊雄 [ 65] 。
神社の例(箱根神社 ) 神道に属する神々を祭神とする社を神社 (じんじゃ)といい、全国の神社の大部分は神社本庁 が統括している[ 66] 。なお、神社本庁 は「庁」と称しているが、行政機関 ではなく宗教法人 のひとつであり、神道系包括団体 である[ 67] 。
天皇陵 (仲哀天皇 ・恵我長野西陵)皇室 の祖先神を祀る伊勢神宮内宮 1990年(平成2年) 、第125代天皇 (現・上皇 )の大嘗祭 大嘗祭は新天皇の即位後、五穀豊穣 と国民安寧を祈る神道祭祀である。宮中祭祀 に見られるように、皇室 と神道は歴史的に密接な関わりを持ってきた。記紀神話 には、神武天皇 が大和橿原の地 で即位したのちに鳥見山 の祭壇で祭祀を行ったとの記述があり、古代においては祭政一致 の観念のもと、神祭りを行うことと国を治めることが一体であり、そのいずれもが天皇の役割であると考えられていたとされる[ 68] 。そして、記紀には崇神天皇 の時代に天神地祇 を祀る制度が整備されたとされ[ 69] 、律令制 の整備が進む飛鳥時代 には、神祇官 より全国の神社へ幣帛 が頒布される班幣制度 が整備された[ 70] 。平安時代 以降は、天皇が名神大社 に対して勅使 を派遣して奉幣 と宣命 の奏上 を行わせる名神大社 奉幣 が盛んになり、次第に二十二社 への奉幣 と展開した[ 71] 。平安時代 の中期以降は、律令制度 の弛緩に伴う神祇官 の衰退により、天皇の親祭が高まり、年始の元旦 四方拝 や天皇が内裏 で毎朝、「石灰壇」と呼ばれる台で伊勢神宮 を遥拝する毎朝の御拝 や、即位に際して特定神社へ神宝を送る一代一度の大神宝使 の制度が始められたほか、神社の行宮 まで天皇が赴く行幸 も始められた[ 72] 。
中世の戦乱 で、皇室儀礼 や皇室 の神道儀礼などは廃絶していったが、江戸時代 に入ると復興されてゆき、伊勢神宮 の神嘗祭 に際しての例幣使派遣(伊勢例幣使 )は1647年 (正保 4年)に、二十二社のうちの上七社及び宇佐八幡宮 ・香椎宮 への奉幣は1744年 (延享 元年)に復興された。天皇の特定神社への奉幣 は、近代を経て現代にも受け継がれており、現在では賀茂神社 、石清水八幡宮 、春日大社 をはじめ16の神社が勅祭社 とされ、天皇からの奉幣にあずかっている。
多くの日本国民が仏教 と神道の習慣と信仰を両立させているように、皇室 も神道の祭祀と仏教の行事をともに行っていた。他方で、『貞観儀式』『儀式』などの規定によって、大嘗祭 の期間は中央及び五畿 の官吏 が仏事 を行うことが禁じられ、中祀および内裏 の斎戒を伴う小祀には、僧尼 の代理への参内を禁じ、内裏 の仏事が禁じられたほか、平安時代 中期以降には、新嘗祭 、月次祭 、神嘗祭 などの天皇自らが斎戒 を行う祭においては、斎戒 の期間中、内裏 の仏事をやめ、官人 も仏法 を忌避することとなるなど、神道儀礼と仏教儀礼は、朝廷 においては明確に区分されていた[ 73] 。朝廷 の復権を志向した光格天皇 以降は、朝廷 の儀礼における神道の要素が高まった。明治天皇 の代で行われた神仏分離 や神道国教化 に伴い、仏教 と皇室 の直接的な関係は薄れたが、皇室 菩提寺 であった泉涌寺 と宮内省 の特別な関係は日本国憲法 施行時まで続いた[要出典 ] 。
八百万の神々 を信仰対象とする神道は、すべてのものが精神的な性質(人格があるか、擬人化された魂、霊等)を持つと信じるアニミズム の特徴を保持してきたと考えられている[ 74] 。動植物やその他の事物に人格的な霊魂、霊神が宿るとするアニミズムは、非人格的な超常現象、超自然的な呪力を崇拝するマナ イズム(呪力崇拝)とは区別される[ 75] [ 76] 。アニミズム はすべてのものに魂があると主張するのに対し、物活論はすべてのものが生きていると主張する。[ 77] :149 [ 78]
