| 琉球大学 | |
|---|---|
千原キャンパス(2006年3月) | |
| 大学設置/創立 | 1950年 |
| 学校種別 | 国立 |
| 設置者 | 国立大学法人琉球大学 |
| 本部所在地 | 沖縄県中頭郡西原町字千原1番地 北緯26度15分9.73秒東経127度45分59.55秒 / 北緯26.2527028度 東経127.7665417度 /26.2527028; 127.7665417座標:北緯26度15分9.73秒東経127度45分59.55秒 / 北緯26.2527028度 東経127.7665417度 /26.2527028; 127.7665417 |
| キャンパス | 千原(西原町) 西普天間(宜野湾市) |
| 学部 | |
| 研究科 | |
| ウェブサイト | www |
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琉球大学(りゅうきゅうだいがく、英語: University of the Ryukyus)は、沖縄県中頭郡西原町に本部を置く国立大学。略称は琉大(りゅうだい)。
沖縄県に所在する唯一の国立大学で、日本最南端かつ最西端の総合大学である(国立新制総合5大学)。また、国立大学法人が1県1学の県において本部が郡部に置かれている唯一の大学でもある。

戦前の沖縄県における旧制高等教育機関(旧制大学や旧制高等学校・旧制専門学校など)は、太平洋戦争下の1943年(昭和18年)と1944年(昭和19年)に、師範教育令の改正でそれぞれ高等教育機関へ移行した、教員養成機関の沖縄師範学校と沖縄青年師範学校の2校のみであったが、1945年(昭和20年)には両校とも沖縄戦に巻き込まれて破壊、廃止された[2]。
アメリカ合衆国による沖縄統治が開始した直後の1946年、米国軍政府(後の米国民政府)は具志川村(現うるま市)に小学校等の教員養成を目的とした沖縄文教学校を開学した。また、外国語教育を施す沖縄外国語学校も開校した。1947年には本土と同じく6・3制義務教育を基本とする学制改革が実施され、また同年に大学設置要求が起きると、米国軍政府教育部は沖縄民政府に対して、1948年にジュニアカレッジの設立を指令した。そして1950年(昭和25年)5月22日、沖縄最初の大学として琉球大学が開学した[3]。
大学敷地選定には沖縄側関係者の主体的な関与があり、沖縄民政府文教部長であった山城篤男は、大学を琉球の政治・文化の中心であった首里城跡に置くことが象徴的意義を持つと考え、米国琉球軍政本部教育部長アーサー・E・ミードや連合軍最高司令部琉球局長ジョン・H・ウェッカリング准将らを同地に案内し、最終的に「文化的事業に最もふさわしい場所」として決定された[4][5][6]。
以上のように、本土の新制国立大学の多くが旧制高等教育機関を前身とするのと異なり、琉球大学は沖縄を占領統治したアメリカ合衆国の意向と沖縄側からの設置運動により設立された、特殊な経緯を有する大学である。初期の琉球大学は、地域社会への実践的貢献を目指し、アメリカ合衆国のランドグラント大学をモデルとし、農業、工業、教員養成など、沖縄社会の復興と発展に直結する分野の教育・研究が重視されていた[4][5]。
| 全ての座標を示した地図 -OSM |
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1950年(昭和25)の琉球大学開学時には、那覇市首里の首里城跡及びその周辺域に設置された(首里キャンパス)。
首里キャンパスについては、1970年(昭和45)に琉球政府文化財保護委員会が首里城の復元構想を提案し、1973年(昭和48)に発足した「首里城復元期成会」で首里城の復元が議論されていたことに加え、狭隘で将来の発展が困難で、1972年(昭和47)の国立移管後の大学として相応しい広さのキャンパスへの移転が求められていたことから、1977年(昭和52)から1984年(昭和59)にかけて西原町などにある千原キャンパスと上原(うえはら)キャンパスに移転した[15][16]。移転後に首里キャンパスは解体され、グラウンドは沖縄県立芸術大学に譲渡された。
上原キャンパスについては、病院及び医学部の施設・設備の老朽化、米軍基地跡地の利用、沖縄本島中部に高度医療拠点の設置の観点から、2025年(令和7)に宜野湾市の西普天間キャンパスに移転した[17]。
2025年(令和7)時点では「千原(せんばる)キャンパス」と「西普天間(にしふてんま)キャンパス」の2キャンパスとなっており、敷地は西原町・中城村・宜野湾市の3市町村にまたがっている。2つのキャンパスの総面積は約126万平方メートルで、東京ドーム約27個分の敷地面積である。うち、西原キャンパスは112万平方メートルである。
千原キャンパスの中央に千原池があり、この池を境に南北に学部が配置されている。千原池の東・南側(中城村側)に国際地域創造学部・人文社会学部・教育学部・理学部・大学事務局・中央生協などが、北側(宜野湾市側)に農学部・工学部・北食堂・千原寮などがある。
千原キャンパス構内には環状の片側1車線道路(通称「ループ道路」)が整備され、3つある構外との出入り口(東口、北口、南口)および附属小中学校前、保健管理センター前の合計5箇所に信号機が設置されている。キャンパスは那覇中心街から離れた場所にあり、かつ公共交通機関がバスのみであるため(2009年(平成21年)1月時点、路線バスは北口に7系統、東口に3系統)、多くの教職員・学生が自動車や原付バイクなどで通勤・通学している。自動車の駐車スペースを確保するため入構許可制を採っており、入構証を自動車の見える場所に提示することによって、入構の許可・不許可を判断することになっている。なお、原則として片道2キロメートル以内の通勤・通学者には入構証は発行されない。入構証がない場合、校門守衛において入構を拒否される。
構外との出入り口は、千原キャンパスの敷地がまたがる3つの市町村に各々設置されており、宜野湾市の北口(宜野湾口)、西原町の南口(西原口)、中城村の東口(中城口)があるが、すべてが正門とされている。しかし夜間や休日には南口と東口は閉門されるものの、北口は路線バスの乗り入れもあり開門されている。なお、大学本部は西原町の地番に所在しているため、大学の住所は西原町となっている。また、東口側に教育学部附属の小学校と中学校がある。
2015年に返還されたキャンプ・フォスター西普天間住宅地区の跡地に位置する。また、西普天間住宅地区全体の区画整理事業終了後(2027年度以降)、宜野湾市において住居表示を行う予定であり、その際に琉球大学側はキャンパス名を再検討するとしている[19]。
沖縄県中頭郡西原町字上原207番地(地図を表示)
キャンパスの名称は異なっているが、千原キャンパスからは住宅地を挟んでいるものの、わずか230メートルしか離れていなかった。ただしバス停は別々であった。

