| 田中 光顕 たなか みつあき | |
|---|---|
| 生年月日 | 1843年11月16日 (天保14年閏9月25日) |
| 出生地 | |
| 没年月日 | (1939-03-28)1939年3月28日(95歳没) |
| 死没地 | |
| 前職 | 武士(土佐藩士) 土佐藩家老深尾氏家臣 官僚 |
| 称号 | 従一位 伯爵 |
| 配偶者 | 田中伊輿子 田中孝子 |
| 親族 | 金沢正敏(祖父) 浜田金治(父) 那須信吾(叔父) 田中遜(養嗣子) 田中光素(孫) 田中光保(孫) 田中光季(孫) 田中光常(孫) 村田光義(孫) 村田尚義(孫) 村田明義(孫) |
| 在任期間 | 1898年2月9日 -1909年6月16日 |
| 天皇 | 明治天皇 |
| 在任期間 | 1885年12月22日 -1889年12月24日 |
| 在任期間 | 1887年5月14日 -1888年12月3日 |
| 内閣 | 第1次伊藤内閣 |
| 在任期間 | 1885年12月22日 - 1888年4月30日 |
| 在任期間 | 1890年7月10日 -1891年4月25日[1] |
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田中 光顕(たなか みつあき、1843年11月16日〈天保14年閏9月25日〉-1939年〈昭和14年〉3月28日[2])は、日本の政治家[3]。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。
天保14年(1843年)閏9月25日、土佐藩の家老深尾家々臣である浜田金治と金沢正敏の娘である献の長男として、土佐国高岡郡佐川村(現:高知県高岡郡佐川町)に生まれた。
土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した。叔父の那須信吾は吉田東洋暗殺の実行犯だが、光顕も関与した疑いもある。しかし文久3年(1863年)、同党が八月十八日の政変を契機として弾圧されるや謹慎処分となり、翌元治元年(1864年)には同志を集めて脱藩。のち高杉晋作の弟子となって長州藩を頼る。第一次長州征伐後に大坂城占領を企図したが、新撰組に摘発されたぜんざい屋事件を起こして大和十津川へ逃れる。薩長同盟の成立に貢献して、薩摩藩の黒田清隆が長州を訪ねた際に同行した。第二次長州征伐時では長州藩の軍艦丙寅丸に乗船して幕府軍と戦った。後に帰藩し中岡慎太郎の陸援隊に幹部として参加。
慶応3年(1867年)、中岡が坂本龍馬と共に暗殺(近江屋事件)されると、その現場に駆けつけて重傷の中岡から経緯を聞く。中岡の死後は副隊長として同隊を率い、鳥羽・伏見の戦い時では高野山を占領して紀州藩を威嚇(高野山挙兵)、戊辰戦争で活躍した。
維新後は新政府に出仕。岩倉使節団では理事官として参加し欧州を巡察。西南戦争では征討軍会計部長となり、1879年(明治12年)に陸軍省会計局長、のち陸軍少将。また元老院議官や初代内閣書記官長、警視総監、学習院院長などの要職を歴任した。1887年(明治20年)、子爵を授けられて華族に列する。1898年(明治31年)、宮内大臣。約11年間にわたり、同じ土佐出身の佐々木高行、土方久元などと共に、天皇親政派の宮廷政治家として大きな勢力をもった。1907年(明治40年)9月23日、伯爵に陞爵。1909年(明治42年)、収賄疑惑の非難を浴びて辞職、政界を引退した。
政界引退後は、高杉晋作の漢詩集『東行遺稿』の出版、零落していた武市半平太の遺族の庇護など、日本各地で維新烈士の顕彰に尽力している。また志士たちの遺墨、遺品などを熱心に収集し、それらは彼が建設に携わった茨城県大洗町の常陽明治記念館(現:幕末と明治の博物館)、東京都多摩市の多摩聖蹟記念館(現:旧多摩聖蹟記念館)、高知県佐川の青山文庫にそれぞれ寄贈された。その他、1901年(明治34年)に日本漆工會の2代目会頭に就任、久能山東照宮の修理をはじめ漆器の改良などの文化事業を積極的に行っている。
晩年は静岡県富士市富士川「古渓荘」(現野間農園)、同県静岡市清水区蒲原に「宝珠荘」(後に青山荘と改称)、神奈川県小田原市に南欧風の別荘(現在の小田原文学館)等を建てて隠棲した。口述筆記による回顧談『維新風雲回顧録』(大日本雄弁会講談社、1928年)を出版。他に『維新夜話』、『憂国遺言』が遺されている。
