百済の里(くだらのさと)とは、宮崎県東臼杵郡南郷村(現在の同郡美郷町)で1980年代後半から1990年代(昭和60年代〜平成時代初期)に行われた町おこし事業である。南郷町に百済王に関する伝承が残されていたことから韓国との交流、扶餘の王宮を再現した「百済の館」の建設がおこなわれた。また、神門神社に所蔵していた唐花六花鏡が正倉院の宝物と同一だと判明したことから、正倉院を再現した「西の正倉院」が建設された。この事業によってほとんど観光客がいなかった南郷町に年間10万人を超える観光客が訪れることとなった。

南郷村は宮崎県の北西部に位置していた自治体である。南郷村は2006年に西郷村、北郷村と合併して美郷町となっている[1]。
村の面積の9割以上を森林が占める。かつては近隣の村の物資の集積地として栄えたが1990年代には林業の衰退、若者の流出、少子高齢化など厳しい状況となり、ピーク時に約8000人いた人口は1996年時点で3000人を割り込んでいた[2]。
南郷村には百済王族に関する伝承が残っている。660年、百済国は唐と新羅の連合軍に敗れ滅亡、王族たちは当時懇意にしていた日本へと逃れた。王族の一人である禎嘉王は筑紫国を目指すものの道中で大時化に見舞われ、禎嘉王は日向市の金ヶ浜に、長男の福智王は南に30km離れた児湯群蚊口浦に漂着した。禎嘉王は南郷村の神門に、福智王は木城村にしばらく居住していたが、やがて追討軍に討たれた。村人たちは禎嘉王を哀れに思い亡骸をすでに存在した古墳へと埋葬、神門神社の祭神とした[3]。神門神社には銅鏡三十三面や馬鐸などが伝わっており、地元では百済王族の遺産と見られていた。神門神社の銅鏡については1960年に奈良国立文化財研究所の岡崎譲治が調査しており、銅鏡が日本で作られた踏返鏡である可能性を指摘している[4]。
福智王は木城村の比木神社に祀られている。毎年1月下旬に比木神社から神門神社までの約90kmを巡行する「師走祭り」が開催される[5]。現在は車を使用するため二泊三日の日程で行われるが、戦前は九泊十日の祭事であった。その起源は不明であるが、1577年に伊東義祐が豊後から落ち延びた際、神門で祭りが行われた記録が残っている[6]。
1986年、元獣医師の田原正人が村長に就任する。当時村の財政は逼迫しており県内で一二を争う財政難の自治体であった。田原は「村おこしで交流人口を増やして喝を入れるべき」と考え村に伝わっていた百済伝説に着目した[7]。
百済に関する伝承の検証を目的として、1986年に韓国・扶餘へ歴史調査団が派遣された。当初、この調査は韓国内では十分な理解を得られなかったものの、次第に百済王族にまつわる伝説や、師走祭りをはじめとする南郷村の伝統文化が注目されるようになった。儒教的価値観の影響が強い韓国社会において、これらの文化が関心を呼び、各種メディアでも取り上げられるようになった[8]。
歴史調査団の派遣と並行して奈良国立博物館、奈良国立文化財研究所の協力のもと南郷村の学術調査も行われた[9]。調査の結果、百済王族の遺品とされていた古代の鏡群が、正倉院宝物の収蔵品や東大寺国宝鏡などと同一のものと確認、国内で発見された唐式鏡の5.7%が神門神社に収蔵されていることが判明した。また師走祭りが文化庁の調査で極めて珍しい祭りとされ、無形民俗文化財に登録された[9]。
これらの調査の結果、1968年に観光開発計画「百済の里づくり」が策定、翌年には議会で議決されている[8]。1989年には「むらおこし実行委員会」および村観光協会が設立されている[10]。
1990年に百済の王宮の建物を再現した「百済の館」や百花亭が完成、1996年には正倉院を再現した「西の正倉院」が竣工している[11]。また、西の正倉院の完成に合わせて郷土料理レストランが入る南郷茶屋、食堂街の百済小路がオープンしている[12]。1997年には大型の温泉施設「山霧」が開業している。村の公共施設や公営住宅などにも瓦屋根を使用し村全体で百済の里としての景観づくりが進められた[12]。1992年に建設された新庁舎の村民ホールの天井にも直径10mの丹青が施されている[13]。
1986年の韓国への調査団派遣以降、韓国との交流が活発化した。1990年7月には元首相の金鍾泌が来村、村は韓国からの観光客で大きくにぎわった[14]。1991年には師走祭りの学術調査のため韓国の調査団が村を訪れている[15]。また、この年には南郷村と扶餘との間で姉妹都市が締結された。南郷村が美郷町へ合併後の2008年、美郷町と扶餘との間の姉妹都市提携更新調印式が行われた[16]。
1986年から7年間で村から韓国への公式訪問は24回を数え合計342人が韓国を訪れた。韓国から村の公式訪問も27回行われ、1451人が村を訪れている[17]。
1990年までは南郷村の観光客数はほとんど0という状況であったが、1991年には年間で約12万人もの観光客が訪れた。特産品の開発が活発化し、中でも「百済王キムチ」が人気を博した。このキムチは地元の商工会が韓国でキムチの製造法を学んで売り出したものである。村はこれらの特産品に「神門」というブランド名をつけて村のブランド化を図っている[10]。

