矢野 酉雄(やの とりお、1897年(明治30年)10月6日[1][2][3] -1963年(昭和38年)11月20日[1][2][3][4])は、大正から昭和期の教育者、雑誌編集者、政治家。参議院議員(1期)。号・孤山[1][2][3]。
福岡県[1][2][4]三池郡上内村大字上内(銀水村を経て現大牟田市大字上内[5])で矢野巽の息子として生まれる[6]。福岡県立八女中学校[注 1]を経て[5]、1917年(大正6年)福岡師範学校を卒業[1][2][3][4]。その後、中央大学法科、日本大学高等師範科で学び[3][5]、同年、福岡県三池郡内各尋常小学校訓導を務めた[1][2][4]。その後、文部省教員検定試験に合格し中等教員免状を取得[6]。以後、沖縄県女子師範学校教諭兼訓導兼同県立高等女学校教諭、鹿児島県第二師範学校教諭兼訓導、福岡県立嘉穂中学校[注 2]教諭、同県実業補習学校指導員などを務めた[1][2][4]。
1933年(昭和8年)講談社に入社し編集、評論活動に従事[1][2][3][5]。1936年(昭和11年)生長の家に加わり教育部長兼編集部長、本部理事を務めた[1][2][3][5]。1947年(昭和22年)4月の第1回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で出馬して当選(補欠、任期3年)[1][2][3][7]。緑風会に所属し参議院在外同胞引揚問題に関する特別委員長、第3次吉田内閣厚生政務次官などを務めた[1][2][4]。1949年(昭和24年)5月16日、九州地方に向けた昭和天皇の戦後巡幸に際し、九州選出の国会議員27人が皇居を訪問、矢野が代表して昭和天皇に「つつがなき行幸をお祈りします」旨の言上を行っている[8]。
1947年に生長の家から離れたため、1950年(昭和25年)6月の第2回通常選挙では落選し[1][5][9]、参議院議員に1期在任した[4]。また、1953年(昭和28年)4月の第26回衆議院議員総選挙に東京都第3区から無所属で立候補したが落選した[10]。
その後、教育公論社長、矢野経済研究所会長などを務めた[1][2][3][5]。
1963年(昭和38年)11月20日死去、66歳。死没日をもって勲四等旭日小綬章追贈、正七位から従五位に叙される[11]。墓所は世田谷区松陰神社。
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