| 石渡 敏一 いしわたり びんいち | |
|---|---|
石渡敏一 | |
| 生年月日 | 1859年12月19日 (安政6年11月26日) |
| 出生地 | 武蔵国江戸 |
| 没年月日 | 1937年(昭和12年)11月18日 |
| 出身校 | 旧東京大学法学部 |
| 称号 | 栄典参照 |
| 内閣 | 第1次西園寺内閣 |
| 在任期間 | 1906年1月7日 -1908年1月4日 |
| テンプレートを表示 | |
石渡 敏一(いしわたり びんいち[注釈 1]、1859年12月19日(安政6年11月26日[1]) -1937年(昭和12年)11月18日)は、官僚、政治家。法学博士。大審院検事、司法次官、貴族院勅選議員、枢密顧問官。法典調査会刑法起草委員。位階・勲等は正三位勲一等[2]。江戸(後の東京)出身。石渡荘太郎の父。学校法人日本大学第一学園の創立の功労者。
江戸で幕臣・軍艦役並、石渡栄次郎の長男として生まれる[1]。1874年(明治7年)慶應義塾に入り1876年(明治9年)卒業。1879年(明治12年)9月東京大学法学部に入り、1884年(明治17年)7月に同大学英法科を卒業した。同年8月司法省に入省し、記録局翻訳課詰となる[注釈 2]。
1886年(明治19年)欧州留学、帰国後東京控訴院検事、大審院検事、1899年(明治32年)ベルギーの万国監獄会議派遣、同年4月に慶應義塾大学部政治科教授(刑法担当)。民事局長、司法次官を経て1906年(明治39年)第1次西園寺内閣の内閣書記官長。辞任後、1907年12月10日、貴族院勅選議員に任じられた[3]。1912年4月9日、錦鶏間祗候となる[4]。後に東京瓦斯会社社長。1934年(昭和9年)3月に枢密顧問官となり[1]、同年4月6日に貴族院勅選議員を辞任した[5]。
1937年(昭和12年)11月18日死去。享年79。墓所は多磨霊園。
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 柴田家門 | 第13代:1906 - 1908 | 次代 南弘 |
この項目は、日本の政治家に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:政治学/PJ政治)。 |