1991年に竣工した「百済の館」は、扶餘にある客舎を原寸大で復元した建物で、百済の文化を紹介する交流施設である[18]。建設に使われた瓦や敷石は韓国から取り寄せたものが使用されている。梁や軒には韓国の名工によって色鮮やかな丹青が施されている[18]。建設には韓国文化院などの協力を受けており、11月に行われた落成式には韓国の元首相、金鍾泌が来村して参加した。この建設の事業費は1億1500万円であった[19]。
館内には百済の国宝や重要文化財のレプリカが展示され、毎年春には「百済の里春祭り」が催される[20]。

1991年に村に古くからあった展望名所の恋人の丘に建築された。扶餘の落花巌にある同名の建物を原寸大で再現している。百済の館と同様に丹青が施されている。また、韓国から送られた一対の鐘が設置されており、二人の人が鐘を鳴らすことで絆がより深まるとされる[12]。
正倉院を原寸大で再現した建築物。1996年竣工。
南郷茶屋は1996年に完成した商業施設である。屋根は茅葺にする計画であったが、建設当時の南郷村には茅葺の家が残っていなかった。そこで村の年配者たちに声をかけたところ、茅葺の経験がある13人が名乗りをあげた。彼らの指揮のもと総勢300人での茅葺が行われた[21][22]。
南郷茶屋は村の観光センターとして開業し当初は郷土料理レストランが入居していた[21]。2004年に経営不振により閉鎖、2011年に1階を葬儀場として改修し葬儀場として使用されていたが2021年に廃止された。2023年には2階にカフェが開業、1階についても活用法を募集している[23]。
百済小路はかつて物資の集積地として栄えていた当時の南郷村の街並みを再現した施設で、小さな店舗が密集する食堂街となっている[8]。建物の屋根には韓国の瓦が使用され日本と韓国の建築の融合を図っている[12]。
西の正倉院や百済の館、隣接するレストラン、売店は村の第三セクターの南郷クリエイションが運営していた。不況の煽りを受けて1995年の設立以来赤字が続き、2001年には別の第三セクター、南郷温泉に経営譲渡して統合されている[24]。

1987年、南郷村の学術調査により神門神社に伝わっていた「唐花六花鏡」が正倉院宝物のものと同一であると確認されたことを受け、正倉院を原寸大で復元した「西の正倉院」の建設を計画する[25]。しかしこの計画はいくつかの問題が発生して簡単には進めることができなかった。
まず費用面の問題で、当初は必要な費用を内部の展示品等を含め5億円程度と見積もっていたが、額が膨れ上がり最終的には総額16億3000万円が必要となった。自治省の「まちづくり特別対策事業」を活用して何とか予算を工面したが、これは補助金ではなく起債であり財政的にはかなり厳しい事業となった[26]。
さらに、宮内庁が管理する正倉院図は門外不出とされており、手に入れることが難しいという問題に直面する。これは奈良国立文化財研究所の学術支援を受けることでなんとか入手に成功した[27]。
設計は寺院建築の権威である建築研究協会が正倉院図に基づいて行ったが、当時の正倉院の工法が現在の建築基準法では認められず、建設大臣が特別許可を出すまでに5年の歳月がかかっている[28]。
建築に使用する木材について、当初は村内の山の木から調達できると考えていた。しかし、正倉院の建築に使用できる木材は樹齢400年から500年のヒノキであり、村どころか県内からも調達は不可能であった。元林野庁の宮崎県知事に相談し全国調査を開始、3年後に木曾の国有林の天然ヒノキを確保することができた[25]。建築費10億円のうちの約半分をこの木材代金が占めている[26]。
1993年に起工式が行われ、建築の最中も木材の搬入時の御木曳式をはじめ立柱式や上棟式など節目節目に村民総出の行事を行っている[29][25]。着工から3年後の1996年4月に完成し翌月に落成式典が開催された[25]。
西の正倉院は神門神社の宝物などを展示する施設となっている。本物と同じく北倉、中倉、南倉に分けられ、北倉では、唐花六花鏡をはじめとする銅鏡や1000本を超える鉄製の矛など神門神社に所蔵されていた宝物が展示されている。南倉では師走祭りのコーナーとなっており、紹介ビデオが放映されている[30]。本物の正倉院では見ることができない建物の内部構造も確認することができる[31]。