| 時代 | 戦国時代 -安土桃山時代 |
|---|---|
| 生誕 | 永正10年 10月13日(1513年11月10日) |
| 死没 | 天正7年4月27日(1579年5月22日) |
| 改名 | 光康→了覚(法名) |
| 別名 | 号:後蓮光院、一字名:丁 |
| 官位 | 従一位、准大臣 |
| 主君 | 後柏原天皇 →後奈良天皇 →正親町天皇 |
| 氏族 | 烏丸家 |
| 父母 | 父:烏丸冬光、母:鴨信祐の娘 |
| 兄弟 | 資蔭、光康、女(朝倉景高室) |
| 子 | 女(広橋国光室)、男、光宣、女(正親町季秀室)、女(五条為経室)、女(広橋兼勝室) |
| 花押 | |
| テンプレートを表示 | |
烏丸 光康(からすまる みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿。官位は従一位・准大臣[1]。
永正10年(1513年)10月13日、烏丸冬光の子として誕生[2]。
将軍・足利義晴と親しく、大永7年(1527年)には近江にいた義晴のもとに下向した[2]。
享禄4年(1531年)1月、義晴が従三位・権大納言に昇進した際、勅使・清原業賢が朽木に下向してその宣旨を下したが、その対面時には光康が申次を務めていた[3]。
天文16年(1547年)3月、足利義晴・義輝父子が北白川城に籠城すると、光康も日野晴光や高倉永家、町資将、賀茂在留ら公家衆とともに付き従った[4]。
永禄12年(1569年)8月14日、光康は嫡子の光宣、山科言継、飛鳥井雅春と共に、岐阜城の織田信長のもとに赴き、鳥一羽、太刀(金作り)、馬代(金十両)、居唐金鉢を贈った[5]。
元亀元年(1570年)8月27日、光康は正親町実彦はと共に、野田・福島に陣取る三好三人衆と交戦中の信長のもとに赴いた[6]。
元亀2年(1571年)4月14日、嫡子・光宣に足利将軍家から嫁いでいた入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した[7]。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[7]。また、光宣の出奔により、光康は閉門処分となった。
元亀3年(1572年)9月、信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置を妥当とするものの、光康は赦免するように申し上げたと記している[8]。
天正7年(1579年)4月27日、薨去[2]。享年67(満65歳没)[2]。