1928年(昭和3年)には、昭和天皇の即位記念として、坂本龍馬の「エヘンの手紙」を含む維新志士の資料50数点を御物として寄贈している[4]。しかし昭和天皇に男子がなかなか出生しないことから、側室をもうけるべきだと主張。その選定を勝手に進めるなどして、天皇側近と対立した。また、昭和維新運動に理解を示し、昭和11年(1936年)の二・二六事件の際には、事件を起こした青年将校らの助命願いに浅野長勲と動いたが、叶わなかった。
1939年(昭和14年)3月28日、静岡県蒲原町(現:静岡市清水区蒲原)の別荘の青山荘にて風邪から肺炎を併発し95歳で没した[5][6]。
| 受章年 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1877年(明治10年)12月8日 | 勲三等旭日中綬章[13] | ||
| 1882年(明治15年)12月29日 | 勲二等旭日重光章[13][22] | ||
| 1889年(明治22年)11月25日 | 大日本帝国憲法発布記念章[13][23] | ||
| 1892年(明治25年)12月29日 | 勲一等瑞宝章[24] | ||
| 1900年(明治33年)5月10日 | 旭日大綬章[25] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 旭日桐花大綬章[26] | ||
| 1906年(明治39年)4月1日 | 明治三十七八年従軍記章[27] | ||
| 1915年(大正4年)11月10日 | 大礼記念章[28] | ||
| 1932年(昭和7年)1月14日 | 御紋付銀杯[29] |
| 受章年 | 国籍 | 略綬 | 勲章名 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1899年(明治32年)7月4日 | サンモーリスエラザル第一等勲章[30] | |||
| 1899年(明治32年)7月4日 | 頭等第三双竜宝星(中国語版)[30] | |||
| 1901年(明治34年)3月13日 | ダンネブロ勲章グランクロワー[31] | |||
| 1901年(明治34年)4月16日 | レジオンドヌール勲章グラントフィシエ[32] | |||
| 1904年(明治37年)11月29日 | 大勲位李花大綬章[33] | |||
| 1907年(明治40年)2月9日 | 大勲位瑞星大綬章[34] | |||
| 1908年(明治41年)10月19日 | 頭等第二双竜宝星[35] |
| 公職 | ||
|---|---|---|
| 先代 土方久元 | 1918年 - 1919年 | 次代 (欠員→)金子堅太郎 |
| 先代 都筑馨六(→欠員) | 1898年 | 次代 (欠員→)清岡公張 |
| 先代 花房義質 | 1895年 - 1897年 | 次代 堤正誼 |
| 先代 芳川顕正 花房義質 | 1893年 - 1895年 1891年 - 1892年 | 次代 花房義質 芳川顕正 |
| 先代 渡辺昇 | 1887年 - 1888年 (渡辺昇と共同) | 次代 渡辺昇 |
| 先代 岩村通俊 | 1884年 - 1885年 | 次代 (廃止) |
| 先代 土方久元 | 1885年 | 次代 (廃止) |
| 先代 (新設) | 1871年 - 1874年 戸籍正 1871年 | 次代 杉浦譲 |
| 日本の爵位 | ||
| 先代 陞爵 | 伯爵 田中(光顕)家初代 1907年 - 1932年 | 次代 田中遜 |
| 先代 叙爵 | 子爵 田中(光顕)家初代 1887年 - 1907年 | 次代 陞爵 |
| 宮内卿 | |
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| 宮内大臣 | |
| 宮内府長官 | |
| 宮内庁長官 | |
| 大日本帝国憲法下 | |
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| 日本国憲法下 |
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学校法人学習院院長(学習院長:第6代:1892年 - 1895年) | ||||||||
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