たたり を恐れ崇拝の対象とする死霊崇拝 は未開宗教におけるアニミズム の一形態とされている[ 79] 。未開社会で行われるシャーマン による呪術 の代わりに、神社 では怨霊 を鎮めるために神として祀った[ 80] 。死を霊魂の永久離脱として他界に赴くが、死霊や動物霊は定められたときにこの世を訪れ、人に憑いて健康を損なわせるとされる。狐憑き 、ヤコツキ 、オサキツキ は動物霊憑依 の例である[ 81] 。
未開社会において特定の氏族、部族が自然現象・自然物や動植物と超自然的関係で結ばれることをトーテムと呼ぶ[ 82] 。南方熊楠 は、大物主 を蛇 トーテムとした[ 83] 。
神道はアニミズム 的宗教であり、その特徴の一つに祭政一致 がある[ 84] 。祭政一致は英語ではSaisei itchi としてそのまま神道の用語として用いられており[ 84] [ 85] [ 86] [ 87] 、柳川啓一 は祭政一致を職業聖職者が直接統治を行う神権政治とは異なるものとして定義した[ 88] 。原始・未開社会の宗教の超自然観はアニミズム的であり、霊的存在に対して呪術 的にかかわる。特定の開祖がなく、儀礼が公的に行われる。法・政治・経済・道徳・慣習などと密接にかかわり、祭政一致 し、祭と経済的活動が同一の場で行われ、タブー (禁忌)が法的または道徳的観念・行動と重なる[ 89] [ 90] 。祭政一致は主として古代天皇制の文脈において言及されてきた[ 91] 。古代天皇制国家 の形成において大嘗祭 の祭式と密接に結びついて成立した王権神話に象徴されるように、政治主権者は原始・未開社会に遡り宗教祭祀者の機能とは未分化であり[ 91] [ 92] 、天皇家 が諸部族の首長 の祭祀権、祖神 とその神話を血縁的系譜関係の神話的設定を通して奪い取り政治的統合を実現した[ 91] 。原始・古代社会では風雨雷地震 などの自然現象、狩猟・農耕の収穫にいたるまですべて神意と考えられていたが、この思想は古代天皇制国家統一の支柱となり、律令制 において神祇官 を設置、中世の神道思想から江戸時代 の国学 へと受け継がれ、明治維新 以後は神道国家観によって天皇の「まつりごと」を強調する傾向が生じ、昭和 に入ると天皇を現人神 とするようになった[ 93] 。
明治維新 後の新政府は「太政官布達 」で祭政一致し神祇官 を再興すると布告した[ 94] 。日本でも巫 の告げる神託 が政治的な権威をもったヤマト王権 の統治体制に遡ることができる[ 95] 。
宗教人類学者の佐々木宏幹 は、シャーマニズム には次のような3つの要素があるとした[ 96] 。
トランス という特別の精神状態において脱魂 (ecstasy)または憑依 (憑霊)(possession)が行われる神 仏 ・精霊 などの超自然的存在と直接接触・交流・交信社会的に一定の役割を持つ信仰 と行動の体系 神代 紀の天鈿女命 、崇神 紀の倭迹迹日百襲姫命 、仲哀 紀の神功皇后 などは突然神がかり(憑依 )、狂躁乱舞しており、シャーマン の例として挙げられてきた[ 97] [ 98] 。
山上伊豆母 は、4世紀の三輪王朝 、5世紀の河内王朝 、そして崇仏派の蘇我氏 による大化の改新 によって律令制 国家となる以前の大和朝廷 は、三輪氏 や多氏 といった巫 を司る一族と政を司る大王 の共同統治が行われてきたと主張している[ 95] 。
シャーマニズム は大きく脱魂 と憑依 (憑霊)の2つにわけることができるが、東アジア(日本、韓国、台湾、中国大陸)、東南アジアのシャーマンに脱魂(ecstasy)型がないとは言えないが、圧倒的に憑依(possession)型が多い[ 99] 。
小口偉一 は、日本の宗教信仰の基底にシャーマニズム的傾向があるとし、神道系新宗教の集団の形成や基盤も同様であるとした[ 98] 。神道系新宗教 の教祖 らの中には召命型シャーマンの系統に属するものがいると考えられている[ 98] 。
