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誕生 | 村上 卓児 (1934-10-20)1934年10月20日 大阪府大阪市西成区 |
死没 | (2019-11-03)2019年11月3日(85歳没) 大阪府大阪市阿倍野区 |
職業 | 小説家 |
国籍 | ![]() |
教育 | 学士(経済学) |
最終学歴 | 大阪大学経済学部 |
活動期間 | 1960年 - 2019年 |
ジャンル | SF |
文学活動 | インサイダー文学論 創作集団プロミネンス |
代表作 | 『司政官シリーズ』 『なぞの転校生』 『ねらわれた学園』 『迷宮物語』 『時空の旅人』 『僕と妻の1778の物語』 |
主な受賞歴 | 空想科学小説コンテスト佳作(1961年) 泉鏡花文学賞(1979年) 星雲賞(1979年) 日本文芸大賞(1987年) 星雲賞(1996年) |
デビュー作 | 『下級アイデアマン』 |
子供 | 村上知子 |
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眉村 卓(まゆむら たく、1934年〈昭和9年〉10月20日 -2019年〈令和元年〉11月3日[1][2])は、日本のSF作家。代表作「司政官シリーズ」で1979年 (昭和54年) に泉鏡花文学賞を、同年と1996年 (平成8年) に星雲賞日本長編部門を受賞している[3]。本名は村上 卓児(むらかみ たくじ)。
1934年 (昭和9年) に大阪府大阪市西成区で生まれる。大阪府立住吉高校を経て[4]、1957年 (昭和32年) に大阪大学経済学部卒業後、大阪窯業耐火煉瓦株式会社(のちの株式会社ヨータイ)に入社、日生工場(現岡山県備前市日生町)赴任[5]。1958年 (昭和33年) に大阪本社に転勤。この頃の経験を題材として後年『傾いた地平線』に「ぼくがそうであったかも知れぬ可能性」の世界として描かれた。作品では日生町をモデルにした「H町」が舞台のパラレルワールドで登場し、とうに辞めたはずの耐火材メーカーにまだ勤めていて、しかも一度も転勤せずに暮らしている――。というストーリーだった。当時を振り返り、眉村は「孤独感はなく、むしろ高揚していた」と回想している。日生町での暮らしは大阪本社への転勤で1年弱で終わったものの、作家になった後も息抜きやネタ探し目的で訪れた。「町の地形をうまく切り取って異界の入り口に仕立てたものもあり、着想の豊かさに驚かされる」と加子浦歴史文化館学芸員が指摘するように、工場への道行きは山稜が海に迫り、片側は山、片側は眼下に海を見ながらであった。工場は戦後復興期にできた耐火煉瓦製の煙突3本が今も立ち、沖600メートルには日生諸島の曽島がある。自筆年譜によると、SFに対して「自分が書こうとしているものはこの線上にある」と考えたという[6]。
1960年 (昭和35年) からSF同人誌『宇宙塵』に参加する[7]。
1961年(昭和36年)3月21日発売の『ヒッチコック・マガジン』5月号にショートショート5作品が掲載され、商業誌デビューを飾った[7][8]。同年には「下級アイデアマン」が第1回空想科学小説コンテスト(のちのハヤカワ・SFコンテスト)佳作第2席に入選している[7][9]。
1963年 (昭和38年) に初めての単行本である処女長編『燃える傾斜』を刊行、同年、大阪窯業耐火煉瓦株式会社を退社、株式会社大広の嘱託コピーライターとなる。
1965年 (昭和40年) 、第一作品集『準B級市民』を刊行、同年大広を辞め、専業作家として活動を開始する[1]。1968年 (昭和43年) には、三一書房の「さんいちぶっくす」から初のショートショート集『ながいながい午睡』を刊行した。以降、生涯に渡ってショートショートを書き継いでいくが、その数は3000篇もの数に達する。これは星新一の書いたショートショートの倍近い分量である[10]。
