| 相澤秀禎 | |
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| 出生名 | 相澤與四郎、相澤芳郎 |
| 生誕 | (1930-01-20)1930年1月20日 |
| 出身地 | |
| 死没 | (2013-05-23)2013年5月23日(83歳没) |
| 学歴 | 法政大学経済学部卒業 |
| ジャンル | カントリー・ミュージック |
| 職業 | |
| 担当楽器 | スティール・ギター |
| 活動期間 | 1948年 - 2013年 |
相澤 秀禎(あいざわ ひでよし、1930年〈昭和5年〉1月20日 -2013年〈平成25年〉5月23日[1])は、日本の実業家、芸能プロモーター。サンミュージックプロダクションの創業者で初代社長。本名は相澤芳郎(與四郎とも記されている[2])。自伝によれば姓名判断で上記の通称に改めたという。
中学生の時、先の大戦が敗戦を迎える。横須賀に進駐軍が駐留するとカントリー・ミュージックに触れるようになり、姉にせびってギターを買ってもらった。米兵とも親しくなり、フリゲート艦のエンジン洗浄のアルバイトもした[3]。三浦学苑高等学校卒業。
法政大学経済学部在学中にバンド「相澤芳郎とウエスタンキャラバン」を結成。スティール・ギター奏者兼マネジメントを担当して、米軍基地を演奏して回り、銀座のジャズ喫茶にも進出したが、ヴォーカルの山下敬二郎が移籍してしまい、バンド活動は行き詰まった[4]。そこで、1959年(昭和34年)にプレイヤーを引退して、銀座ACBのオーナーや堀威夫らが設立した東洋企画にスタッフとして加わり、守屋浩のマネージャーとなり[5]、ささきいさお、佐川満男を発掘した。
1961年(昭和36年)9月、「龍美プロ」を立ち上げて、ウエスタンキャラバン、松島アキラ、渡辺順子(黛ジュン)を手掛けたほか、64年には西郷輝彦とめぐり会い、御三家ブームを作るが、西郷は独立してしまう[6]。その後、経営に苦しみ龍美プロを倒産させ、第一プロ・岸部清社長、太平洋テレビ・清水昭社長のプロダクションなどに身を寄せて生き抜いた[6]。
1968年(昭和43年)11月27日、資本金百万円で「サンミュージック」を設立、タレント第1号は森田健作だった[6]。ほかに水前寺清子の個人マネージャーもつとめていた[6]。70年代に渡辺プロダクションが年功序列の月給制、吉本興業等が完全歩合制(仕事がなければ収入もない)を敷く中、「最低保証プラス歩合制」を導入し、新人タレントでも売れればすぐに待遇を良くした。さらに、若いタレントを組織の力でしばらずに、自由な発想、自由な日常生活ができるようにもっていった[7]。これによって、森田を手始めに、野村将希・桜田淳子・太川陽介・松田聖子・香坂みゆき・早見優・岡田有希子・酒井法子・安達祐実といったタレントをスカウト・育成し、デビューさせ、桜田・松田・早見・岡田・酒井の存在で“女性アイドルと言えばサンミュージック”という評価を確立。1980年代半ばには有力プロダクションとして名を馳せた[4]。
アイドルの有望株には、自宅2階に住まわせて寝食を共にして親代わりとなり[4][8]、暖かく家族的な事務所経営を行っていたが(在籍した来栖あつこの証言)[9]、86年に岡田が自殺(動機は未だ不明)、89年に松田が独立、92年に桜田が世界基督教統一神霊協会(統一教会)の合同結婚式に参加して芸能活動を休止、09年には酒井が覚せい剤取締法違反(所持)で起訴されるなど苦労も絶えなかった[4]。
2004年(平成16年)12月、創業以来36年間務めてきた社長の座を長男の相澤正久に譲り、自らは会長に退いた。だが、自身のブログでは生涯マネージャーを標榜し、全国の事務所オーディションに自ら足を運んで有望な若者を発掘することに意欲を燃やし続けた。
晩年は脾臓と肝臓に腫瘍が見つかり、入院と通院で治療を受けていたが[1][10]、2013年5月23日22時27分、膵臓癌のため入院先の東京都内の病院で死去。83歳没。戒名は「幸響院讃譽秀偉浄楽清居士」。28日に執り行われた通夜には桜田、松田・神田沙也加母子、酒井が参列[11]。29日の本葬ではサンミュージックグループ各社所属タレントや芸能関係者が参列する中、相澤の一番弟子とも言うべき存在だった西郷、サンミュージック第1号タレントの森田、バンドマン時代から相澤と親交が深かった堀威夫が弔辞を読み、相澤を偲んだ[12]。12月10日には、没する10日前を中心に再現ドラマなどで構成した『独占!昭和芸能界の真実 アイドル発掘王・相澤秀禎 ~泣いて笑った最後の10日間~』がフジテレビ「カスペ!」枠で放映された。
ライターの中森明夫は、「悪く言われるのを聞いたことがない。私が芸能界で出会った最高の人格者の一人だ」と記している[13]。
ライターの三田格は「相澤本人に取材した際、聖子を狂人呼ばわりしたことは忘れられず」と記している。[14]
CBS・ソニーのディレクターだった若松宗雄は、訃報に接した際に「いつも笑顔で、人に優しかった」「魑魅魍魎の芸能界ではまれな、温厚で裏表のない方でした」と偲んだ[15]。
