本項では、日本の無任所大臣について詳述する。略称は無任相。
日本において無任所大臣は、内閣総理大臣や各省の大臣が所管しない事務を担当する国務大臣のことである。広義には各省大臣以外の大臣を指し、内閣官房長官、国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣も含まれるが、狭義ではこれらを除いた、どの行政機関も管掌しない大臣を指す。他国にも、同様の制度が存在する。
なお、この語は公式な法令用語ではなく、通称あるいは学問上の呼称にとどまる。広義の無任所大臣の対義語として「主任の大臣」がある。
かつて旧憲法下においては、内閣官制(明治22年勅令第135号)第10条は、「各省大臣ノ外特旨ニ依リ国務大臣トシテ内閣員ニ列セシメラルヽコトアルヘシ」と規定しており、この規定によって無任所大臣が置かれていた。しかしここでいう「国務大臣」は正式な官名ではない。旧憲法における国務大臣とは各省大臣(内閣総理大臣を含む)の総称として使用されており、現憲法下で行われているような、まず国務大臣として任命され、その後に各省大臣を命ぜられるという形式ではなかった。そのため、この内閣官制第10条でいう「国務大臣トシテ」とは内閣構成員たる各省大臣と同等の立場とすることを意味しているのにとどまり、国務大臣という名称の官に任ずることを意味しているのではない。
従って、実際の発令においては、例えば枢密院議長の職にある者は枢密院議長たる本官の資格において「特ニ内閣ニ列セラル」との勅書が下されることにより、内閣の構成員(閣僚)となっていたのであって、「国務大臣ニ任ズ」という発令が行われていたのではない。このような発令により閣僚となった者については、内閣の崇班に列したとの意味合いから「班列(はんれつ)」と呼ばれる慣例になっていた。
別に本官をもたない者(いわゆる民間人)が班列とされた場合はなかったためこのような形式でも支障はなかったが、制度を厳格に規定することとなり、「内閣官制第十条ノ規定ニ依リ国務大臣トシテ内閣員ニ列セシメラルル者ニ関スル件」(昭和15年勅令第843号)が制定され、1940年12月6日以降は「任国務大臣」との発令が行われるようになった。これにより班列と称することはなくなった。
現憲法下では、「内閣法」(昭和22年法律第5号)に無任所大臣に関する規定が継承されている。
内閣法第3条第1項は、「各大臣は、別に法律の定めるところにより、主任の大臣として、行政事務を分担管理する」と定めているが、続く第2項で「前項の規定は、行政事務を分担管理しない大臣の存することを妨げるものではない」としており、無任所大臣を置くことを認めている。ただし、このような大臣を正式にどのように呼称するかの規定がないため、「無任所大臣」の用語は通称・俗称として扱われている。
この場合、有任所か無任所かの区別は「分担管理」という用語の有無でなされており、この内閣法の規定を受け内閣府設置法・国家行政組織法では各省大臣が行政事務を「分担管理する」と明記しているのに対し、広義と狭義とで属性の分かれる3ポスト(内閣官房長官、国家公安委員会委員長、内閣府特命担当大臣)についてはいずれも関係法令に「分担管理」をするとの文字が用いられていないことから、法令の分野ではそれら3ポストを無任所大臣としているものと解される。他方、学術的には、「分担管理」の語の有無にかかわらず、一定の組織の責務を担っているという実態に着目してそれら3ポストを無任所大臣とはしないとする考え方もある。
| 氏名 | 内閣 | 役職等 | 期間 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 西尾末廣 | 片山内閣 | 内閣官房長官[1] | 1947年6月1日 - 1948年3月10日 | 内閣官房長官兼官依願免後、片山内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 芦田内閣で国務大臣再任(副総理) |
| 林平馬 | 1947年6月1日 - 1947年11月25日 | 国務大臣依願免官 | ||
| 米窪滿亮 | 労働省設置準備委員会会長[2](6月10日以降) | 1947年6月1日 - 1947年9月1日 | 労働省の設置に伴い労働大臣就任 | |
| 笹森順造 | 1947年10月15日 - 1948年2月1日 | 復員庁の廃止に伴い同庁総裁の地位喪失(無任所) 賠償庁の設置に伴い同庁長官就任 | ||
| 竹田儀一 | 1947年12月4日 - 1948年1月7日 | 地方財政委員会の設置に伴い同委員会委員長就任 | ||
| 苫米地義三 | 芦田内閣 | 内閣官房長官[3] | 1948年3月10日 - 1948年10月15日 | 片山内閣総辞職により国務大臣の地位喪失(運輸大臣) 内閣官房長官兼官依願免後、芦田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 |
| 西尾末廣 | 副総理[4] | 1948年3月10日 - 1948年7月6日 | 国務大臣依願免官 | |
| 森幸太郎 | 第2次吉田内閣 | 1948年10月19日 - 1949年2月16日 | 第2次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 第3次吉田内閣で国務大臣再任(農林大臣) | |
| 林讓治 | 第3次吉田内閣 | 副総理、科学技術行政協議会副会長 | 1950年6月28日 - 1951年3月13日 | 第3次吉田内閣第1次改造に伴う厚生大臣退任により無任所(副総理) 国務大臣依願免官後、衆議院議長就任 |
| 益谷秀次 | 1951年7月4日 - 1951年12月26日 | 第3次吉田内閣第3次改造に伴い国務大臣依願免官 | ||