神社信仰の性格は、大きく分類すると氏神 型信仰と勧請型信仰(崇敬祈願型信仰)の2つに分けられる[ 100] 。古代における信仰は、前者の、地域ごとに氏神 ・産土神 を祀る閉鎖的な共同体祭祀が中心であったが、中世に入ると、霊威のある神々が地域を越えて各地に勧請され、個人の祈願が行われる勧請型の信仰が増加した[ 100] 。中世期の律令制 の崩壊と荘園制 の成立に伴い、特定神社を国家が支える古代的な律令祭祀制度が崩壊し、荘園領主たちが有力神社を本所 として荘園 を寄進するようになった結果、その寄進された社領にその分霊社が勧請されるようになったことや、各神社が御師 をして地方まで信仰を広げる活動をはじめたことなどが、中世期に入って神社信仰が拡散する要因となった[ 100] 。また、中世期の惣村 では、村民たちは日常の農耕生活の中で神社に寄り合い、村民の中から一年交代で年番神主が選ばれていたり、オトナ・年寄と呼ばれる古老が取り仕切り若者衆が神事の奉仕に当たる神事運営のための祭りの編成組織である宮座 が結成されるなどしたほか、村の取り決めに際しては起請文 を記して神に誓約し、一揆 の時には一味神水 が行われるなど、神社は、民衆の精神的拠り所となっていった[ 101] 。
近世期に入ると、治安や交通の改善によって人々の神社参詣がさらに活性化し、一層庶民の間での神社信仰が広がった。各村では講 が結成され、毎年わずかなお金を積み立て、その共同出資をもとに籤で選ばれた代表者が神社に参詣し、講員全員分のお札などを受け取って帰る代参講が流行し、各講は御師 や先達と師檀関係を結び、御師 は講員の祈祷 や参詣における宿泊の便を図った[ 102] 。このようなことから、数百万人が短期間で伊勢神宮 に参拝したと記録されるお蔭参り をはじめ、近世期には多数の人々が神社に参詣した。他方で、近世期の神社参詣は、近世社会における輸送組織の発達や道中での宿屋・遊楽施設の充実などにより、道中において様々な名所を見物したり、遊興を行うといった、観光・娯楽的な要素も多く持つものであった[ 103] 。このような観光と寺社参詣の結びつきは、近代を経て現代でも受け継がれており、観光における神社の存在感は大きなものとなっている[ 104] 。この他、現在における神社への信仰は、初詣 、お宮参り 、七五三 、結婚式 など、個人や家族の年中行事や人生儀礼において現れている[ 105] 。
以下では、特に全国的に広がった神社信仰について概覧する。
厳島神社 (広島県廿日市市)以下は一般的な参拝 の流れである。神社によっては作法が異なることがある。多くの場合、その旨の表示がある。
参拝を行う日は毎月1日と15日がよいとされる。参拝する前に、本来は神の前に向かう前に心身を清める禊 が必要である。これは神が「穢れ 」を嫌うとされることによるが[ 112] 、現代であれば、一般参拝では入浴 ・シャワー などで身体を清潔にしてから参拝する心がけが望ましい。神社に到着し、鳥居 や神門をくぐる際は「小揖(身体を15度折り曲げるお辞儀。会釈に相当)」するのが望ましい。このときには脱帽し、服装もきちんと整えるようにする。
次に手水舎 にて手水 を使い、手口を洗う。これは拍手 と神拝詞奏上を行う手口(さらには心 )を清める意味合いを持つ、ひとつの禊である。手水の作法としては、
まず、手水舎 の前で小揖する。 柄杓 を右手で持って水をすくい、その水を左手にかけて清める。柄杓を左手に持ち替え、右手を洗い清める。 柄杓を再度右手に持ち替え、すくった水を左手に受けて溜め、この水で口をすすぐ。口をすすぐ際には口が直に柄杓に触れないようにする。 これらが終わったあと、使った柄杓を洗い清めるが、このときは水を入れた柄杓を立て、柄に水を流すようにして洗う。柄杓を洗うのには次の人のための配慮という意味合いもある。 洗い終わった柄杓は元の位置に伏せて置き、最後に口と手を拭紙やハンカチ などでぬぐう。 