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砂田重政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
砂田 重政
すなだ しげまさ
農林政務次官就任時に公表された肖像
1926年頃 撮影)
生年月日 (1884-09-15)1884年9月15日
出生地日本の旗日本愛媛県今治市
没年月日 (1957-12-27)1957年12月27日(73歳没)
出身校東京法学院卒業
(現・中央大学
所属政党立憲国民党→)
革新倶楽部→)
立憲政友会→)
立憲政友会正統派→)
翼賛議員同盟→)
無所属→)
自由党→)
日本民主党→)
自由民主党河野派
称号正五位
勲一等旭日大綬章
子女長男・砂田重民(元衆議院議員)
親族甥・砂田圭佑(元衆議院議員)
内閣第2次鳩山一郎内閣
在任期間1955年7月31日 -1955年11月22日
選挙区(兵庫県第1区→)
(愛媛県第3区→)
旧愛媛2区
当選回数9回
在任期間1920年5月10日 -1942年1月29日
1952年10月1日 -1953年3月14日
1955年2月27日 -1957年12月27日
その他の職歴
第2代自由民主党総務会長
(総裁:石橋湛山岸信介
1956年 -1957年
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砂田 重政(すなだ しげまさ、1884年明治17年〉9月15日 -1957年昭和32年〉12月27日)は、日本政治家防衛庁長官第4代)、衆議院議員(9期)、自由民主党総務会長(第2代)などを歴任した。

来歴・人物

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愛媛県今治市生まれ。父親は退役軍人で、家が貧しかったため役所の給仕として働き、18歳で上京。1904年(明治37年)東京法学院(現・中央大学)を卒業後、司法官補を経て、弁護士を開業する。1920年(大正9年)に立憲国民党から旧兵庫1区にて衆議院議員に初当選。以後当選9回。犬養毅に師事し、立憲国民党→革新倶楽部立憲政友会と渡り歩く。犬養内閣にて農林政務次官に就任。犬養亡き後は、政務次官時代に大臣として仕えた山本悌二郎派に身を寄せる。1936年(昭和11年)より選挙区を兵庫県から出身地の愛媛県に鞍替えする。1937年(昭和12年)には宇垣一成首班工作に携わった。政友会幹事長(1938年1939年)を経て、1939年の政友会分裂では鳩山一郎を支持して久原派に所属する。

政党解消後は大政翼賛会に入り、議会局審査部長などを務める。1942年(昭和17年)には中央政界を離れ、南方軍軍政顧問としてシンガポールに赴任する。戦後は公職追放期間を経て、1952年(昭和27年)に旧愛媛2区から自由党から当選し復活を果たすも、翌1953年(昭和28年)には落選した。1955年(昭和30年)には日本民主党から当選し、三木武吉の要請で党国会対策委員長となる。同年第2次鳩山内閣にて防衛庁長官として入閣。保守合同後は自由民主党で総務会長を務める。

アサヒグラフ』1955年12月7日号より

自民党では河野一郎派の客分格であったが、後輩の風下に立つのは潔しとしなかったのか、かなり金銭的に無理をして「砂田派」(宜軒会)を立ち上げた。傘下には池田正之輔浜野清吾らがいたが、すぐに亡くなったため、砂田派の存在が数えられないことが多い。また晩年には全国戦争犠牲者援護会会長を務め、千鳥ケ淵戦没者墓苑の建設に熱心に取り組んでいた[1]

1957年(昭和32年)9月には日本相撲協会に請われて設立されたばかりの運営審議委員会委員となった[2]

1957年(昭和32年)12月27日、心臓麻痺のため73歳で死去[3]。翌28日には、勅使品川区平塚の自宅を訪れ、祭粢料を賜った[4]。地盤は長男の砂田重民が引き継いだ。墓所は小平霊園(15-1-5)。

防衛庁長官時代

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砂田は防衛庁長官在任中の1955年8月、自衛官の防衛出動時に郷土の治安維持にあたる郷土防衛隊構想を提示し、今日における民間防衛(日本においては国民保護)組織の必要性とともに、日本の高等学校、大学等の卒業生を一年間自衛隊において訓練し予備幹部自衛官とする、予備幹部自衛官制度の必要性を訴えた[5]。当時の閣議を経ていない個人としての意見という意味合いが強く、自衛隊のあり方に慎重な世論の批判により、更迭されるに至った。

家族・親族

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北海道開発庁沖縄開発庁長官を務めた砂田重民は長男。次男の砂田勝次郎は河野一郎の秘書を経て、東京・永田町でバナナ輸入会社「砂田産業」を経営、「黒い霧台湾バナナ事件」で名を馳せた日本バナナ輸入組合の初代理事長も務めた[6][7]。輸入台湾バナナの大物として知られた陳杏村の息子で政商の謝哲信(蓮舫の父)と懇意で、謝は砂田産業を実質的に経営した(のちに桂信貿易と改称し謝の妻が代表取締役を務める)[6][7][8]

衆議院議員を務めた砂田圭佑は甥。娘は椙杜正太郎に嫁いだ。犬丸純子は砂田重政の娘とされることがあるが、椙杜和正の姉が正しく、椙杜家から犬丸二郎のもとに嫁いだ。TOKMA(トクマ)(ロックミュージシャン)は、曾孫にあたる。

脚注

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  1. ^私の履歴書/砂田重政
  2. ^高永武敏・原田宏共著「激動の相撲昭和史」ベースボール・マガジン社、p.153
  3. ^服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)15頁
  4. ^宮内庁『昭和天皇実録第十二』東京書籍、2017年3月28日、415頁。ISBN 978-4-487-74412-1 
  5. ^"郷土防衛隊"構想の消長,樋口恒晴,政教研紀要22号,P113-133,1998年1月,国士舘大学日本政教研究所
  6. ^ab第052回国会 農林水産委員会 第4号 1966年
  7. ^abライフ・清水信次会長「政財界交友録」蓮舫氏の父、祖母との絆 2017.1.23 週刊朝日
  8. ^会社概要 桂信貿易株式会社

関連項目

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ウィキメディア・コモンズには、砂田重政に関連するカテゴリがあります。
ウィキソースに私の履歴書/砂田重政の原文があります。
議会
先代
島田俊雄
日本の旗衆議院予算委員長次代
若宮貞夫
公職
先代
杉原荒太
日本の旗防衛庁長官
第4代:1955年
次代
船田中
党職
先代
石井光次郎
日本の旗自由民主党総務会長
第2代:1956年 - 1957年
次代
佐藤榮作
帝国議会
国会
日本の旗 防衛庁長官
保安庁移行までの長官等
警察予備隊本部長官
警察予備隊担当国務大臣
海上保安庁長官
防衛大臣旗
保安庁長官
防衛庁長官
防衛大臣
保安庁長官、防衛庁長官は国務大臣としてのもの
定数3
第23回
第24回
第25回
第26回
第27回
第28回
第29回
第30回
第31回
第32回
第33回
第34回
第35回
第36回
第37回
第38回
第39回
第40回
↓:途中辞職、失職など、↑:補欠選挙で当選。
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