| いしまる けんじろう 石丸 謙二郎 | |
|---|---|
| 本名 | 同じ[1] |
| 生年月日 | (1953-11-01)1953年11月1日(71歳) |
| 出身地 | |
| 身長 | 172cm[3] |
| 血液型 | A型[3] |
| 職業 | 俳優、声優、ナレーター |
| ジャンル | テレビドラマ、映画、ナレーション |
| 活動期間 | 1977年 - |
| 事務所 | 青年座映画放送部 |
| 公式サイト | 石丸謙二郎公式ホームページ |
| 主な作品 | |
| テレビドラマ 『ぼくらの勇気 未満都市』 『仮面ライダー電王』 『警視庁ゼロ係』シリーズ 『十津川警部シリーズ(内藤剛志版)』 『初めて恋をした日に読む話』 『ちむどんどん』 『マウンテンドクター』 映画 『劇場版 仮面ライダー電王』シリーズ 『トリック劇場版 ラストステージ』 『鋼の錬金術師』 ナレーション 『世界の車窓から』 | |
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石丸 謙二郎(いしまる けんじろう、1953年〈昭和28年〉11月1日[3][4] - )は、日本の俳優、声優、ナレーター。大分県大分市出身[2]。2006年1月1日より青年座映画放送部所属。
大分市立碩田中学校、大分県立大分上野丘高等学校卒業[5]。日本大学藝術学部演劇学科中退。
幼少期から山を走り回っており、「将来はターザンになりたい」と言っていた。部活動で野球部に入っていた時期があるが、身体が小さかったことに加え、弁膜症を患っており、医師から走ることや日光を浴びることを禁止されていた時期が1年近くあったが、言われる通りにする生活につまらなさを感じ、倒れてもいい覚悟で身体を動かしていた[6]。
高校卒業後に大分から上京し、日本大学芸術学部演劇学科に進学するも2年生のときに中退し、渋谷区のホテルで住み込みのアルバイトやビルの掃除、飲食店などのアルバイトを掛け持ちし、1日の睡眠時間が3時間ほどの生活を送っていた。貯めた資金でニューヨークのブロードウェイに行って腕を磨くことを試みていたが、ビザの申請で「1万ドルを見せなさい」と言われ、金額が足りずに断念した矢先、知り合いに「必ず儲かるから」と投資話を持ち掛けられ、預けた資金を全て持ち逃げされてしまい、サーカスのアルバイトで全国を転々とする生活を送り、その間は公園で寝食したこともあった[6][7]。
アルバイト先の近くで、つかこうへいが手掛けるロックオペラの芝居稽古を様子を見にいったところ、3000人のオーディションから通過した50人ほどの役者が並んでいたが、つかが初めて手掛けるジャンルの稽古でうまくいかず、つかが「誰か踊れるヤツいないか」と声がかかったところに手を挙げ、オーディションもせずに出演が決まり、以降は事務所にスカウトされ、1977年に『いつも心に太陽を』で舞台デビュー。
父親が銀行員で引っ越しが多く、大学入学で上京するまで、大分県内だけで23か所の家に住んでいた[8]。
ウインドサーフィン・登山・スキー・墨絵・自転車・ピアノなど多趣味であるが、役者の仕事柄、怪我や日焼けをしないよう37歳までは趣味を封印していたという[9]。
落ち着いたトーンの声質で、1987年から『世界の車窓から』のナレーションを一貫して務め、知名度を得る。このことから鉄道に関連した作品への出演が多く、『仮面ライダー電王』ではオーナー役、『十津川警部シリーズ』(TBS系)では2017年から新たに亀井刑事(巡査部長)を演じている。日本テレビ系『ぶらり途中下車の旅』では常連旅人として出演しており、2015年11月28日放送分では、藤村俊二の代わりでナレーターも務めている。
朝起きて「せ・か・い」と言えばその日の健康状態がわかるという。
1974年に日本で初めてストリーキングを敢行したと自称しており、「『ストリーク!ストリーク!』と怒鳴りながら」、東京・原宿を走ったという[10]。なお、一般には同年3月12日に広島市で行われたものが日本人による初のストリーキングとされる。
祖父が関根大サーカスの団長だったこともあり幼い頃から体感を鍛えられていた。20歳頃から数年、アルバイトでピエロとしてサーカスに出演していた[11][6]。石丸のピエロ姿が同サーカス団のポスターに描かれたこともある[12]。
プライベートでは多趣味なアウトドア派。フリークライミングやウインドサーフィン、登山、ダンス、手品[13]などを趣味としている。また、ケイビング(スポーツとしての洞窟探検)も得意で、その技能を生かして『飛び出せ!科学くん』にゲスト出演を果たしている。
70歳でマッターホルン(標高4478m)の登頂に成功している。登頂に向けて10kg減量し、薄い空気に慣れるために、富士山に何度か登ってから挑戦したという。
ファイナル進出経験こそないものの、8~10位と安定した成績を残すことが多く、TAIL IMPOSSIBLE開始前まではファイナリストの当落線上にいることも多々あった。SPIN OFFでは前述の通り、球体の回転を活かしたテクニックで当種目で後にNo.1になったきんに君とワッキーに勝利した経験がある。QUICK MUSCLEでも初挑戦以降毎回自己記録を更新し、一時は芸能人歴代2位タイの記録を作っていた。MUSCLE GYMでの初挑戦での218回は、歴代の初挑戦記録で知幸(241回)、きんに君(227回)に次ぐ3位である。
初出場の第11回以降、年齢が1つ年上の野村将希と毎回自己記録更新などに挑んでおり、野村が跳び箱を成功した際には共に喜び、野村がトーナメント種目で敗退した際には悔しがる様子を見せていた。
| 大会 | 放送日 | 総合順位 |
|---|---|---|
| 第11回 | 2003年3月23日 | 10位 |
| 第12回 | 2003年9月26日 | 9位 |
| 第13回 | 2004年4月5日 | 9位 |
| 第14回 | 2005年4月8日 | 8位 |
| 第16回 | 2006年3月29日 | 14位 |
| 第17回 | 2006年10月4日 | 11位 |
| 第18回 | 2007年10月5日 | 10位 |
TBS系『SASUKE』『スポーツマンNo.1決定戦』の常連出場者で、野村将希と自己記録の更新に挑んでおり、両名の克己心を自らのモチベーションにする若手芸能人も少なくない。また、初回出演時には局からのオファーではなく「自ら葉書を出して応募した」一般応募枠であることを明言している。SASUKEには過去16回出場し、1st STAGEクリアこそないものの、1stの最終エリアまでは2回到達している。