最後にもう一度小揖する。 これらの作法は一連の動作で行うのが好ましい。 なお、巫女 の補助がつく場合には、作法は巫女の指示にしたがうようにする。手水 を使い終わったら拝礼を行うために参道 を通り社殿へと向かう。神前ではまず神への供物 として(供物を捧げるほかにお祓いの意味もあるといわれる)賽銭箱に賽銭 を奉納する[ 113] 。次に賽銭箱の近くにある鈴鐘 を鳴らすが、これには邪気を払う[ 112] 、清らかな音色 で神を呼び寄せて参拝に訪れたことを神に告げる、参拝者を敬虔な気持ちにするとともに神霊の発動を願うなどの意味合いがあるとされる[ 114] [ 115] 。
鈴鐘を鳴らした後に拝礼を行う。拝礼の基本的な作法は、現在は「再拝二拍手一拝 」(あるいは「二拝二拍手一拝 」「二礼二拍手一礼 」)がおもに利用されている[ 112] 。すなわち、
拝(身体を90度折り曲げるお辞儀)を二度行う。 拍手 を二度打つ。より具体的には、両手を胸の高さで揃えて合わせ、右手を下方向に少し(指の第一関節ほど)ずらし、その状態で両手を二度打ち合わせて音 を出し、ずらした右手を再び揃えて祈念を込め最後に両手を下ろす[ 116] 。一拝する。 神拝詞 を奏上する場合は、再拝→神拝詞奏上→再拝二拍手一拝の順で行う。というもの。再拝二拍手一拝の前後に深揖(身体を45度折り曲げるお辞儀。最敬礼に相当)を行うとより丁寧である。祈願を行う場合は二拍手と一拝の間に氏名および居住地と願い事を(声に出して、あるいは心の中で)陳べるのが一般的となっている。また、神恩感謝を述べたい場合も同様である。参拝時は、目を閉じることなく目を開けたままが望ましい[要出典 ] 。正式参拝や祈祷などで玉串 を捧げる場合は、上記の深揖と再拝の間で、玉串に祈念を込めて根本を神前に向けるようにお供えする[ 117] 。
一部の神社では作法が異なっており、たとえば、出雲大社 や宇佐神宮 、彌彦神社 では「四拍手」である。伊勢神宮 や熱田神宮 での神事では「八度拝、八開手」となっている[ 118] 。
身内に不幸があった人は50日間(仏式の49日)を経過するまで神社参拝は控える必要がある[ 112] [ 119] 。死穢 の観念からである[ 120] 。 神前に捧げる御饌 は、火を通したもの(熟饌)を供える場合、神聖な炎として火鑽具を用いて厳粛に起こされた忌火 を用いるのが望ましい[ 121] 。 一部で女性は音を立てて拍手してはいけないという珍説を信じる者がいるが、間違いである。そもそも拍手は音を立てるものであり、音をかすかにたてる拍手は「忍び手」と言って、性別関係なく葬儀 で用いるものである[ 122] 。 ^ 『日本書紀 』では、日本列島 外(ここでは百済 )で神が祀られることが想定されていると取れる記述がある。蘇我卿曰「昔在
天皇 大泊瀬之世、汝國、爲高麗所逼、危甚累卵。於是、天皇命神祇伯、敬受策於神祇。祝者廼託神語報曰『屈請建邦之神・往救將亡之主、必當國家謐靖・人物乂安。』由是、請神往救、所以社稷安寧。原夫建邦神者、天地割判之代・草木言語之時・自天降來造立國家之神也。頃聞、汝國輟而不祀。方今、悛悔前過・脩理神宮・奉祭神靈、國可昌盛。汝當莫忘。」
—欽明天皇十六年二月条
^ 神典 という古典群が聖典として扱われることがある^ ただし仏教 を仏道と呼んだり、儒教 を儒学と呼んだりする。また、「キリスト教」は明治時代 以降の語で、安土桃山時代 から江戸時代 には「切支丹 」と呼ばれていた。 ^ 教派神道の『神道各派』から区別された神ながらの道はとくに国家神道とも呼ばれるが、法律家や行政実務家は以前からそれを神社と呼ぶのが例であった[ 26] 。現在では政教分離 が進んで「神社」の語義が変化しており、国家神道を単に「神社」と称することはほぼなくなった。しかし、この様な国家神道の概念・語を、創作・捏造とする説もある。