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烏丸光康

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
烏丸 光康
時代戦国時代 -安土桃山時代
生誕永正10年 10月13日1513年11月10日
死没天正7年4月27日1579年5月22日
改名光康→了覚(法名)
別名号:後蓮光院、一字名:丁
官位従一位准大臣
主君後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇
氏族烏丸家
父母父:烏丸冬光、母:鴨信祐の娘
兄弟資蔭光康、女(朝倉景高室)
女(広橋国光室)、男、光宣、女(正親町季秀室)、女(五条為経室)、女(広橋兼勝室)
花押烏丸光康の花押
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烏丸 光康(からすまる みつやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿官位従一位准大臣[1]

生涯

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永正10年(1513年)10月13日、烏丸冬光の子として誕生[2]

将軍・足利義晴と親しく、大永7年(1527年)には近江にいた義晴のもとに下向した[2]

享禄4年(1531年)1月、義晴が従三位権大納言に昇進した際、勅使・清原業賢朽木に下向してその宣旨を下したが、その対面時には光康が申次を務めていた[3]

同年、越前に下向した[2]

天文6年(1537年)2月19日、参議となる[1]

天文16年(1547年)3月、足利義晴・義輝父子が北白川城に籠城すると、光康も日野晴光高倉永家町資将賀茂在留ら公家衆とともに付き従った[4]

永禄12年(1569年)8月14日、光康は嫡子の光宣山科言継飛鳥井雅春と共に、岐阜城織田信長のもとに赴き、鳥一羽、太刀(金作り)、馬代(金十両)、居唐金鉢を贈った[5]

元亀元年(1570年)8月27日、光康は正親町実彦はと共に、野田・福島に陣取る三好三人衆と交戦中の信長のもとに赴いた[6]

元亀2年(1571年)4月14日、嫡子・光宣に足利将軍家から嫁いでいた入江殿(将軍・足利義昭の姉)が急死すると、後難を恐れた光宣は出奔した[7]。これに激怒した義昭は、同月28日に一色藤長らに烏丸邸を襲わせている[7]。また、光宣の出奔により、光康は閉門処分となった。

元亀3年(1572年)9月、信長が義昭に対し、異見十七ヶ条を提出した。信長はその中で、光宣に対する処置を妥当とするものの、光康は赦免するように申し上げたと記している[8]

天正7年(1579年)4月27日、薨去[2]。享年67(満65歳没)[2]

脚注

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  1. ^ab公卿補任
  2. ^abcde「烏丸光宣」デジタル版 日本人名大辞典+Plus
  3. ^榎原 & 清水 2017, p. 325.
  4. ^『足利季世記』巻4「公方御入城ノ事」
  5. ^『言継卿記』永禄12年8月14日条
  6. ^『言継卿記』元亀元年8月27日条
  7. ^ab木下 2014, 「足利義昭期の昵近公家衆と山科言継をめぐって」
  8. ^『現代語訳 信長公記』- 太田牛一 著、中川太古 訳 - 新人物文庫 - 189 - 194ページ

参考文献

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関連項目

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烏丸家第4代当主
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