かつての商売敵であり、ピンクレディー育ての親として知られる貫泰夫・T&C ミュージック社長も、自らのブログのなかで「相澤さんの所ほどアットホームな事務所はないだろう」と述べている。ただし、稲増龍夫の『アイドル工学』で、相澤は「ただテレビに出たいだけというような、志の低い子は採用しない」と述べるなど、タレント育成に厳しい一面も見せていた。
岡田有希子の売り込みを「楽しくて楽しくて仕方がない」と語っており[16]、最大のファンの一人だったと言える。
桜田淳子は玄人筋の予想通り『スター誕生』(日本テレビ)の決戦に残り優勝した。そのときのスカウト合戦に名乗りを上げたレコード会社、プロダクションは30数社にのぼった[17]。争奪戦は「交渉時間各社10分、代表1人」という日テレの定めたルールで繰り広げられるが、淳子の両親は芸能界と縁がないため、どの会社を選べばいいのかわからなかった[17]。最終的には淳子のあこがれの的であった森田健作と一緒に仕事がしたい、という意思が決め手となり、森田を持っていた相澤が淳子を獲得した[17]。
相澤は淳子のデビューのターゲットを渡辺プロの天地真理にしぼり、スター誕生の池田文雄プロデューサー、日本テレビ音楽出版・山田社長、専属レコード会社となったビクターから滝井制作本部長らが集まり知恵を出し合った[17]。デビュー曲の作詞は阿久悠、作曲は中村泰士に決まり、このふたりも同席した。スター"桜田淳子"はこうしてつくられた[17]。
桜田淳子獲得の前年、都はるみを移籍で獲得した[18]。はるみは相澤の事務所で生き返り、1976年(昭和51年)に『北の宿から』の大ヒットを出す。この曲は150万枚売り、その年の日本レコード大賞、日本歌謡大賞の2冠をはじめ各音楽祭のグランプリを総ナメした[18]。
のちに松田聖子として不世出のアイドルとなる福岡県久留米市出身の蒲池法子はCBS・ソニーの企画制作第6部のプロデューサーであった若松宗雄が発掘し、若松がサン・ミュージックへの所属を依頼したという点で他の所属タレントとは経緯が異なっている。
若松は1978年に開催された『ミス・セブンティーンコンテスト』九州地区大会で優勝したものの本選進出を辞退した法子のテープを聴いてスカウトを決意したものの、両親の強い反対に遭い難航する。若松は粘り強く両親との交渉を重ね、ようやく1979年1月頃に芸能界デビューの承諾を両親から貰っている。
しかしながらプロダクションへの所属に手間取り、最初は平尾昌晃の推薦もあって渡辺プロに話を持ち込んだものの、ガニ股であるとして不採用となった。さらにプロダクション尾木(尾木プロ)にも売り込んだものの、浜田朱里を売り出す予定であったため断られることになった。窮した若松が「相澤社長なら断らないだろう」とサン・ミュージックに話を持ち込むことになる。
サン・ミュージックでは1980年に中山圭子をデビューさせる予定で準備を進めており。一旦は相澤に断られるも、若松が何度か交渉を行った結果、面接を行う事が決まる。1979年6月に相澤を含むスタッフ20〜30人が集まる中で法子のプレゼンテーションが行われている。法子を初めて見た相澤は、田舎から上京してきたばかりで垢抜けず爽やかでもないという印象を持ち、男性スタッフも同様に興味を持たなかった。結局すぐに採用とはならず、やはり若松が何度か話し合いを続けていった所、直接歌唱を聴いた幹部社員で音楽プロデューサーの杉村昌子が熱烈に推した影響もあり、相澤の心が動いて契約に至った。この経緯から楽曲の制作は若松が全権を握り、メディア出演等のマネジメントはサン・ミュージックが担当するという分担になった。
しかしながら中山のデビューで手一杯であり聖子のデビューはなかなか決まらない状態であったが、中山のデビューに際しタイアップが決まっていたシャンプーが国内未認可の成分が含まれていたことが判明しCMタイアップが流れてしまう。中山は何とかデビューにこぎ着けたもののセールスに結びつかなかった。窮したサン・ミュージックは急きょ聖子のデビューを決め、1980年4月1日に「裸足の季節」でデビュー、その後大ヒットを重ねてトップアイドルへと上り詰めていった[19]。
1981年(昭和56年)、キャシー・館野一美というハワイからやって来た娘を獲得した[18]。キャシーはレコードデビュー前から「ペンタックスMG」(アサヒペンタックス)、「クリーム・ゼリー」(ハウス食品)、「バスボン・ヘアコロン・シャンプー」(資生堂)と、3社のCMモデルになるほどの売れっ子になった。その露出度合いを宣伝費に換算すると50億円に達すると、相澤ははじき出した。キャシーは芸名を早見優と名付け、82年4月にレコードデビューした[18]。
ただ、年末の新人賞レースは売り込みが今よりも大変でした。私は正直な方なので、あまり自信がないものを良いようには話せないんですね。でも、その点で岡田有希子は自信をもって売り込めました。だから、「ユッコが」「ユッコが」って売り込みに行くのが楽しくて、寝ても醒めても「ユッコ」「ユッコ」と言って回っていましたね。結果、ユッコはもちろん、スタッフのがんばりが実って、暮れの日本レコード大賞で最優秀新人賞を獲ることができました。
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