21世紀COEプログラムには1件が採択されている。

大学が運営する学寮として千原寮(せんばるりょう)が設置されている。千原キャンパスの北口(宜野湾口)のそばに位置し、男子寮6棟(南星棟・北辰棟・海邦棟・男子混住棟・男子新混住棟・男子新棟)と女子寮4棟(紫陽花棟・女子混住棟・女子新混住棟・女子新棟)および共用棟と呼ばれる学寮事務室と自販機を備えた談話室(ホール)からなる。
全棟鉄筋コンクリート造で、全部屋個室。居住者専用駐車場が設けられている。
窓口として地域連携企画室や研究推進機構を設けている[21]。具体的な産学官連携の事例としては、オリオンビールと国連持続可能な開発目標(SDGs)実現への連携協定を締結[22]するなどしている。
留学や研究で交流協定を結んでいる海外の大学・機関が、大学間協定では84、部局間協定では42ある(2020年10月5日時点)[23]。
琉球大学を含む九州・沖縄地区の11国立大学法人(九州大学、九州工業大学、福岡教育大学、佐賀大学、長崎大学、熊本大学、大分大学、宮崎大学、鹿児島大学、鹿屋体育大学、琉球大学)が2023年3月21日に覚書を締結した大学間連携[24]。
キャンパス付近を通る沖縄自動車道上に「琉大入口」バス停が設けられており、同道路経由の高速バスが停車する。
| 学部 | 国際地域創造学部 | 人文社会学部 | 観光産業科学部 | 教育学部 | 理学部 | 医学部 | 工学部 | 農学部 | ||||
|---|---|---|---|---|---|
| 大学院 | 人文社会科学研究科 | 地域共創研究科 | 法務研究科 | 医学研究科 | 保健学研究科 | 理工学研究科 | 農学研究科 |鹿児島大学大学院連合農学研究科 | 教育学研究科 | ||||
| 専攻科 | 特別支援教育特別専攻科 | ||||
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