1979年 (昭和54年) には、『消滅の光輪』にて第7回泉鏡花文学賞および星雲賞を受賞した[1]。1987年 (昭和62年) に『夕焼けの回転木馬』で第7回日本文芸大賞を受賞し、1996年 (平成8年) には『引き潮のとき』で2度目となる星雲賞を受賞した。インサイダー文学論を提唱し、組織と個人の葛藤を作品のテーマとしている。また多数の短編SFやエッセイ、ジュブナイル小説を執筆した。作家活動以外ではラジオパーソナリティも務めた[9](『チャチャヤング』(毎日放送)、『男のポケット』(FM大阪)、『飛べ! 熊五郎、ただ今大奮闘』(ラジオ関西))。
ジュブナイル小説の代表作にはNHK『少年ドラマシリーズ』などでテレビドラマ化された『なぞの転校生』、『ねらわれた学園』などがある。ジュブナイル小説の多くが絶版となったが、2003年 (平成15年) から講談社の青い鳥文庫から4冊が復刻されている。
また、福島正実が創設した作家、翻訳家、画家等の集団「少年文芸作家クラブ」(のち「創作集団プロミネンス」)にも参加した。「覆面座談会事件」で福島と仲たがいした他のSF作家たちが会から脱会したのちも、光瀬龍とともに会に残った。また、1974年には福島と長編『飢餓列島』を共作している[11]。
日本SF作家クラブ会員であり、矢野徹会長時代に四代目事務局長をつとめたが、1992年 (平成6年) から2008年 (平成20年) まで退会していたことがあったという。
大阪芸術大学芸術学部文芸学科の教授、同大学院の芸術研究科教授[12]、平安女学院大学文化創造センター客員教授も務めた。
2006年 (平成18年) から、産経新聞夕刊(大阪本社発行)の読者投稿欄『夕焼けエッセー』(2019年〈平成31年〉4月から朝刊『朝晴れエッセー』)の選考委員を務めた[1]。
2009年 (平成21年) 11月に、癌で2002年 (平成14年) に死去した妻・悦子に日々、自作のショート・ショートを捧げた実話をもとにした、映画『僕と妻の1778の物語』が製作発表され、東宝配給で2011年 (平成23年) 1月に公開された。2012年 (平成24年) 6月には「笑うは薬」堀内孝雄歌唱でエピソードがCD化された。
2012年 (平成24年) より、泉大津市オリアム随筆賞の選考委員に就任した。2013年 (平成25年) 、他のベテラン作家とともに、日本SF作家クラブの名誉会員に[13]。
2019年 (令和元年) 11月3日午前4時1分、誤嚥性肺炎のため大阪市阿倍野区の大阪鉄道病院で死去。85歳没[2]。死の3日前に完成させた自伝的長編小説『その果てを知らず』が最後の作品になった[7]。同作品は、翌年に講談社から刊行された。
2020年 (令和2年) 、第40回日本SF大賞で功績賞を受賞[14]。
眉村は高校時代に俳句部に所属し、水原秋桜子主宰の「馬酔木」に投句するなどしていた。作家としてデビューした昭和40年代には、毎日新聞の記者をしていた赤尾兜子とパーティで知り合い、これをきっかけにして兜子の主宰誌「渦」の同人となっている。当時眉村は俳句の中にSF的な感覚を盛り込むことを試みていたが、逆に兜子から、小説の文章が俳句的で読者に伝わらないという指摘を受け、以後小説の書き方を変えたという。兜子の死後は多忙もあってしばらく句作から離れたが、上述の妻の死以降、ショート・ショートと平行してふたたび句作に取り組むようになり、「渦」にも復帰、2009年には最初の句集『霧を行く』を出版している[15]。
原則として初版出版。多くが後に文庫化された。短編集は収録作品を変更して発行されていることが多い。
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第7回泉鏡花文学賞 | |
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第10・27回星雲賞日本長編部門 | |
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