| 大橋武夫 | 警察予備隊担当大臣[5] | 1951年12月26日 - 1952年8月1日 | 第3次吉田内閣第3次改造に伴う法務総裁退任により無任所(警察予備隊担当) | |
| 山崎猛 | 1951年12月26日 - 1952年9月2日 | 第3次吉田内閣第3次改造に伴う運輸大臣退任により無任所 経済審議庁長官就任 | ||
| 岡崎勝男 | 1951年12月26日 - 1951年12月27日 | 非・国務大臣の内閣官房長官から国務大臣就任(無任所) 賠償庁長官就任 | ||
| 1952年4月28日 - 1952年4月30日 | 賠償庁の廃止に伴い同長官の地位喪失(無任所) 外務大臣就任 | |||
| 大野木秀次郎 | 1952年9月2日 - 1952年10月30日 | 第3次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 第4次吉田内閣で国務大臣再任(無任所) | ||
| 中山壽彦 | 1952年9月2日 - 1952年10月30日 | 第3次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 | ||
| 山縣勝見 | 1952年9月2日 - 1952年10月30日 | 第3次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 | ||
| 大野木秀次郎 | 第4次吉田内閣 | 1952年10月30日 - 1953年5月21日 | 第4次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 | |
| 林屋龜次郎 | 1952年10月30日 - 1953年5月21日 | 第4次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 | ||
| 緒方竹虎 | 副総理 | 1953年3月24日 - 1953年5月21日 | 内閣官房長官退任により無任所(副総理) 第5次吉田内閣で国務大臣再任(副総理) | |
| 安藤正純 | 第5次吉田内閣 | [6] | 1953年5月21日 - 1954年11月24日 | 国務大臣依願免官 |
| 緒方竹虎 | 副総理[7] | 1953年5月21日 - 1954年7月27日 | 北海道開発庁長官就任 | |
| 大野伴睦 | 1953年5月21日 - 1954年1月14日 | 北海道開発庁長官就任 | ||
| 大野木秀次郎 | 1953年5月21日 - 1954年12月10日 | 第5次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 | ||
| 加藤鐐五郎 | 1954年1月9日 - 1954年4月22日 | 法務大臣就任 | ||
| 1954年6月19日 - 1954年12月10日 | 法務大臣退任により無任所 第5次吉田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 | |||
| 石井光次郎 | 第1次岸内閣 | 副総理(5月20日以降) | 1957年2月25日 - 1957年7月10日 | 第1次岸内閣改造に伴い行政管理庁長官及び北海道開発庁長官就任 |
| 池田勇人 | 第2次岸内閣 | 1958年6月12日 - 1958年12月31日 | 国務大臣依願免官 | |
| 河野一郎 | 第3次池田内閣 | 副総理、東京オリンピック担当大臣 | 1964年7月18日 - 1964年11月9日 | 第3次池田内閣改造に伴う建設大臣、近畿圏整備長官及び首都圏整備委員会委員長退任により無任所 第3次池田内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 |
| 第1次佐藤内閣 | 1964年11月9日 - 1965年6月3日 | 第1次佐藤内閣改造に伴い国務大臣依願免官 | ||
| 三木武夫 | 第1次田中角栄内閣 | 副総理(8月29日以降) | 1972年7月7日 - 1972年12月22日 | 第1次田中角栄内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 第2次田中角栄内閣で国務大臣再任(環境庁長官) |
| 西村英一 | 第2次田中角栄内閣 | 1974年6月24日 - 1974年6月25日 | 6月26日国土庁の設置に伴い同庁長官就任 | |
| 牛場信彦 | 福田赳夫内閣 | 対外経済担当大臣[8](12月10日以降) | 1977年11月28日 - 1978年12月7日 | 福田赳夫内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 |
| 金丸信 | 第3次中曽根内閣 | 副総理、民間活力導入担当大臣[9] | 1986年7月22日 - 1987年11月6日 | 第3次中曽根内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 |
| 山花貞夫 | 細川内閣 | 政治改革担当大臣[10] | 1993年8月9日 - 1994年4月28日 | 細川内閣総辞職により国務大臣の地位喪失 |
| 小里貞利 | 村山内閣 | 阪神・淡路大震災復興対策担当大臣[11] | 1995年1月20日 - 1995年8月8日 | 北海道開発庁長官及び沖縄開発庁長官退任により無任所(震災復興対策担当) 村山内閣改造に伴い国務大臣依願免官 |
| 柳澤伯夫 | 小渕内閣 | 金融再生担当大臣[12] | 1998年10月23日 - 1998年12月15日 | 国土庁長官退任に伴い無任所(金融再生担当) 金融再生委員会の設置に伴い同委員長就任 |
| 笹川堯 | 第2次森内閣 | 総合科学技術会議担当大臣 | 2000年12月5日 - 2001年1月6日 | 中央省庁再編に伴い科学技術政策担当大臣就任 |