昭和26年の宗教法人法 により、多くの神社が政府機関から伊勢神宮 を中心とした神社本庁 傘下の宗教法人 へと変更された経緯がある[ 27] 。 ^ 正確には、天理教は政府の弾圧を避けるために教派神道となり、現在は諸派に分類されている ^ 大内 建彦 (1993). “アジスキタカヒコネと建国神 (II):原ヤマトタケル伝承と四・五世紀史序説”. 城西大学女子短期大学部紀要 10 (1): 39-47. doi :10.20566/02897849_10(1)_b39 . ^ これは『宗教年鑑』(文化庁)に基づく神道支持者とされる者の数で、神社側の自己申告によるものである令和6年版』 ^ “伝説の後南朝 神器巡る悲劇、今に伝える 朝拝式(奈良県川上村) …|エンタメ!|NIKKEI STYLE ”. web.archive.org (2017年4月9日). 2019年12月1日閲覧。 ^ 松村明ほか (2018年). “デジタル大辞泉 ”. 小学館. 2019年1月8日閲覧。 ^ 神社本庁 神道とは ^a b “神道国際学会 のホームページ”. 2019年6月30日閲覧。 ^ 岡田荘司 2010年 p.22-23 ^a b 『世界大百科事典』 217-218頁。 ^ 『神道』 12-13頁。 ^a b 岡田荘司 2010年 ⅲページ ^ “長野県神社庁のホームページ ”. 2016年3月24日閲覧。 ^a b 『神道』 18頁。 ^ 神社本庁教学研究所監修 編『神道いろは-神社とまつりの基礎知識-』神社新報社 、2007年1月25日、14頁。 ^a b 大島宏之 『この一冊で「宗教」がわかる!』三笠書房 ^ “第6部 流浪する神仏 宗教の変革|明治維新150年「維新鳴動-かごしま再論-」 ”. 南日本新聞 . 2024年5月28日閲覧。 ^ 神社本庁教学研究所監修 編『神道いろは-神社とまつりの基礎知識-』神社新報社 、2007年1月25日、14、15頁。 ^ 末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)6頁 ^ 末木文美士『中世の神と仏』山川出版社(2003)14頁 ^ 全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社。 ^ 『宗教年鑑 令和6年版』 (PDF ) ^ “日本の宗教人口-2億と2-3割の怪の解- ” (PDF). 武蔵野大学仏教文化研究所 渡辺浩希. 2014年7月3日閲覧。 ^a b 『神道』 20頁。 ^ “主要祭儀一覧 ”. 宮内庁. 2018年5月24日閲覧。 ^ 『世界大百科事典』 219頁。 ^ 『神道』 134頁。 ^ 宮沢俊義 『憲法講話』(第2版)岩波書店 〈岩波新書 〉、1967年6月1日(原著1967年4月20日)、pp. 28-29頁。 ^ 石原藤夫 『靖国神社一問一答』(展転社 、2002年12月23日) 26頁。 ^ “国家神道 ”. コトバンク. 2019年12月16日閲覧。 ^ 小林宣彦 (2020年4月10日). “コミュニケーションがとれない日本の神=自然 災害対策施策としての祭祀の歴史 ”. 國學院大學メディア. 2020年11月12日閲覧。 ^ 岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),68-69頁 ^ 岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),72頁 ^ 岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),14-15頁 ^ 表記例として、『日本文徳天皇実録 』(9世紀 成立)仁寿 元年(851年 )に、「神那我良(かんながら)」の記述がみられる。 ^ 『世界大百科事典』216頁 ^ 即位前紀。 ^ 『世界大百科事典』216-217頁。 ^ 『神道』16頁。 ^a b c d e f g h 三橋健 『決定版 知れば知るほど面白い!神道の本』 西東社 ^ 磯前順一 『近代における「宗教」概念の成立過程』 第3巻(初版)、岩波書店〈近代日本の文化史〉(原著2002年1月15日)、185頁。ISBN 400011073X 。 ^ 山口輝臣『明治国家と宗教』東京大学出版、1995年。 ^ 『万葉集 』巻第13「柿本朝臣人麻呂 の歌集の歌に曰く」。国歌大観番号 3253番。 ^a b c 國學院大學日本文化研究所『神道事典』弘文堂(1999),366頁 ^ 大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),345頁 ^ 大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),348頁 ^ 石田一良『神道思想集』筑摩書房(1970),16頁 ^ 大隈和雄『中世神道論』岩波書店(1977),355頁 ^ 神社本庁編『神社のいろは 続』扶桑社(2013),101頁 ^ 伊藤聡『神道とは何か』中公新書(2012),243頁 ^ 伊藤聡『神道とは何か』中公新書(2012),237-238頁 ^ 阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),67頁 ^ 平重道・阿部秋生編『近世神道論・前期国学』岩波書店(1972),545-550頁 ^ 阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),70頁 ^ 『日本史大事典』平凡社1993年、「国家神道 」の項参照。 ^ 『日本思想体系 5 宗教と国家』岩波書店、1988年、541-553頁。ISBN 4-00-230005-6 。 ^ 阪本是丸・石井研士編『プレステップ神道学』弘文堂(2011),78頁 ^ 菅田正昭 『面白いほどよくわかる神道のすべて』日本文芸社 ^a b 國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),37頁 ^a b c d 國學院大學日本文化研究所編「神の語義と類型」『神道事典』弘文堂(1999),38頁 ^ 直木孝次郎 の説、1982年。岡田荘司 2010年 24頁。^ 『古神道の本』学研 30頁。 ^ 石原藤夫 『靖国神社一問一答』(展転社 、2002年12月23日) 52頁。 ^ 前田晁 『少年國史物語』早稲田大学出版部 ^ 『神道の本』 学研 174、175頁。 ^ 岡田荘司 2010年 ⅴページ ^ 岡田荘司 2010年 15-16頁。 ^ 『神社』 136頁。 ^ 島田 裕巳 神社で拍手を打つな! -日本の「しきたり」のウソ・ホント 出版社: 中央公論新社 (2019/11/7) P24 ^ 神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),36頁 ^ 神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),18頁 ^ 神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),42-43頁 ^ 神社本庁監修『神社のいろは 続』扶桑社(2013),63頁 ^ 岡田莊司編『日本神道史』吉川弘文館(2010),140-148p ^ 佐藤眞人「神道と仏教」『神道事典』弘文堂(1999),24-26p ^ Nelson 1996 , p. 7;Picken 2011 , p. 40.^ ブリタニカ・ジャパン 2021d , p. 「自然崇拝」.^ ブリタニカ・ジャパン 2021e , p. 「精霊崇拝」.^ Skrbina, David. 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